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幸せですか?
3.「それで、祐巳さまはお幸せだったのですか?」
 
 
 
 前日ほどではないけれど、普段よりは早目に祥子は家に戻ることができた。
 しかしそこに、祐巳の姿はなかった。
 二日連続で由乃達と出かけているわけがない。そんなことをするような祐巳ではない。
 もし出かけているのなら、メモの一つも残しているはず。
 テーブルの上。
 冷蔵庫。
 普段ならメモがありそうな場所には、何もない。
 焦燥に駆られながら、祥子は電話機を取った。
 セカンドバックから取り出したアドレス帳を荒々しくめくり、目当ての番号を見つけ出す。
「もしもし、支倉ですが」
「令? 由乃ちゃんはいる?」
「……祥子なの? どうしたの、こんな時間に」
「由乃ちゃんに替わってくれない?」
「落ち着いて、祥子」
「お願い、令。急いでいるの。由乃ちゃんはまだお隣なんでしょう?」
「祐巳ちゃんのことなんだね?」
「令!」
「由乃から話は聞いたよ。…まさか、祐巳ちゃんがいないの?」
「お願い、令。替わってくれないのなら、せめて由乃ちゃんに心当たりがないかを聞いて……お願い」
「…判ったよ。落ち着いて祥子。祥子を泣かせるのは、きっと祐巳ちゃんの本意じゃないよ。祐巳ちゃんがそんな人じゃないことは、祥子が一番よく知っているはずでしょう?」
「ええ、ええ、勿論よ…」
「だから落ち着いて。今から由乃に聞いてみる」
「お願い。私は…」
「ちょっと待った」
「え?」
「祐巳ちゃんと一緒に飲んでいた志摩子や菜々、乃梨子ちゃんの所へ連絡するつもりなら、それは私が代わりにやる」
「どうして…」
「今の祥子じゃ、尋ねるというよりも詰問になってしまうよ。私が三人にも連絡して、その結果を伝えるから。電話の前で待っていて」
「……そうね。今の私、取り乱しているのね」
「祐巳ちゃんのことで祥子が取り乱すのは、みんな理解してくれるだろうけどね。落ち着いて電話した方が話は伝わりやすいよ」
「ごめんなさい、令。こんな時間に」
「いいよ。久し振りに祥子と祐巳ちゃんのため…ひいては由乃のために動くことができて、私も嬉しいし」
「ありがとう、令」
「うん。紅茶でも飲んで落ち着いてね。くれぐれもワインには手を出さないように」
「ええ、判っているわ」
「それじゃあ」
 通話の切れた受話器を、祥子は懐かしそうに見つめていた。
「…ありがとう、令」
 聞こえない相手に呟くと、祥子は座り込んでいた床から立ち上がる。
 令の忠告通り、温かい紅茶でも……、とそこまで考えたところで祥子の動きが止まった。
 もし、祐巳が最近の自分の行動に愛想を尽かしたのだとしたら…
 祐巳は愛想を尽かした相手だからと言って約束を破るような性格ではない。だから、メモは絶対にある。
 そして、最近の自分が家の中で必ず触れる場所は… 
 家庭用ワインセラーの前に、一枚の小さな紙が貼られていた。
 【可南子ちゃんの所にいます 祐巳】
 細川可南子!
 どうして……細川可南子が…
 何故……
 これが由乃なら、理解できる。志摩子でもいい。今でも三人は親友と呼べる存在なのだから。
 瞳子でも判る。リリアンでの妹だったのだから。
 何故、可南子…
 祐巳が、身を寄せる先としていきなり思いつく相手だとは思えない。
 だとすれば、可南子から祐巳に接近したのか。
 可南子の居場所は…
 祥子は再び電話機に手を伸ばす。
 次の連絡先は指が覚えていた。祐巳と一緒に、何度も電話した相手だ。
「はい、松平です」
 聞き覚えのある声。
「瞳子?」
「祥子お姉さま? どうされたんですか?」
「細川可南子の連絡先を知りたいの」
 電話の向こうで、瞳子が息を呑む音が聞こえる。
「…瞳子、貴方、何か知っているの?」
 瞳子は、機械的に住所と電話番号を告げた。さらには就職先まで。
 まるで、祥子の質問をあらかじめ待っていたかのように。
「貴方……知っていたの!」
「会いに行くだろうとは思っていましたけれど。こんなことになるとは思いませんでした」
「…ここの住所を細川可南子に教えたの?」
「いいえ。だけど、可南子さんのことだから、ご自分でお調べになったのでしょうね」
 瞳子の声は笑っているようにも聞こえる。
 自分の考えすぎだろうか?
「噂は色々と私の耳にも入っているんですよ」
「噂って何のこと」
「…私は今でも松平家の娘、そして、優お兄さまの妹なんですよ」
 小笠原の家のことが耳に入らない境遇ではない。それが表に出回っている話であろうと無かろうと。
「だから、可南子さんの気持ちも判るんです」
「…瞳子……ちゃん?」
「祥子お姉さま? お姉さまなら、祐巳さまを幸せにすることができる。私も可南子さんも、そう信じていたのですよ?」
「祐巳は……祐巳は…」
「お姉さまと一緒になることは祐巳さまの望みでもありました。だけど、それで、祐巳さまはお幸せだったのですか?」
「貴方にそんなことを言われたくない!」
「それで、祥子お姉さまはお幸せだったのですか!」
「貴方に何が判るの!」
「わかりません。判らないからお尋ねしているんです。お姉さまと祐巳さまは、本当にお幸せでいられたのですか!」
「松平の名前も地位も立場も捨てた貴方が、そんなことを言わないで!」
 悲鳴をあげている。辺り憚らぬ泣き声をあげている。身悶えするような絶叫を響かせている。
 祥子は自分を見ていた。
 我が侭を言う子供のように叫び散らす自分の姿を。
 瞳子が地位や立場を捨てたからと言って、何故責められなければならないのだろう。
 固執しているのは自分なのに。
 何のために?
 祐巳のために。
 祐巳を守るために。
 祐巳をこの手に留めるために。
「…祐巳さまのためであっても、それは捨てられないものなのですか?」
 受話器を叩きつける音。
 通話を切られた。と祥子は感じた。次に顔を上げたとき、見えたのは受話器を持っていない自分の手。受話器の収まった電話機。
 通話を切ったのは自分だった。瞳子の言葉に耐えられず、通話を切ったのは自分だった。
 呆然と電話器を見つめる祥子。電話器の横に置かれたメモには、可南子の連絡先が記されている。
 
