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長いお別れ
 
 
 
「こらっ、走らないの。お母さん、ついていけないじゃない」
「お母さん、遅いよぉ」
 今でも、本気で走れば息子に追いつくことは簡単だろう。だけど、荷物をこれだけ抱えているとさすがに難しい。インターハイまで行った身とすると情けないけれど、結婚してからは鈍る一方なのだ。
「荷物、持とうか?」
「いいわよ、別に。貴方が持つと、すぐに乱暴にするんだから。お弁当なんてすぐにぐちゃぐちゃよ」
「あー。そうかもしれない」
 夫が頭を抱えて笑う。
「しょうがないな。お弁当は君が持っていてよ」
 そう言うと、夫はお弁当の入ったバッグ以外を背負って、数メートルほど前に待っている息子に呼びかけた。
「おーい、祐司、戻ってこい。お父さんと一緒に行こう」
「うん。いいよっ」
 息子〜祐司はそう言いながらも動こうとはせず、立ち止まって夫を待っている。
 小走りに追いついた夫が手を伸ばした瞬間、祐司は再び駈け出した。
「こっちだよ!」
「危ない!」
 私は思わず叫んでいた。
 祐司の姿が消える。正確には、下へと動いた。道から外れ、転げ落ちたのだ。
「大丈夫! 盛り上がっているだけだから、深い谷なんかじゃないよ」
 夫の声に、私はホッとする。それでも私は、夫の横に並ぶ位置まで駆けつけていた。
「ほら」
 夫が示す先には、祐司がみっともない格好で尻餅をついている。
「…お母さん…」
 泣きそうな顔でこちらを見上げている姿を見ていると、私も自然と笑みが浮かんでくるようだった。
 きゅう
 野犬? いや、今の声は犬のモノではない。
 見ると、祐司の横に動物が。それも二匹。
「珍しいな」
 呟くように言うと、夫がゆっくりと祐司の方へ降りていく。
「狸だよ」
 その言葉を耳に入れながらも、私は二匹の狸の姿に目を奪われていた。
 愛嬌のある一匹と、どことなく誇り高そうな雰囲気の一匹。狸であるということ以外に共通点は微塵も感じないが、二匹並んだ姿は何故かお似合いに見える。
 そしてさらに不思議なことに、この二匹には見覚えがある。
 そっくりだ。この二匹の姿は……
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 祐巳が失跡したと聞いたとき、祥子は咄嗟に嘘だと思った。
 それもそのはずだろう。祐巳が自分から姿を消す理由がない。祥子には心当たりはないし、そんな気配は全くなかったと祥子には断言できた。
 だとすれば答は一つ。祐巳は自分の意志で消えたのではない。つまり、何らかのトラブルに巻き込まれている。
 不審な点はいくつかあった。祐巳が最後に目撃されたのは自宅なのだ。それも、夕食の席。
 翌朝、部屋からなかなか出てこない祐巳を心配した祐麒が部屋に入っていくと、既に祐巳はいなかった。その後、祐巳の姿を見た者はいない。
 家族、友人も含めて誰にもまったく心当たりがないということから、警察への届けは迅速に行われた。そして祥子の、というよりも小笠原の力でしかるべき調査機関にも即座に捜索依頼が出された。
 そして失跡から数日後、祥子は祐巳と異例の形で再会することになった。
 祐巳がいなくなっても、リリアン女学園の日常は続く。そして山百合会の仕事も続く。それは祥子にとっては既にこうるさいもの、不必要な雑用になりつつあった。祐巳のいない山百合会、そしてリリアンなど、今の祥子には何の意味もないのだ。
 祐巳が一人消えても世界は続く。そして、やらなければならないことを祥子が途中で投げ出すことを最も嫌がるのも、また祐巳だろう。祥子は自分にそう言い聞かせていた。
 たとえそれが惰性に過ぎないとしても、祥子は見事にそれを続けていた。そして、令や志摩子たちにもそんな祥子にかけられる言葉など無かった。
 その日も、祥子は山百合会での仕事を終えてから帰途に着いた。そして、家について門を潜ったとき、声が聞こえた。
 ――お姉さま
 最初は、幻聴かと思った。それは、祐巳の声に似てはいるが異なるものだったからだ。なにか、無理矢理に祐巳の声に似せたような気配のある異質な声だった。
 ――お姉さま
 何度かの呼びかけの後、祥子はそれが幻聴などではないと確信した。
「祐巳? 祐巳なの?」
「……お姉…さま」
 呼び合う祥子と祐巳。祥子はようやく声の出所がわかり、そして当惑した。
 門の内側の植え込みの中からその声は聞こえてくる。どう考えても人間一人が入れるほどの大きさではない。
 それでも、声の出所に間違いはないのだ。
「祐巳…そこにいるのね」
「はい、お姉さま。私…」
 祥子は優しく言う。
「祐巳。貴方がどんな状態であろうと私は構わない。貴方が祐巳であるのなら、どんな姿でもどんな状態でも構わない。だから、姿を見せて」
「お姉さま…」
 やがて、植え込みの中から出てきた祐巳の姿に祥子は絶句した。
「貴方…」
 確かに、祐巳は子狸と呼ばれていた。だけどそれは、可愛らしさや愛嬌を表す表現のはずだった。
 そこに本物の子狸を見たとき、祥子は絶句した。
 そして次に、抱き上げた。
 祐巳がそう言ったから…、ではない。祥子にはわかったのだ。
 その姿がどうであろうとも、そこに至る経過に何があったのだろうと、それは紛れもない福沢祐巳。そこにいるのは祥子がロザリオを渡した祐巳だった。
「祐巳。無事だったのね」
「お姉さま」
 異質な声と感じたのは、本来生物学的に不可能な行為だからだろう。狸の発声器官では人間の言葉を発音できるはずがない。
「大変だったわね、祐巳」
 まず、祥子は労った。
 
