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幸せですか?
4.「祐巳は幸せになれるの?」
 
 
 最初に連絡を取った秘書に告げた。
「今日の仕事は全部キャンセルして。いえ、病気でも何でもないわ。他にやることがあるの」
 当然、秘書は猛反対した。
 今、会議を無視するわけにはいかない。それでは、これまでの努力はいったい何だったのか。これまで文字通り寝食を惜しんでやってきたことは何だったのか。
 携帯電話を耳元から離しても聞こえる秘書の声。
 確かに、彼女の言うとおりだった。例え一時にしろ、ここで勝負を一旦降りてしまえば取り返しはつかないことも判っている。相手は決して甘くはない。生き馬の目を抜く世界で、祥子はこれまで丁々発止とやり合ってきたのだ。
 それでも、後悔はない。ためらいもない。
 自分が今やりたいことは、自分が一番よく知っていた。
 今は、祐巳を取り戻す。この手の中に。
 それが全て。それ以外のことはどうでもいい。どうなってもいい。
 可南子と祐巳の真意を確かめて、この手に祐巳を奪い返す。それが今の祥子の存在理由と言ってもいいだろう。
「いいから、全てキャンセルしなさい」
「…福沢祐巳、ですか?」
「ええ。そうよ。他の理由で私が仕事をキャンセルすると思って?」
「祥子さま」
 秘書の声が静かなトーンに戻る。
「私は貴方に雇われてから、貴方の勝った姿しか見たことはありません。貴方は、欲しいもの、必要なものは全て勝ち取ってこられた方です」
 今の貴方に必要なのは、小笠原家には何の関係もない。福沢祐巳ただ一人なのですね。
「私は秘書として、祥子さまの負ける所など見たくもありませんし、見る日が来るとも思っていません」
「…ありがとう」
「こういう言い方でいいのかは迷いましたけれど…」
 秘書が微かに微笑むのが、携帯電話の向こうでも判った。
「御武運を。祥子さま。関係各者には私が責任を持って伝えておきます」
 祥子は再び礼を言うと、大通りに出てタクシーを止めた。
 行く先は、可南子の仕事場。
 しかし、ただ単に会いに行くだけでは、会わせてもらえるわけがないと判っていた。どれほどの危急の用であろうと、所詮第三者から見れば私事以外の何物でもないのだ。
 だから、受付で名を名乗った。
 小笠原祥子である、と。
 小笠原家の次期当主である、と。
 効果はてきめんだった。用件の内容すら聞かれることなく、祥子は応接室に通される。
 すぐに専務が現れ、一通りの美辞麗句を並べ始めた。
 勿論、祥子の目的はそんなものではない。
 ほとんど待つこともなく、可南子が姿を見せる。
「ごきげんよう」
 ただの挨拶の言葉。
 卒業した後でも、リリアン出身者同士なら普通に使われる挨拶。
 友愛と、親しさの証。
 それが今は、氷を含んだような言葉に。
 可南子の表情に、微かな侮蔑のようなものを祥子は感じていた。
 ごく内密に話がしたい。祥子の一言で、専務はそそくさと姿を消す。
「手短に、お願いします」
 可南子が言う。
「もっとも、聞くまでもなく用向きは判っていますけれど」
 可南子は祥子に言葉を挟むいとまを与えず、一気に続けた。
「返事は決まっています。お断りです」
「いい加減にしなさい。学生時代とは違うのよ。我が侭は止めて。貴方、まだ祐巳に迷惑をかける気なの?」
「迷惑をかけているのはどちらでしょうか? 私よりも、貴方だと思いますよ? 小笠原さん」
 冷たく告げるその言葉。
 言葉の内容と、そして自分に呼びかける言葉の種類に祥子は怖気をふるう。
「これは立派な誘拐よ? おとなしく話をしているうちに祐巳を帰して頂戴、細川さん」
 祥子も同じ口調を返した。
 もう、リリアンの先輩後輩ではないのだ。それを告げるために、二人は呼び方を変えている。
「お断りだと言ったはずです」
「貴方、自分が何をしたか本当に判っているの!」
「そっくりそのまま、同じ言葉を返します。貴方が祐巳さまに何をしたか、本当に判っているんですか!」
「言いがかりは止めて! 私が何をしたっていうのよ」
「だったら、どうして祐巳さまが私の所へ来たんですか! 私は強引に連れ出したわけでも騙したわけでもありません。ただ、誘っただけです。まだわからないんですか、貴方が愛想を尽かされているんですよ!」
 あり得ない。絶対にあり得ない。それだけは、絶対にあり得ない!
