かまって
由乃の家に入る前に、ふと菜々が横を向いた。その視線の先には令ちゃんの家の道場。
「今日は日曜日ですから、令さまも大学はお休みですよね?」
由乃は関心のなさそうにあっさりと答える。
「そうね。でも残念ながら道場にはいないと思うわよ」
「残念なんて。今日はお姉さまの所へお伺いするんですから。竹刀も武具も持ってきていませんよ」
「それは見ればわかるけど……」
由乃も菜々の視線を追った。
今日は令は大学の友達と出かけると言っていた。
卒業してからは、令と由乃の会う機会は確実に減っている。仕方ないと言えばその通りなのだけれど、二人は普通のリリアン姉妹ではないのだ。それ以前に仲のいい従妹同士なのである。
由乃は少し寂しかった。もっとも、それを口に出してしまうような由乃ではない。
その代わり、妹になった菜々と会う機会は格段に増えていた。学校内では当たり前として、学校外でも良く会っている。
今日もその一環で、菜々が由乃の家を訪れている。
由乃は菜々を部屋に通すと、飲み物を取りに階下へ。
そして飲み物とおやつを持って二階に戻ると、菜々は本棚の前に陣取っていた。
小説の置いてある本棚は自由に触っていいと前に言ってあるから、別にそれは構わない。それに、由乃の本棚から気に入った本を見つけて借りていくのは、最近の菜々の日課でもあるようだった。
「こんな物があったんですけれど。なんですか、これ」
菜々が見せた緑色のものを、最初由乃は訝しげに睨みつけた。
「………」
そしてそれがなんなのかわかった瞬間、由乃は笑った。
「懐かしい。菜々、そんなのどこで見つけてきたの?」
「本棚の中に。藤沢周平のむこうがわにありました」
藤沢周平の『用心棒日月抄』のシリーズが並べてある棚、その裏に落ちていたと菜々は言う。
そう言えば最近読み返してない。久し振りに青江又八郎の活躍を読もうかしら、と由乃は一瞬考えた。いや、そう考えるとその隣に並んでいる隆慶一郎だって最近読み返してない。いやいや、その隣、さらに隣。ああ、考えてみれば読書を結構サボっている。
「あの、お姉さま?」
そうだ、これというのも最近菜々と一緒に出歩いてばかりで落ち着いて家にいるということがないから…
「お姉さま? 由乃さま?」
だけど、菜々と一緒にいるとなんでもない慣れた風景にも新発見があるのだ。この前だって…
「由乃さま!」
いつものバス道で…
「よ・し・の・さ・ま!!」
「…あ、ごめん」
「何をぼうっとなされているんですか?」
「ん、ごめん。ちょっと考えごとをね」
由乃は、菜々の持ってきた蛙のオモチャをしっかりと見直した。
小さなゴム製の蛙をチューブで繋いだもの。端を握ると蛙がぴょんと跳ぶ、そんな他愛のない仕掛けのオモチャだ。
「これ、お姉さまの部屋にあったということはお姉さまのモノなんですよね?」
「そうなるわね。というか、正真正銘私のものよ」
「どうして、こんなものを?」
菜々の目が好奇心に輝いていた。この輝く目を見るのが、正直由乃は大好きだった。それに、こんな風になった菜々は、いつもなにかしら面白いことをしでかしてくれるのだ。
もっとも、今回の好奇心の方向は由乃に対するものなので、あまり刺激するのも考え物かも知れない。
「こんなものって……あ、言っておくけれどそれは私にとっても懐かしいものだから。いくらなんでもこの歳にもなってそんなもので遊んだりしないわよ」
「それは、さすがにそう思いますけれど」
「それはね、私と令ちゃんの思い出の品よ」
「令さまの?」
一瞬、由乃は菜々が面白くなさそうな顔をしたような気がした。
「そう、そのオモチャはね」
「お母さん、お母さん。令ちゃんは?」
「由乃、いい加減にきちんと呼びなさい。お姉さま、でしょう?」
そう言われても、由乃が令をお姉さまと呼ぶのはリリアン高等部に入ってからだという約束なのだ。まだまだ小学生なのだから、お姉さまと呼んではいけない。それは、令と由乃が二人だけで考えた約束だった。
「令ちゃんは令ちゃんだもん」
