ちょっとだけ羨ましくて
いつの間にか、誰かの背中を目で追っていた。
可南子には見慣れた後ろ姿。けれど、見慣れた経緯を考えると赤面ものの背中。
密かに隠れて追いかけ回していた背中がそこにある。今では堂々と声をかけて構わないはずの背中。
名前を呼べば――
呼びかけて、口をつぐむ。
挙げかけていた手を止めながら。
伸ばしかけた指先はもう一度通学カバンの取っ手を握る。
声をかけなかった理由は、小走りになった後ろ姿の先にあった。
「お待たせしました、お姉さま」
「慌てないの。そんなところで走ったりしてははしたないわ。それに、それほど待っていたわけではないもの」
祐巳さまを待っていたのは祥子さま。
スールなのだから当たり前と言えば当たり前の情景。
祐巳さまを通り越しながら挨拶を交わしていくクラスメートたちの眼差しも、羨望や憧憬のものこそあれ、不審なものはない。
二人は仲睦まじく、寄り添うように並んで下校していく。
だからといって、声をかけていけないわけではない。祐巳さまであれ祥子さまであれ、快く挨拶をしてくれるだろうことはわかっている。三人で一緒に帰ることになるかも知れない。
それでも、可南子には声はかけられなかった。
声をかけてはいけないような気がする。二人の間に入ってはいけない。そんな気がするのだ。
考えていると、少し歩みが遅くなる。
歩くペースを戻しながら、可南子は校門を出ると祐巳さま達とは反対の方に曲がる。
こちらでは遠回りになるのだけれど、可南子の歩くペースでは二人を追い抜かしてしまいかねない。そうなれば、まず間違いなくどちらかが可南子に気付くだろう。
当然、あの二人のことだから可南子を無視するようなことはないだろう。
認めるのは癪だけれど、自分のこの身長だ、わざとでもなければ見逃されるわけもない。
「可南子ちゃん、ごきげんよう」
そう言われると返す言葉が見つからない。
「祐巳さま、祥子さま、ごきげんよう」これでいいのだけれど。だけど、それ以上の言葉が見つからない。何を言えばいいのかわからない。
多分、おかしな所に考えがはまりこんでいるのだろうと自分でも思う。極々簡単なことなのに、考えれば考えるほどワケがわからなくなっていくことが時々あるけれど。今がまさにその状態だ。
変に気を使っている、と言うより気を回しすぎている。言ってしまえば自意識過剰。
それはわかっている。わかっているけれど、一度気になってしまうともうどうしようもないのが自分の性分だとも知っている。
基本的に粘着質なのだな、と自分でも思っている。それでもここに来てからは、いや、文化祭が終わってからはかなりマシになったのだ。
ひどい状態の時は……あまり思い出したくない。
バス停でバスを待っている間も、文庫本を取り出して開いている。内容は…あんまり頭に入ってこない。
なんだか、幸せそうな二人に近づけない自分がものすごく小心者に思える。それは間違いではないのだろうけど、同じ小心者でも捻った方向というのはとても嫌だ。
情けないような、わびしいような気持ちで可南子はバスを降りた。
定期入れをカバンの中に戻した際に、ふと携帯が目に留まる。
学校では使用禁止なのでカバンの中から出したことはないけれど、時々お母さんが急の出張になることがあるので、その連絡用にカバンの中に入れているのだ。
電源を入れてメールを確認。
予感は当たっていた。
一晩留守にするので適当にしておいて欲しいという、お母さんからのメール。
慣れたもので、可南子は晩ご飯の算段を考えながら歩き始める。一人だから、それこそ適当なものを作るか、それとも店屋物か。
少し考えて、家に帰る前にそのまま夕食の買い物に行くことにした。
財布を確かめようとして可南子の足が止まる。
ない。財布がない。
お昼には確かにあったのだ。昼食の後にジュースを飲んだのだから、財布の無かった訳がない。
お弁当を食べて……ジュースを飲んで……
自販機の所に日出実さんと笙子さんがいた。
日出実さんに世間話を持ちかけられて……
その時に財布はポケットに入れたはず。
そして教室に戻って……
思い出した。
日出実さんに話しかけられたときに、ついいつもとは違うポケットに財布を入れた。そして、午後の授業中に収まりの悪さを感じたので、ポケットから出して机の中に一旦入れた。その授業が終わったらカバンに入れておくつもりだったのに、そのまま忘れてしまったのだ。