 
「おはよう、細川君」
「おはようございます」
 数人とすれ違い、朝の挨拶を交わしながら自分の席に着く。机の上には既に今日の仕事に関するメモが置かれていた。
 手早く目を通すが、緊急の用件は一つとしてない。今日もいつも通りの仕事をこなすだけになるだろう。
 主に経理上の書類のチェック。それが今のところの可南子の仕事だ。
 夕子さんが結婚してしまうまでは、男と女のことなんて考えたこともなかった。ただ、男には女よりも背の高い人が多い。だからバスケットには有利で羨ましい、それだけだと思っていた。
 無論、男女の違いは知識としては知っていたけれど、ただそれだけのことだった。
 夕子さんが父と結婚したとき、男はみんな悪魔だと思った。そう思わなければやっていけなかった。父を筆頭に、男はみんな糾弾されるべきだと盲信することで、何かから逃れようとしていた。そして現実から目を背け、逃げ続けていた。
 祐巳さまに出会ったとき、自分の狭量さを思い知らされた。それでも、思い詰めていた気持ちが完全に変わることはなかった。
 父を許すことはできた。だけど、それだけでは許すことのできない者もいた。
 男が愚かだ、危険だという思いこみは間違っている。それは理解できた。父に与えられた痛みなど、単なる誤解に過ぎないと判った。
 消しきれない痛みだけが残った。
 父と夕子さんの関係を面白おかしく噂した級友達。
 夕子さんの行動を邪推した人たち。
 二人の取った行動を正確に受け止めていたのは、皮肉にも可南子の母だけだった。
 可南子はこう思うことにした。
 男が愚かなのではない。否、男だけが馬鹿なのではない。
 男であろうと女であろうと、馬鹿はいる。それに不必要に関わり合うのは、自分が虚しくなるだけだと。
 もしかすると愚かなのは自分なのかも知れない、と思うこともある。もっとも、それならそれで別に構わない。
 どちらが愚かであるにしろ、可南子は周囲との摩擦を常に感じていた。それが独りよがりな思いかもしれないにせよ、社会に出てからは、リリアンの中で自分たちがいかに護られていたかを痛感することができたのだ。
 一方的な憎悪は克服していたが、それでも男性とは距離を置いていた。ところがリリアン出身者のその態度は、好むと好まざるに関係なく、いらぬ憶測を呼んでしまうのだ。
 リリアン出身者には男と付き合わず、同性と付き合う者が多い。可南子が耳にした中では、それが最も不穏な表現だっただろう。
 別に構わない。それで男が近づいてこないのだとしても、それを苦だと思う自分ではない。中には、そうと知って敢えて接近してくる変わり者もいたけれど。
「細川君?」
 昼休みの少し前、主任が可南子に声をかけた。
 同じ部署の男性の中でも、どちらかと言えば心を許している相手だ。
「君にお客さんが見えている」
「お客さんですか?」
 予想はしていた。まさか、こんな形だとは思っていなかったけれど。
「昼休み前だが、相手が相手だ。構わないから行ってくれ」
 主任の向こうに係長や部長の姿が見える。
 なるほど、それなりの相手だと、どうしてもこうなってしまうと言うことなのか。
 主任の告げた名前に、可南子は微笑んでみせる。
「学生時代にお世話になった御方ですわ。良くしていただいた先輩です」
「そうかね」
 主任の向こうで、ホッとしている上役の姿が見える。
 馬鹿馬鹿しい思いを堪えて、可南子は応接室へ向かった。
 ただの私用だというのに会社の応接室が使われるなんて…。
 さすがに、小笠原の女帝まで呼ばれる人は違う。可南子は皮肉っぽく微笑みながら、応接室に入った。
「ごきげんよう、祥子さま」
 祥子の前には、専務が座っている。
 可南子は専務を頭から無視していた。祥子も同様だ。
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
「仕事中ですので、私用なら手短にお願いします」
「わかっていてよ。私もできるなら短く、そして穏便に済ませたいの」
「ええ。私も同じ気持ちです」
 
 
 
  ―続―
 
 
 
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