「もお……。令ちゃんなら道場よ」
「じゃあ、行ってくる」
「だめよ、今は稽古中なんだから」
「見るだけだもん」
「悪いことしたら、おじさんに叱ってもらいますからね!」
うう、と立ち止まる由乃。由乃はお父さんもお母さんも恐くない。唯一苦手なのが伯父さんこと令の父親だ。
「悪いことなんてしないもん!」
精一杯の憎まれ口を叩きながら、家を出て道場に向かう。
練習をしているのは道場に入らなくてもわかった。同じ敷地内だから、練習の声が聞こえてくるのだ。
そーっと覗いてみる。
道路に面している側の扉は当然閉まっているけれど、母屋に面している方の扉は開いていることの方が多い。由乃はそこからピョコッと首だけを出して中を覗き込む。
令が扉に背を向けて座っていた。
由乃はゆっくりと近づく。令は一番端、つまり由乃が近づく扉に一番近い位置にいるので、他の人は気付かない。
防具をつけては居ないが稽古着姿の令は、真剣に大人達の練習を見学している。
「令ちゃん令ちゃん」
囁いてみても反応はない。
「令ちゃんってば」
やっぱり反応はない。聞こえないのだろうか。
「令ちゃんっ」
令の隣にいた伯父さんのお弟子さんが振り向いた。
「……えーっと…由乃ちゃん?」
扉の影に隠れる由乃。
「由乃ちゃん?」
お弟子さんが扉へ近づくと、
「見取り稽古中に何をやっとるか!」
伯父さんの激しい叱咤に思わず由乃は走って逃げる。
「あ、あの、今、そこに師匠の姪御さんが…」
「……由乃が? どれ?」
由乃は既に走って逃げている。
「どこにおるんだっ!」
当然そこにはいない。
「あれ? いや、今、そこに……あれ?」
「馬鹿もんっ!! たるんどる! 素振り千回!」
「げっ」
「あの、お父さん」
令がたまらず声をかけた。
「今は稽古中だ、令」
稽古中は父親だと思うな、それが令の父の常日頃からの言いつけだった。
「はい、先生」
「で、なんだ?」
「あの、由乃は本当にいました」
「んなこたぁ、わかっとる」
「は?」
弟子が呆けた声を出す。それに対してさらに声を荒げる伯父さん。
「小学生の女の子一人、逃げられたこともわからんのが情けないと言っとるんだ! 素振り千五百!」
「増えてるっ!?」
「さっさとやらんかっ!」
その夜、由乃の家にやってきた伯父さんは、「稽古を見に来るのは構わないから、見たいのなら正面から堂々と来なさい」と言い残して帰っていった。
翌日、由乃は堂々と入って道場に隅に座っていた。
「……」
稽古が始まる。
「……ねえねえ」
一人のお弟子さんに話しかける。
「令ちゃんはどこ?」
「……」
「ねえねえ」
「……今、忙しいから」
由乃には、お弟子さんは伯父さん達の試合を見学しているようにしか見えない。
「ねえ、おじちゃん?」
「いや、俺、お兄さんだから」
「お兄ちゃん。令ちゃんは?」
「今日は小学生の練習はないから、先生の娘さんは母屋の方に居るんじゃないかな」
「あ、そうか」
「見取り稽古中に何をやっとるか!」
またもや、伯父さんの激しい叱咤。由乃は即座に逃げた。
「あ、あの、今、師匠の姪御さんが……って、逃げてる!」
「どこにおるんだっ!」
当然そこにはいない。
「いや、今、あの、そこにですね……あれ? あの、もしかして……私、素振りですか?」
「千回!」
「……はい」
由乃が母屋に行ってみると、令ちゃんはお友達の所に遊びに行ったという。仕方なく、由乃はおとなしく家に戻った。
「明日はお医者様に行く日よ。今日はおとなしくしていなさいね」
そう言われてしまっては、令ちゃんを追いかけることも出来ない。
そして二日後、令ちゃんが道場にいるのを確認してから由乃は動き始めた。
手に持っているのは蛙のオモチャ。
話しかけても無視されるのだから、これを使えばいいに違いない。
蛙が目の前でぴょこぴょこするのだから、いかな令ちゃんでも無視は出来ないだろう。
由乃の作戦は無惨な結果に終わった。