「嘘!」
 可南子は笑う。
「…貴方が、最後のチャンスを捨てたんですよ。自分から、祐巳さまの差し出した手を振り払っておいて、それでよく嘘なんて言えますね」
「嘘を嘘と言って何がおかしいのよ」
「……地位、名声、財産、家柄、そんなものにしがみついて祐巳さまを顧みることがなかった人の言葉ですか、それが」
 祥子は足下が震えるのを感じていた。
 この感覚は……
 瞳子との電話のやりとりが終わったときと同じ感覚。
 信じていたものが一瞬にして崩壊したとき。確固だと信じていた土台が脆いものだということを、土台の崩壊によって知ったとき。
「瞳子さんの作ったチャンスまで、無駄にして…」
 可南子の言葉が祥子を縛る。
「貴方のために、由乃さま達との再会の宴も中途にして駆けつけた祐巳さま。その祐巳さまを迎えたのは、泥酔した不様な貴方。私の推理、間違っていますか?」
 言葉が出ない。舌が縛られたように動かない。
「理由をつけて祐巳さまを放置して、祐巳さまを一人にして、祐巳さまを顧みることもなく、祐巳さまをただ部屋に置き去りにして、祐巳さまを独りにして、祐巳さまを貴方だけの牢獄に閉じこめて。飾り物のように、ペットのように、絵画のように」
 糾弾の言葉は静かだった。
「それは誰がやったことですか? 祐巳さまが望んだことなのですか? あの日、貴方と祐巳さまが同棲を始めると聞いたときに瞳子さんが望んだのですか? 私がそれを望んだと思っているのですか?」
 糾弾の指が祥子に突きつけられる。
「あの祐巳さまの状態を、どこの誰がいつ望んだというのですか? 貴方には、それに答える義務があるのでしょう?」
 突きつけられた指を、祥子は睨みつけていた。
 答などない、望んでいた者などいない。そう答えるのが一番簡単なのだろう。そしてそれは、真実だ。
 しかし、それは欺瞞だと告げる自分もいる。
 誰も望んでいないことが起こったというのなら、その責は誰が追えばいいのだろう。ただ、それを起こした張本人は判っている。認めたくはないけれど、判っている。
 それを認めれば、可南子はそれ見たことかと笑うのではないだろうか。祐巳は二度と戻らないのではないだろうか。
 次は恐怖が、祥子を縛り付けていた。祐巳を失う恐怖が。取り返しのつかない過ちを認める恐怖が。
「誰も…そんなことは望んでいなかったわ」
 一音節ずつを絞り出すように、祥子はゆっくりと答える。
「では、何故起こったのでしょうか? いえ、起こしたのは誰ですか?」
 間髪入れずに可南子の詰問。
 答はわかっている。というよりも、あらかじめ答えの判っている質問だった。
「祐巳のためよ」
 不様だ。
 祥子は心から今の自分を不様だと思った。過ちを口先で切り抜けようとしている自分。しかもそれは、嘘ではない。だからこそ、余計に始末が悪い。
 嘘ならば、まだ救いがあるだろう。しかし、それは嘘ではないのだ。本当に、そう思っていたのだ。ひどい間違いを信じて、自分は行動していたのだ。
「祐巳のためよ。貴方だって、判るでしょう? 強くなければ生きていけないのよ、私たちは。だから、強くなろうと思った。誰からも後ろ指を指されないように、困らないように、誰からも隠れなくていいように」
「……祐巳さまがそんなことを望んでいたとかどうか、判らなかったんですか」
「祐巳のためなら……」
「捨てられなかったんですか?」
 また、同じだった。
 瞳子と同じ言葉。
「祐巳さまのためにそれらを捨てることはできなかったんですか?」
「…無理よ。できるわけがない…」
「だったら、帰って下さい。祐巳さまは私のところにいます。貴方の所には戻りません」
「わからないわよっ!」
「私は、捨てられるんですよ。貴方と違って」
 祥子は見た。可南子の誇らしげな笑みを。
「…判りませんか? 私のようなごく普通の会社員が、貴方のような人に逆らうのが、社会的にどんな意味を持っているか」
 とんでもない話だった。確かに、祥子がその気になれば可南子の仕事を奪うことも、この辺りに住めなくすることもできるだろう。
 しかし…
