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夕食が食べられなかった日
 
 
 三十分待ち。その程度なら待ってもいいかと思えるギリギリのライン。
「それで、どうして私がここにいるんでしょうか?」
 瞳子は尋ねた。
「乃梨子さんは志摩子さまから片時も離れないから。密かに誘うなんてできそうになかったもの」
 可南子はニッコリと笑う。
「その点、瞳子さんは何故だか知らないけれど祐巳さまの傍にべったりいることは滅多にないから、密かにお誘いしやすかったわ」
 う、と瞳子が怯んだ様子を見て、意地悪くさらに笑う。
「大きなお世話かも知れませんけれど、もっと甘えないと、祐巳さまだって寂しいと思いますよ?」
「大きなお世話ですわ。余所の姉妹のことは放っておいて下さい」
「あんまり祐巳さまが寂しがるようだと、私が代わりに甘えてみようかしら?」
「可南子さんっ」
「冗談よ?」
 肩をすくめて瞳子の抗議を受け流すと、可南子は腕時計を確認した。
「ごめんなさいね、瞳子さん。つきあわせてしまって」
「何を今さら」
 そう言ってから、少し考えて瞳子は言葉を付け足した。
「別に構いませんわ。可南子さんの考えもよくわかりますし。それに正直…」
 瞳子は後ろを振り向いた。
 ダラダラと続く長蛇の列。
「こんな風に並ぶなんて初めてですから、少し面白いですわ。それに、お姉さまのために並ぶのなら、苦にはなりませんもの。可南子さんだって、そうなんでしょう?」
「ええ」
 事の起こりは昨日のお昼。
 
 
「これこれ、一度食べてみたいのよね」
「あ、それ私も聞いたことがある」
 薔薇の館で雑誌片手に、祐巳と由乃がなにやら話している。
「ごきげんよう」
 瞳子と乃梨子に連れられた可南子が顔を出したのは、ちょうど二人の会話に志摩子が参加しようとしていたときだった。
「あれ? 可南子ちゃんどうしたの?」
 由乃の言葉に、一緒に雑誌を読んでいた祐巳が呆れる。
「由乃さん……」
「え?」
「来週の行事で、つぼみと一緒に皆の前に出ないと」
 由乃が首を傾げる。
「どうして可南子ちゃんが関係あるの?」
「……しっかりしてよ、黄薔薇さま」
「あ」
 由乃はポンと手を叩く。
「そうだ。私が黄薔薇さまだ」
 まだ二年生だけれども、二人の三年生は既に引退の身なのだ。志摩子は引き続きだけれども、今では祐巳と由乃は紅薔薇さまと黄薔薇さま。
「そう。それで、今は黄薔薇のつぼみはいないの」
「それで、可南子ちゃんを代わりに?」
「そう。可南子ちゃんならみんな知っているし、由乃さんが他に心当たりがあるのなら、無理強いはしないけれど」
「心当たりなんて無いわよ。そうね、可南子ちゃんなら適任かもね」
 由乃が立ち上がって、可南子を出迎えるように手招いた。
「それじゃあ、可南子ちゃん。臨時黄薔薇のつぼみ、ヨロシクね」
「ええ、黄薔薇さま」
「やること自体はごく簡単なものだから。それについては心配はいらないわ」
 志摩子が言うと、祐巳も頷いた。
「うん。基本的にはただ傍についているだけだからね。やることは全部私たちだし」
 乃梨子と瞳子は顔を見合わせて、ホッとしている。
 可南子以外に黄薔薇のつぼみ代理を捜すのは、正直言って面倒くさいのだから。
 仕事内容としては誰にでも出来る。けれど、いきなり山百合会の中に、それも薔薇さまの隣に立たされて平静でいられる一年生というのは非常に希有な存在なのだ。
 瞳子と乃梨子はそんな一年を三人しか知らない。そしてそのうち二人…高知日出実と内藤笙子には、行事当日にはそれぞれ新聞部と写真部の活動がある。そうなると、残ったのは可南子一人。
 二人がホッとして、そして五人分のお茶を煎れようとしたところに今度は祥子さまが姿を見せる。
 引退したとは言っても、卒業はまだ。祥子にしろ令にしろ、薔薇の館へやってきても何の不思議もないのだから。
 
 
 お茶をいただいてお喋りをしていて、そして話題になったのが由乃さまの持ち込んだ雑誌の記事だった。
 駅前デパートで限定販売、話題のスイーツ。
 そして今、可南子と瞳子が並んでいるのはその駅前。
 一日一回しか販売しないという特製三笠焼きの列に並んでいるのだ。
 そんなに美味しいのなら、一度食べてみたい。
 限定販売の特製品と言っても、手作りだから数が作れないと言うだけで、別に値段が高いというわけではない。
 だったら、どうせ買うのなら、皆の分も。
 でも、限定販売で一人五個まで。そうすると数が足りない。
 祐巳さま、由乃さま、志摩子さま、乃梨子さん、瞳子、可南子で六人。もし令さまや祥子さまがいたら八人。
 だから可南子は誰かと一緒に行こうと思ったけれど、乃梨子さんは無理だった。そうなると残るは瞳子さん。
「二人合わせて十個ですから、充分足ります。余ったら誰かが二人分食べればいいことですし」
 二人は、お喋りをしながら待ち時間を過ごす。すぐに待ち時間は終わって、無事に数を揃えることが出来た。
「ところで可南子さん?」
「なんですか?」
「これはどら焼きと言うのではないかしら?」
「そうとも言うわね。三笠焼きとどら焼きは、同じ物よ?」
「ふーん。知りませんでしたわ。ずっと三笠焼きという名前しか知りませんでした」
 