さらにまずいことに、財布に繋げたキーホルダーに家の鍵がついているのだ。
このままでは夕食どころか家にも入れない。
持っているのはバスの定期券だけ。
可南子は間髪入れず振り返る。迷っている場合じゃない。学校に財布を取りに行くしかないのだ。
もう暗くなりはじめた時間だけれども、幸か不幸かリリアンは二十四時間体制で警備員が常駐している。敷地内にはシスターの寮もあるので門を閉じてしまうこともない。家の鍵を忘れたという用件なら、入れてもらえるだろう。
とにかく、可南子はバス停まで戻った。
バスの時間を確認すると、リリアン行きは夜にはかなり少なくなるようだった。基本的に、リリアン学園生の利用がほとんどなのだろう。
それでも、皆無というわけではないし、歩いていくよりは速い。財布がないのだからタクシーなどは論外だ。
ようやくバスが来て乗り込むと、当たり前のことだけれどもこの時間、制服姿は可南子ただ一人だった。
「忘れ物かい?」
運転手さんが話しかけてきても、可南子は無言で首を縦に振るのが精一杯で、そそくさと一番後ろの席に移動する。
気さくに声をかけてきてくれだのだということは頭ではわかる。だけど、未だに可南子の男嫌いは完治していない。知らない人、それも大人の男に話しかけられるのには少し構えてしまう。
何となく流れで俯きかげんなまま、バスがリリアンにつくのを待っている。そうすると、帰り際のことをまた思い出してしまった。
不思議なもので、いじけた姿勢を取っていると考え方までいじけてくるようだった。
もし、敷地内に入れなかったらどうしよう。たまたま、何かの都合で閉められていたらどうしよう。
財布を忘れたのはどう考えても自分の不注意だから、どこにも文句の持っていきようはないのだ。
どうしようもなかったら、知り合いに助けを求めるしかない。
ああ――
そこまで考えると、また思考がずぶずぶとマイナスの泥沼にはまっていくのがわかる。
思い出してしまった。携帯のメモリの寂しさ。
携帯に入っている電話番号なんて、数えるほどしかない。
例えば乃梨子さんや瞳子さんの電話番号は知っているけれど、かけた事なんてない。初めてかける用事が「助けて」なんて。
電話できる先なんて自分にはどこにもない。
助けを求める知り合いなんていない。
確かに、電話で事情を説明すれば助けてくれるのだろうけれど。
でも。
でも――
バスが目的地に着いた。
降りて、校門まで歩く。門はまだ開いていた。そして、警備員詰め所に人がいるのがわかる。
「忘れ物かな?」
そこにいたのは見慣れた守衛さんだったので、可南子は何とか普通に答える。
「はい、あ、一年椿組の細川可南子です」
生徒手帳を見せようとすると、守衛さんは首を横に振る。
「いいよ、貴方のことは覚えているから。ああ、けれど、時間が遅いから、急いでね。もう少しすると門を閉めてしまうから。あ、いや、閉まっていても、詰め所に声をかけてくれれば通用門はすぐに開けるからね」
初老の守衛さんに頭を下げると、可南子はそそくさと歩き始めた。
覚えている、と言われたのが頭に引っかかっている。
――どうせ、こんなひょろ長い女子高生なんて滅多にいないもの。
――私は、珍しいから。
見事なマイナス思考。わかっていても止められない。
――こんなの、誰も相手にしない。
落ち込みの一部が腹立たしさに転化されてきた。
だんだん歩くスピードが速くなる。そして上履きに履き替えると、ダンダンと床を踏み鳴らすように歩いていく。
教室どころか、そこへたどり着くまでの校舎内にも誰もいない。
ワザと乱暴に教室の戸を引き開けて、自分の机にドンと腰を下ろす。
そして机の中に手を入れると、案の定、財布があった。一応中身を確認すると、きちんと鍵が入っている。
ホッと胸を撫で下ろしたところで、我に返った。
なんなのだろう、今の自分。
勝手に想像して勝手に怒って、挙げ句の果てには馬鹿みたいに足音立てて。
マイナスの感情というのは、こんなにも容易く自分を支配する。
わかっていたはずなのに。
繰り返したくなんてないのに。
「可南子…ちゃん?」
聞いたことのある声がした。
「え?」
この声は――
「やっぱり、可南子ちゃんね」
白薔薇さまが、廊下に立っていた。
「音が聞こえたから、誰かいるのかと思って」
どうして、志摩子さまが。
「乃梨子が先回りしたのかと思ったわ」
乃梨子さんならわかる。ここは一年椿組だから。でも、どうして志摩子さまが?
