ENDING NIGHT
「おや珍しい」
マスターの言葉に、僕は苦虫を噛みつぶしたような顔になっていたに違いない。
その言葉の意味するところは充分にわかるし、確かに逆の立場なら僕も珍しいと言っていただろうから。だからこそ、余計に嫌なのだ。
「柏木君が女連れなんて」
ああ、なるほど、そういうことか。確かに、僕はいつもこの店には一人で来る。さっちゃんすら連れてきたことはない。
それなのに、どうしてよりによってこの女なんだ。
世の中って言うのはこういう悪戯が好きな連中が操っているんじゃないかと、僕は常々思っている。
「ほう、いつもは男連れなのか?」
「馬鹿言うな。いつもは一人だ、男も女も連れてきたことはない……あ、いや、何度かユキチは連れてきたかな?」
「祐麒が可哀想だね」
「君に言われる筋合いはない。君こそ、逆の立場なら祐巳ちゃんを連れ込みかねないだろうさ」
「お前に言われたくないよ」
「それこそ、こっちの台詞だ」
そもそも、人を呼び止めて無理矢理付いてきたのは誰だと思っている。
「雨さえ降っていなければ、君をここに連れてくることもなかったんだ」
「知り合いが雨に打たれて寒さに震えていても平気なのか。冷血漢だな、お前は」
そんなタマじゃないことはよくわかっている。
佐藤聖。どうして、よりによってこの女なんだ。
僕は、用事を済ませて帰り道を急いでいた。最近馴染みになってきたこの店にも、取りあえず今日の所は寄るつもりが無かったのだ。
そこに降り出した雨。雨宿りをするか、その辺りのコンビニで雨具を買うか。暫し悩んでいたところにこの女が現れた。
「雨宿りできることころ知らないか?」
久し振りに会ったというのに第一声がこれだ。もっとも、僕もこの女からの親しい挨拶など期待はしていない。しかし、期待はしていないが礼儀というものがあるだろう。
「雨具ぐらい買ったらどうなんだ」
「買った限りは使い捨てにしたくはない。だからといって荷物を増やしたくもない」
カウンターのスツールに腰掛けながら尋ねると、当たり前のように佐藤は言う。
「第一、か弱い乙女を雨の中、しかもこんな時間に放置して何とも思わないのか、お前は」
どの口がそんなことを言うのだ、この女は。
「まず一つ目、か弱い乙女なら放置しない。そして二つ目、か弱い乙女なんて僕には見えなかった。最後に三つ目、少なくとも君はか弱い乙女ではない。そういうことだ」
「一つ目と二つ目はどうだかわかったもんじゃないが、その三つ目は理解した」
「だったら、少しは感謝したらどうだ」
「してるでしょ?」
「どこが」
「隣に腰掛けてやってるじゃない。普段なら絶対御免の距離だけど」
確かに。言われてみればその通りだ。この女が僕の隣におとなしく座るなど、これまでの経験からすると絶対に考えられないことだ。
「良く来る店なんだろう? それくらいの顔は立ててあげるよ」
「とりあえず、感謝しておくよ。それよりここは酒を飲ませる店だ。何か頼んだらどうだ? それくらいの持ち合わせはある」
「奢ってくれとまでは言わない」
「こういうときは黙って奢られるものだ。相変わらず可愛くない女だな。…とは言わないよ」
「当然だ。お前に借りを作るほどおぞましいことはない」
強引な雨宿り場所提供はその埒外らしい。まったく、可愛くないのはいいとしても相変わらず身勝手な女だ。
佐藤と僕の前に運ばれる飲み物。
「ふーん。意外だ」
「何が?」
「いや、もっと甘いカクテルを頼むんじゃないかと勝手に思ってた」
「君こそ、もっと変わり種を頼むと思ってたよ。そんな定番で面白味のない注文とは」
「なるほど、お互い勝手なイメージを持ってたわけだ」
「そのようだ」
口を付けようとして、僕は思い出した。
瞳子に連絡をする必要がある。
急いでいるわけでも約束をしていたわけでもない。ただ、都合がつけば今夜お邪魔すると話してあるのだ。この調子では、今夜は松平家に行くには遅すぎる時間となるだろう。
瞳子のことだ、僕が行くのを待っているに違いない。いつまで経っても、瞳子は僕の妹であるというスタンスを保っている。直系の兄弟姉妹のいない僕にはそれが嬉しいのだけど。
マスターに断り、携帯を取り出す。
「もしもし? ああ、僕だよ」
松平の家ではなく、瞳子の携帯に直接かけたので、電話の向こうを確認する必要はない。
「“お兄さま? どうなさったんです?”」
「実は、今夜の都合なんだけれど…」
言いかけたとき、突然佐藤が身を乗り出した。
「優さん、誰に電話しているの?」
この馬鹿、もとい、この女、いや、悪魔。言うに事欠いてなんて声を出すんだ。しかも電話口で。ハッキリと向こうにも聞こえるように。
「“あら、お兄さま、デートですの? よろしいですわね”」
瞳子の声が固い。いや、これは怒っている声だ。