悲鳴があがった。多少のきつい練習にも泣き言一つ言うことのなかった令の悲鳴だった。何事か、と道場内が色めき立った。
そして犯人である由乃は全員の注目を浴びたのだ。
「お父さんにもお母さんにも怒られて、大変だったわ。却って伯父さんが庇ってくれたぐらいだもの」
「凄いですね。私もそこまでしたことはありません」
「そこまでって?」
「神聖な道場にカエルを放つなんて」
「だから、オモチャなのよ。今菜々が持ってる奴」
「ああ、これですか。なるほど」
ペコン ぴょこ
「ずいぶん前の話なのに、まだ元気ですね、このカエル」
「あれから何度も使ったけれど、大事に使ったからね」
「何度も? 道場にですか」
「ええ、いつの間にか、カエルが来たら由乃が来た、って合図になってたわ」
「お役に立っていたんですね。そして、最後に片づけて忘れてしまったと」
「というより、まぎれたのね、いつの間にか」
首を傾げる菜々に、
「いや、いくら私だって、そんな小さいときから時代小説を読んでいた訳じゃないもの。本を整理して本棚に入れたときに、何かの拍子で紛れたのよ」
「あ、そうか。それもそうですね」
菜々は、壊れ物を取り扱うように両手でカエルを包むと、由乃に差し出す。
「それじゃあ、大事なものですね」
「そう、大事なものよ」
由乃は、小さなカエルを抱きしめる。
「このカエルは、令ちゃんへの印なの。構って欲しいって」
ちょっと、菜々が嫌そうな顔になる。
「菜々?」
「なんでもありません。さあ、お姉さま、今日は何を企みましょうか」
「そうね、今日は…」
遅くなった。けれど、友人と外食するということは両親には伝えてある。高校の時は門限なども決められていてそれなりに厳しかったけれど、大学生になってからは突然何も言われなくなった。最初はどういうことかと思ったけれど、父母の様子を見ていると自分が信頼されていることがよくわかった。だから、厳しく自分を律しようと令は思った。
結局、自分に対する縛りは高校時代の両親の縛りより厳しくなっている。
夕食が終わったと言っても就寝時間にはまだ早い。父も母も起きているだろう。
「ただいま帰りました」
帰宅を告げて、気が付く。
玄関に靴が一つ多い。正確には靴ではないが、これは由乃のスリッパだ。
「お母さん、由乃が来てるの?」
「…。いいえ。今日は来てないわよ。今日は由乃ちゃん、妹を招いていたみたいだけど、家には来てないわよ」
少しの間は、由乃の行動を思い返していたのだろうか。いや、それよりも母の言葉で気になったのは――
――妹
有馬菜々のことだ。
菜々に罪はないのだし、そもそも自分が由乃に姉離れを促したりもしていたのに。
いざこうなってみるとやっぱり寂しい。
大学では新しい友達も出来た。リリアンの外というのは新鮮で…というよりリリアン出身というのはどこでも珍重されるのだということを、最近の令は身をもって学んでいた。
でもやっぱり、一番会いたいのは由乃だ。
自分にだって妹離れは必要なのだけれども、よくよく考えてみれば自分と由乃はリリアンの姉妹である前から従姉妹なのだ。従姉妹として顔を合わせるのになんの不都合があるというのだろう。
そう考えながら、疲れた面持ちで自分の部屋に向かう。
ぴょこ
――?
視界の隅から、緑色の小さなものが飛び込んでくる。
ぴょこっ
「……由乃?」
それを見た瞬間、令は思いだした。
それは由乃の合図。構って欲しいという由乃の合図。
「さすが令ちゃん、すぐ思い出したね」
微かに開いていた部屋のドアが大きく開くと、由乃が姿を見せた。
「お帰りなさい、令ちゃん」
「ただいま、由乃」
その数時間前――
由乃の家からの帰り、菜々は駅前のデパートのオモチャ売り場に寄り道していた。
鼻歌など歌いながら、オモチャを物色している。
「あった」
菜々が見つけたのは、蛇のぬいぐるみ。中にギミックが仕込んであって、身体を震わせて進む仕掛けになっている。
「蛇はカエルより強いんですよ? 令さま」
嬉しそうにボソッと呟くと、菜々はレジカウンターに向かうのだった。