志摩子さまは「失礼します」と言って教室に入ってきた。
「乃梨子の机はどれかしら?」
可南子は、言われるままに一つの机を示す。
礼を言って近づいた志摩子さまは、机の中から一冊の大きな図鑑のような本を取り出す。
それをカバンの中にしまいながら、可南子の疑問の表情に気付いて答える。
「可南子ちゃんはこんな時間にどうしたの?」
「白薔薇さまこそ」
「乃梨子に貸していた本よ。仏具品のカタログのようなものね。お父さまに借りてきたのだけれど、急に必要になったと電話してきたの。それで乃梨子に聞いてみたら、机の中にあるというから」
ということは、志摩子さまも家からここまでもどってきたと言うことなのだろうか。
「帰る前で良かったわ。一旦家に帰っていたら、お父さまに謝らなければならないところだったわ」
やっぱり、いったい家に帰ってからもう一度登校するのは避けたいらしい。
「可南子ちゃんはクラブ活動?」
可南子は簡潔に、財布を忘れたと言う。
「見つかったの?」
「はい」
「そう、よかったわね」
「志摩子さん? 誰かいるの?」
乃梨子さんが姿を見せた。
「あれ? 可南子さん?」
志摩子さまが、可南子が財布を忘れたのだと説明すると、乃梨子も納得した。
「なるほど。こんな時間におかしいと思ったけど」
自分は、志摩子さまの環境整備を手伝っていたという。
「予定より遅れちゃってね」
「それじゃあ、帰りましょうか」
可南子は、二人に気を使ってその場から抜けようとする。
すると志摩子さまが、
「可南子ちゃん、途中まで一緒に帰りましょう」
乃梨子さんの顔を見ると、乃梨子さんにも意外だったらしい。
「え、でも…」
「三人で帰りましょう?」
「行こう、可南子さん」
何を感じたのか、乃梨子さんも一緒になって誘う。こうなると可南子にも、無理矢理振り払うまでの強い拒否は出来ない。
三人で並ぶように帰る。志摩子さまが真ん中で、可南子と乃梨子さんが両端に。
「教室で可南子ちゃんを見たときにね」
志摩子さまは、靴を履き替えながら突然話しはじめた。
「可南子ちゃんだと気付かなかったのよ」
それはない。と可南子は思った。
自分と一度でも会った人間なら、この背丈で気付くだろう。ましてや自分は、しばらくの間とはいえ薔薇の館に通っていた身なのだ。
「何故かしら……、ものすごく、小さく見えたの」
思わず可南子は立ち止まる。
乃梨子さんが、驚いた顔で志摩子さまを見ていた。そのまま、志摩子さまと可南子の顔を見比べている。
「私は祐巳さんのようにはなれないけれど、可南子ちゃんは乃梨子の大事なお友達だから。私で良かったら、話を聞くことぐらいは出来るんじゃないかって思うの」
訳がわからない、という顔で乃梨子さんが目を白黒させている。
「だからね、可南子ちゃん。別に今すぐ何かを言えって訳じゃないの。だけど、話を聞くことぐらい、私にも出来るのよ?」
志摩子さまに話すようなことなんて、何もない。
いや、違う。
さっきまではあった。確かにあったのだ。
多分それは、世間一般には「グチ」と呼ばれるものかもしれない。だけど、それは確かにあった。
それが無くなっている。
今、志摩子さまの言葉を聞いて、それを理解した瞬間、何かが可南子の中から「グチ」を綺麗さっぱりと、どこかに持って行ってしまったのだ。
そんな単純な。と一瞬思ったけれども。
話す相手がいる、というのは確かに気が楽になることだった。
実際に話すかどうかは関係ない。話す相手がいるというだけでいい。
可南子には、それが必要だった。
志摩子さまは可南子を見てすぐに、それに気付いた。
それが多分、志摩子さまという人であり、リリアンの白薔薇さまの位地であり、妹を持ったお姉さまの立場なのだろう。
「私、乃梨子さんがちょっとだけ羨ましくなった」
「あげないよ」
わかってる。と可南子は笑った。