自分を差し置いて誰かとデートしている。そんな誤解を受けては堪らない。
「ああ、実は今、たまたま高校時代の知り合いと出会ってね」
「“お兄さまは、花寺出身だと思ってましたわ。瞳子の勘違いだったようですわね”」
「おいおい、変な妙な勘ぐりはやめてくれないかな。今一緒にいるのは瞳子も知っているリリアンの元白薔薇さま、佐藤聖だよ」
「“聖さまが?”」
「“え? どうして聖さまと優さんが?”」
どうして、祐巳ちゃんとさっちゃんの声が聞こえてくるんだろう。
「瞳子? 今の声はもしかして」
「ええ、お姉さまが祥子さまの所へいらした帰りに、我が家に立ち寄られたのですわ」
「お、祐巳ちゃん、久し振り」
携帯電話をひったくられた。
「おい、待て」
「堅いこと言わないの。大の男が」
こいつは都合のいいときだけ男だの女だの言い出す。なんて奴だ。
「久し振りだねぇ、祐巳ちゃん、それから祥子。ドリルちゃんの所にいるんだ」
向こうで瞳子の怒っている姿が容易に想像できる。そして、苦笑しながら宥める祐巳ちゃんと頭を抱えるさっちゃんも。
「いい加減にしろ」
携帯を取り返して、もう一度瞳子に呼びかける。
「それで、瞳子…」
返事はない。というよりも、電話特有の、向こう側の雑音も聞こえない。
「瞳子?」
切れている。
「おい、勝手に通話を切るのはさすがにひどいんじゃないか?」
「え? いくら何でもさすがにそこまではしないよ。相手が祐巳ちゃんなのに」
さっちゃんと瞳子だけならやるつもりだったのか、この女は。
しかし、佐藤聖というのはこんな姑息な嘘をつくような人間ではない。それはわかっているつもりだ。
見ると、携帯電話は圏外表示になっている。
ちなみに、ここはビルの二階。地下ではないし、今までこんなことは一度もなかった。現についさっきまではクリアに通話できていたのだ。
「…そのようだな。携帯が圏外になってる」
「ふーん。ああ、本当だ。私のも圏外だよ」
佐藤が自分の携帯を出して確認している。
「さっきまで電話できていたのに、妙なこともあるもんだね」
「ああ、まったくだ」
それとも、最近近くに何かできて電波状況が変わったとか。それならまだ理解できる。
僕はマスターに尋ねようとして、その視線に気付いた。
マスターの視線を追うと、そこは店の入り口。
いつの間にか一人の女の子が立っている。
この店には場違いな、ちょうど、初めて会ったときの祐巳ちゃんのような雰囲気だ。
「もしかして、娘さん?」
「まさか。知らない子だよ」
マスターは肩をすくめると、カウンターを出て女の子に近づいた。
「場違いだよ、さあ、出て行きなさい」
「行く所なんて無いわよ?」
僕は、佐藤の肩を突いた。
「ほら、訳ありのようだぞ。出番だ、女たらし」
「誰がだ」
それでも佐藤は、立ち上がるとニッコリと笑みを浮かべてみせる。
なるほど、そうやってリリアンの女学生を毒牙にかけていた訳か。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
佐藤が話しかけたのをどう取ったか、マスターは身を退くとカウンターに戻っていく。目があった僕は、マスターに頷いて見せた。見たところ、今の客は僕たちだけ。迷惑にならないようなら雨宿りくらいさせても罰は当たらないだろう。
「終わってしまったのよ」
少女は嫌な知り合い相手のように、佐藤を睨みつけている。
「何もかも、終わったの。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、終わらせたの」
「何が終わったの?」
佐藤はとりあえず話を聞くことにしたようだ。僕でもそうしていただろう。
だが、その答は全くの予想外だった。
「世界よ」
世界。聞き違いではない。彼女は確かにそう言った。
「世界…ね」
佐藤は皮肉そうな目で店内を見回す。
「そうすると、ここは世界の外になるわけだ」
「今は、そうなっているわ」
あっさりと答える少女に、佐藤は苦笑している。
「よっぽど嫌われてたみたいだ。追い出されたらしいね」
「思い当たる節がたっぷりあるんだろ」
「失礼な。お前と一緒にするな」
失礼はどっちだ。
睨み合っていると、不意に佐藤は視線を外してもう一度少女に向き直る。
「ところで終わらせたって言うことは、誰かの仕業だって言うことだよね?」
なんだかんだ言いつつ、きちんと少女の言葉を聞いていたらしい。この辺りはさすがだ。
「いったい誰が? 神様とか?」
「そうね。貴方達の使う言葉では、それが一番近い言葉だと思うわ」
困ったような顔で周囲を見回す佐藤に、僕は頷いた。
宗教の勧誘か何かだろうか。カルト宗教というのは時々無茶をやる。それともさすがにそれはないか。