「私がそこまで卑怯だと思って?」
「まさか。いくらなんでも、貴方がそんなことまでしないことは私は知っています。だけど、私の上司は知りません。私の会社の上役は誰一人として知りません。知っているのはただ一つ、貴方が小笠原の女帝とまで呼ばれる存在だと言うことだけ」
 可南子は、自嘲気味に続けた。
「そして私は、ただの、ほんの少し有能なだけの給料取りです。切り捨てるべきトカゲの尻尾です。小笠原の機嫌を取れると思えば、切り捨ててもまったく惜しくない尻尾です」
 そして、笑う。
「そして私は陰口をたたかれるんです。小笠原の女帝から彼女を寝取ろうとした愚か者、と」
「可南子!」
「こんな気持ちだったんでしょうか……父を母から奪った夕子さんも」
 祥子は絶句した。
 誰なんだろう。
 これは誰なんだろう。ここにいるのは、祥子の知っている細川可南子ではない。違う。断じて違う。
「でもね、違うんです。祐巳さまを連れ出したとき、ようやく本当に判ったんです」
 可南子はゆっくりと頷いた。
「夕子さんは父を母から奪った訳じゃない。二人を救ったんだって」
 可南子の目は祥子を見てはいない。
「仕事のストレスをお酒で紛らわしていた母は、父を顧みなくなった。父は、独りだったんです。……どこかの誰かに似ていませんか?」
 祥子に言葉はない。
 ただ、目の前の存在を祥子は思い出していた。
 それは、祥子の知っている可南子だった。其処にいたのは紛れもない、細川可南子だと気づいたのだ。
 会ったばかりの頃の。
 祐巳を盲信していた頃の。
 父を憎んでいた頃の。
 心の均整を失っていた頃の。
「だから、今度は私が、祐巳さまを救いたかったんです」
 可南子は、全てと引き替える覚悟をとうにしていた。
 祥子は、その決心に圧倒されていた。祐巳への思い出は負けているとは思わない。いや、勝ち負けで判断できる類のものではないだろう。
 自分が何を犠牲にできるのかと問われれば、祥子は絶句せざるを得ない。犠牲はある。祐巳との暮らしのために犠牲にしてきたものは祥子とて決して少なくはない。それでも、可南子は今捨てようとしているものとは比べられなかった。
 それは勝ち負けではない、それは判っている。判ってはいても、圧倒される思いに祥子は心中で震えていた。
「貴方が祐巳を救う……?」
 可南子は無言で頷いた。それ以上言うことは何もない、とでも言うように無言でいる、と祥子は感じた。
「それで、祐巳は幸せなの?」
 可南子は答えない。奇妙な笑いで祥子を見つめている。
「貴方に救われて、祐巳は幸せになれるの?」
 最後の矜持だった。これでYESと答えられれば、祥子にはもう何も残らない。
「祐巳は幸せになれるの?」
 可南子の奇妙な笑いが崩れる。
 それは、泣き顔だった。
 可南子の無言はただ一つのため、突然あふれ出ようとする涙と嗚咽を隠すためだった、と祥子はようやく気づく。
「紅薔薇さま!」
 懐かしい言葉に一瞬、祥子は陶然とした。
「……私じゃ駄目なんです……紅薔薇さまでないと、駄目なんです」
 嗚咽と共に震える言葉。
 悔しさと哀しみ、怒りと哀願の入り交じった言葉。可南子の手は祥子の襟を掴み、手元に引きつけるように力を込めながら訴えている。
「祐巳さまは、紅薔薇さまでないと駄目なんです。私じゃ駄目なんです……」
 全てを捨てても及ばない。何をしたとしても、自分の存在は祥子には及ばない。
 祐巳がそう告げたわけではないだろう。祥子には判る。
 でもだからこそ、そして可南子だからこそ、判ってしまったのだ。祐巳が本当に誰を求めているか。祐巳が誰を望んでいるか。例えどんな仕打ちを受けたとしても、誰を望むのか。
 だから、可南子は悔しかった。腹立たしかった。それでも、自分の幸せを祐巳の幸せだと思いこむことはできなかった。
「私は、貴方を恨みます……憎みます……だけど、祐巳さまには貴方しかいない…」
 
 
   −続−
 
 
 
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