 
 月曜日。薔薇の館で可南子は唖然とした。
 先に来ていた瞳子は決まり悪そうにもじもじと、可南子と『それ』を見比べている。
「あの、これは…」
「ああ、可南子ちゃん、ごきげんよう」
 慌てて挨拶を返す可南子に、祐巳さまがご機嫌な表情で続ける。
「お姉さまのお家に出入りしているお店で作ってるんだって」
 つまりは、小笠原家御用達。
「先週に雑誌で見たときは気付かなかったけれど、家に帰ってから確認してみたら、同じお店だったのよ。だから、頼んで取り寄せたの」
 皆がパクパクと食べているのは、紛れもない特製三笠焼き。
 今、可南子のカバンの中に十個も入っている特製どら焼き。
「確かに、美味しいわね」
「うん。しっかり甘い癖にしつこくなくて、美味しいよ」
「さあ、可南子ちゃんもこっちに座って」
 ギクシャクと歩き始める可南子。
 でも、そうすると、もしかして……
 可南子は瞳子を見た。瞳子は慌てて目を反らす。
 もしかして……
「でも逆に意外だったかも」
 由乃さまが言う。
「祥子さまの家だと、なんか、もっと高価な物を食べているような……」
「雑誌には特製三笠焼きなんて書いてあったから気付かなかったけれど、我が家でどら焼きを見かけるなら、大概はここのものね。松平にも出入りしていたはずだから、瞳子も知っているわよね?」
 ビクッと肩を震わせて、瞳子は頷いた。
「え、ええ。そうですわね、祥子さま」
 あらまあ。
 可南子は心の中で呟いて、三笠焼きをパクリ。
 結局、カバンの中の物は出しそこねてしまった。
 その日の帰り際に、瞳子さんが慌てた様子でついてくる。
「びっくりしましたわ。まさか、祥子さまが持ってくるなんて」
 可南子は応えない。
「可南子さん?」
「瞳子さん。知っていたんでしょう? だったら、早く言ってくれればいいのに」
「それは…」
「一言言えば手に入る物を、わざわざつきあわせて、長い時間並ばせてごめんなさい」
 そう言って、可南子は足を速めた。
「待って、可南子さん」
「教えてくれればいいじゃない。私、馬鹿みたいじゃないですか」
「気付かなかったんです。今日、祥子さまが持ってこられたのを見て初めて気付いたんですもの。それに、お姉さまのために並ぶのが楽しかったのは本当だったから」
「いいわよ、もう」
「良くないですわ。可南子さん、どうして怒ってるの? 祥子さまが何か言った訳じゃないのに」
「怒ってません。自分が馬鹿みたいだったって言ってるだけです」
「わかりません。何が馬鹿みたいなのよ」
 ようやく、可南子は立ち止まった。
「だって、そうじゃないですか。瞳子さんにお願いして、並んで、買って、一晩ワクワクして、そして、来てみたら、あっさりと祥子さまが」
 祥子さまが悪いとは思わない、けれど、せっかく買ったのに無駄になったのが悔しい。
「無駄じゃありません」
 ずかずかと、瞳子は可南子に近寄るとカバンをひったくる。
 可南子の制止の声も耳に入らないようにカバンを勝手に開けると、中から三笠焼きの包みを取り出す。
 一つを取り出して、パクリ。
 左手でもう一つ、パクリ。
「私が戴きます。可南子さんが買ってくれた三笠焼きは、私が戴きます」
 二つを交互にパクパクと。
 そして、
「それに、可南子さんと一緒に並んでいたことだって、私はそれなりに楽しかったんです。それじゃあ、ダメなんですか?」
「瞳子さん、そんなに食べたりしたら」
「いいんです。お腹も減ってますし、可南子さんの買ったものは私か全部戴くんです。乃梨子さんにだって、お姉さまにだって絶対に差し上げません」
 可南子はカバンの中から同じく三笠焼きを二つ取りだした。
 両手に持って、やっぱりパクリ。
「…可南子さん?」
「半分は、瞳子さんの買ったものです。それは、私が戴きます。瞳子さんが私に買ってくれたものだと思って、戴きます。私だって、乃梨子さんにも祐巳さまにも差し上げたりしません」
 パクパク。もぐもぐ。
 パクパクと食べ続ける二人。
 だけど、五個はきつい。第一、薔薇の館でそれぞれ一つずつは既に食べているのだから。
「瞳子さんの意地っ張り」
「可南子さんが拗ねるからです」
「…」
「あら、もう終わりですの? 運動部の癖に」
「まだ食べられます。瞳子さんこそ、そんなに食べたら演劇の衣装のサイズが合わなくなりますよ」
「演劇は見かけ以上にカロリーを消費するんです」
「意地っ張り」
「拗ね者」
 二人の手が止まる。
「意地っ張り」
「拗ね者」
 
 少し遅れて薔薇の館を出た乃梨子は、奇妙な物を見た。
 道の真ん中で、向かい合った女子高生二人。
 両手に三笠焼きを持ってひたすらパクパクと食べている。
 何をやっているのだろうか、あの二人は。
 やがて食べ終わると、二人はお互いの顔を指さして笑っている。互いの口元に餡がくっついているようだった。
 少し考えて、乃梨子は薔薇の館に戻った。
 なんとなく、二人の邪魔をしてはいけないような気がしたから。
 
 
 その夜、瞳子も可南子も夕食は食べられなかった。
 
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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