「話を聞いたらドアの向こうから説教師でも現れるんじゃないか?」
僕の言葉にマスターも頷く。
「何度か、妙な連中が押しかけてきたこともありますよ。まあ、いざとなればそれなりの対処もしますけれど」
やっぱりこういう場所にはそれなりに何かがあるのだろう。
「世界の外なのよ? ドアの外も何もないわ」
少女は自分の言葉に意固地だった。
「あのね、何もないって言うけど…」
ドアに手をかけた佐藤が絶句している。
「どうした?」
「あ、いや…」
決まり悪そうにマスターを見て
「この店、建付が悪い?」
まさか、ドアが開かないとでも言うつもりか。と聞くまでもなくわかった。
佐藤の表情が少し青ざめている。
「……ねえ。静かすぎない?」
さらに続いた言葉に、僕とマスターも口を閉じた。
ここは店の中。とは言っても通りに面したビルの一室。多少の音は聞こえてくるはず。
何故、こんなに静かなのか。
店の中には四人。僕と佐藤とマスターと少女。
その息づかいと身動きの音だけ。
外からの音は聞こえない。そして、ドアは開かない。
「どうして、終わらせたのかな?」
僕の質問に、佐藤が驚く。それでも、佐藤は何も言わない。黙って自分の座っていた場所に戻る。
こういうところはさすがだ。
「さあ。私は知らないわ。私は伝えるだけだもの」
「伝えてどうするの?」
「さあ」
少女は本気で首を傾げているようだった。
神罰。突然そんな言葉を思い出す。
だとすれば、そうとう大雑把な神なのだろう。なにしろ、残った男が僕とマスター。これはまだしも、残った女が佐藤聖。
これではアダムとイブにはならない。残された意味がない。
だったらいっそ全滅させればいいものを。
「試されるとか言われても困るよ?」
佐藤がポツリと言った。
「神様が人類を試すとか言うんなら、ものすごいミスチョイスだからね。私と柏木だよ? マスターはよく知らないけれど。少なくとも私と柏木は駄目だよ。人間を試すとか、そういうことかしたいんなら、蓉子とか祐巳ちゃんとか、逸材は一杯いるんだから。男なら祐麒だね」
もっともだ。僕の代わりならユキチがいいかも知れない。あ、ユキチと祐巳ちゃんだと姉弟だからアダムとイブにはなれないか。
じゃあ、ユキチとさっちゃん。…さっちゃんは失格しそうな気がする。
「江利子と旦那さんとか……あ、江利子だと無茶苦茶な世界創世しそう…」
「……平気なの? 世界が無くなったのに」
「いいや。平気なわけがない」
少女の言葉に佐藤が間髪入れず応えた。
「もしそれが本当なら、例え相手が神様だろうが悪魔だろうが宇宙人だろうが何だろうが、世界を消した者を、私は絶対許さない。蓉子や祐巳ちゃんやお景さん、お姉さまや志摩子、栞や静、みんなを消した者を私は絶対許さない」
佐藤の剣幕に少女が一歩引いた。
「その通りだ。さっちゃんや祐巳ちゃん、ユキチや瞳子を消した奴がいるなら、僕も絶対に許さない。それに…」
僕は立ち上がり、少女に一歩近づく。
「そんなやつは、対した相手じゃない。神とか悪魔なんて言えない。もっともっと、格下の存在だ」
何かに睨まれたような気がした。
背筋に悪寒が走る。
知った事じゃない。
僕は続けた。
「いいか。ものを壊す。消し去る、止める。そんなことは単純だ。シンプルきわまりない陳腐な行為だよ。破壊なんてものは、神や悪魔どころか人類に進化する前の原始人にだって可能なことだ。神? 悪魔? 冗談じゃない」
嫌な汗が顔面を伝わる。
なんだろう、この威圧感。
「本当に難しいのはものを作ること、保持すること、続けていくことなんだ。そんなこともできないものが、何が神だ悪魔だ。ふざけるのも大概にしろ、と僕は言いたいね」
「久し振りだねぇ、祐巳ちゃん、それから祥子。ドリルちゃんの所にいるんだ」
向こうで瞳子の怒っている姿が容易に想像できる。そして、苦笑しながら宥める祐巳ちゃんと頭を抱えるさっちゃんも。
「いい加減にしろ」
携帯を取り返して、もう一度瞳子に呼びかける。
「というわけで瞳子。少し遅れていくけれど、すまない。祐巳ちゃんやさっちゃんが望むなら、この厄介な君たちの先輩も同行させるけれど?」
電話の向こうでは賛成二、保留一で決まったらしい。
電話を終えたところで、何かがおかしい事に気付いた。
「…おい」
「…気付いた?」
佐藤も同じだった。
「…なるほど、作り直した訳か」
少女の姿は見えない。マスターの様子を見ると、何も覚えていないようだ。
ということは、覚えているのは僕と佐藤だけ。
この世界は一度消えて、そして再生した世界。
……二人が同じ幻覚を見ていた、という方がいいような気もする。
「そういうことらしい。これで君も少しは僕を見直しただろう?」
「ふーん。…潤んだ目で情熱的に見てやろうか?」
「……勘弁してくれ」