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幸せですか?
5.「私は幸せだよ?」
 
 
 
 それじゃあ行ってくるわね。と祥子さま。
 行ってらっしゃい、と祐巳が玄関まで見送りに出る。
 今日はそれほど遅くならないと思うわ。と祥子さま。
 わかりました。と祐巳は答える。
 行ってらっしゃいのキスは祥子さまから祐巳の額へ。そして祐巳から祥子さまの頬に。
 今までどれほど沢山のキスを積んでいたとしても、今でも新しいキスの度に祐巳は真っ赤に染まってしまう。
 そんな祐巳をおかしがりながら、祥子さまは家を出る。
 それを見送って、祐巳は台所に戻った。
 朝食の後片づけを済ませて、テレビをつける。一日の天気を確認して、それから洗濯や買い物のスケジュールを考えなければならない。
 テレビの中で、見知った顔が微笑んでいる。
 朝のワイドショーの芸能ニュースに、祐巳の目が釘付けとなった。
 
 
 あの時の行動は軽挙だったと、今でも祐巳はそう思っている。
 突然祥子さまを捨てて可南子ちゃんの元へ。傍目にはそう取られても仕方のない行動だった。
 しかしその日、身支度を済ませた祐巳は家を出る前に宣言していたのだ。
「可南子ちゃん、私は祥子さまの所に絶対に戻るんだよ? 私は、祥子さまのいた場所から離れて冷静に考えるために、今は家を出ようと思ったの。だから可南子ちゃんの家でなければならない理由は何もないんだよ?」
「構いません」
 可南子は静かに答えた。
「目的なんて、この際どうでも構いません。一度、祐巳さまに遊びに来てもらいたかったのは事実ですから」
 嘘をついているよね、とは祐巳には言えなかった。可南子の目に映る一瞬の失望を、祐巳は見逃せなかったのだ。
 迷いはあった。可南子に抱きしめられた温もりを欲している自分もいた。だから、迷った。温もりを選んでしまえばもう迷わないと判っていたから。
 だけど、もう一つハッキリと判っていることがあった。
 自分が、いずれ祥子さまの元に戻ると言うこと。
 可南子の温もりを選ぶと言うことは、いずれ可南子を捨てると言うことなるのだと。それは選択肢ではなかった。それはあらかじめ刻み込まれた記録だった。絶対に間違いのない、変更のあり得ない予定。
 だから、それを告げずに可南子の元に身を投じることはできなかった。その言葉が可南子を傷つけると知っていても、何も言わなければ後でそれ以上の苦しみを与えると判っているから。
 そして、可南子はその祐巳の気持ちを理解した。
 家に招き、ただ、もてなした。 
 リリアンの思い出話に花を咲かせ、お茶を飲んで、思い出を語り、昼食を食べて、一日を過ごした。
 夕食の後、可南子が一言言った。
「私じゃ、駄目なんですね」
「可南子ちゃんは可南子ちゃん。祥子さまは祥子さま。だから比べるなんてできない。可南子ちゃんは祥子さまの代わりには馴れないけれど、祥子さまだって可南子ちゃんの代わりにはなれないもの」
「判っていたはずですけれど、面と向かって言われると、それなりにショックですね」
 けれど、と可南子は続ける。
「祐巳さまなら、そう言って下さるような気がしていました」
「予想通りだったんだ?」
「祐巳さまは、相変わらずご自分の気持ちを隠すのが下手ですから」
「そんなに?」
「ええ。由乃さまや志摩子さま、瞳子さんは言うに及ばず、私にだって、それにきっと、菜々さんにだって判ってしまうでしょうね」
 可南子は笑った。
「判らないなんて言う人は、この世でただ一人だけですよ」
「でも…」
 祐巳は言葉を止める。
「でも…」
 その言葉が宣言になる、と祐巳にはわかっていた。だから躊躇する。でも、躊躇したところでその想いに代わりなどないのだ。
「その人は、私が世界で一番好きな人だから」
「せいぜい、一晩くらいは一番好きな人を悩ませてあげて下さい。距離を置けば、あの方だって見えてくるものがあるはずですから」
 
 
 可南子の言うとおりだった。
 今の祐巳と祥子は、普通のマンションで暮らしている。前に住んでいた場所とは比較にならないが、二人で住むには充分な広さだ。
 そして祥子は、小笠原の勢力争いから撤退を表明していて、全くの別の仕事に就いていた。元々、小笠原の家でも祥子を絶対に後継者にしたがっていたわけではない。祥子が自ら断れば、別の後継者を捜すだけのことだった。
 次期トップは、祥子が撤退したと同時に突然現れ、瞬く間に事態を掌握してしまった男だろうというのが、衆目の一致するところだ。ちなみに彼の名は、優と言う。
 落ち着いた仕事を見つけた祥子は、祐巳との生活を作り上げることを第一に考えるようになっていた。
 祐巳と自分の生活を守る、それだけの力があればいい。不必要なまで大きな力を誇示すること、維持することがどれほど負担になっていたか。今では祥子にもそれは痛いほど判っていた。
 今の祐巳は、まさに平穏な生活だった。
「瞳子ちゃん……」
 芸能ニュースで話題になっているのは、瞳子だ。新人女優賞受賞という言葉がテレビから聞こえてくる。
 世界的にも権威のある、祐巳にも判る賞の名前だった。
「おめでとう、瞳子ちゃん」
 祐巳はテレビ画面に向かって祝いの言葉を贈る。
 瞳子とは最近連絡を取っていない。瞳子の側が忙しすぎるのだ。女優である彼女が忙しいというのは歓迎すべき事だと、一度本人に言われた事がある。少なくとも、今の忙しさは本人も大歓迎なのだ。だから、連絡が取れないこと自体は祐巳も苦にはしていなかった。
 でも、マネージャーと共に世界を飛び回っているという瞳子の事情はわかる。問題は可南子だった。
 あれから、可南子との連絡は一切取れていない。
 会社を首になったと判ったときは、祥子が激怒して、柏木や小笠原家の力を借りてでも元に戻してみせると息巻いていたものだ。
 それは違う、と祐巳が諭した。
 それは、可南子の望みではない。それに、仮に戻ったとしても、そんな戻り方ではいたたまれないだろう。
 父方の実家も、母方の実家も可南子の行方は知らないと言った。
 あの事件以来、可南子の存在だけが、祐巳にとって喉に刺さった魚の骨のように残っているのだ。
「何も考えずに、こんなことをしたワケじゃありません。身の振り方の一つや二つ、ありますよ」
 祥子と共に返った可南子は、祐巳との別れ際にそう言ったのだ。
 それが嘘ではない、と祐巳も祥子も確信している。
 
 
 祐巳は見た。
 瞳子が喜んでいる。
 喜んだ瞳子が抱きついた相手は、背の高く髪の長い女性だった。
 一瞬、懐かしい顔が画面の端に映る。
 リポーターが言う。
「…松平瞳子さんは、親友でもあるというマネージャーさんと抱き合って喜んでいます…」
 祐巳は、もう一度テレビに向かって語りかけた。
「可南子ちゃん、私は幸せだよ?」
 瞳子と可南子も幸せなんだ。祐巳は、そう確信していた。
 
 
 
あとがき
 
 
 
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