 部屋に連れて行くのは簡単だった。そして、数日間ろくな食事の取れなかった祐巳に温かい食事を与えることも。勿論、人間の食事を。
 問題はこれからのことだった。
 大きな問題は考えるまでもない。
【祐巳を人間に戻す】
 これには反論の余地はない。方法は別として、目標は決まっている。
 それに較べると小さな問題ではあるが、人間に戻るまでの過ごし方が問題だった。
 表向きは小笠原家のペット。それは何の問題もない。
 ただ、この状態をどれだけの人間に知らせるべきなのか。
 祐巳の家族。山百合会。リリアンの友人。それ以外は問題外だ。
 伝えてはならない。それが結論だった。
 祐巳が祥子の所へ駆けつけたのも同じ理由だった。
 ふと気付くと、祐巳はこの姿になっていた。一晩考えた祐巳は、祥子の元へ向かうことにした。
 家族ですら、この姿を見て祐巳だと思うかどうか。
 でも、お姉さまにならわかってもらえる。
 その一心で祐巳は家を飛び出したのだ。
 祥子も賛成した。
 そもそも、この事実が外部に知られればどうなるかわかったものではない。好奇心という名の残酷な刃の恐ろしさは、小笠原という名門の家に生まれた祥子には骨身に染みている。
 だから、二人はそう決めた。
 しばらくの間はこの秘密は二人だけのもの。戻ることが出来そうなら、その時に明かせばいい。
 もしその行為が余人に責められるというのなら、その責めは甘んじて受けるわ、と祥子が微笑む。
 この時既に、二人には薄々と感じていたのだ。
 こうなった原因がわからない以上、元に戻る保証など全くないと言うことが。
 仮に一緒の間このままだとしても、祐巳の寿命が続く限り一緒にいよう、と祥子は誓った。
 それまでルーティンワークをこなすように淡々とこなしていた山百合会の仕事に、祥子は再び打ち込み始めた。
 驚く令達に祥子は言う。
「こうした方が、祐巳は喜ぶと思うの」
 志摩子も由乃も、そして乃梨子もその言葉に頷いた。いや、蔦子も真美も。二人の関係を知るものは皆頷いた。
 ただ一人を除いて。
「祐巳さまのいないリリアンなんて!」
 ただ一人、正面からそう言いきったのは瞳子だけだった。
 誰も、瞳子には何も言えなかった。その気持ちは痛いほどわかるのだ。
 瞳子は一人で祥子に反発した。祥子はその反発を甘んじて受け止めていた。
 黙って受け止め続ける祥子に、瞳子の反発はより激しくなっていった。それは、誰の目にも逆上と取れるような言動へと変わっていく。
 最初にそれを制止したのは乃梨子だった。
「いい加減にしなよ。祥子さまだって哀しくないわけないのは、瞳子だってわかっているんでしょう? いつまでも祐巳さまのことを悲しんでいたって、仕方ないんだよ」
 正論だった。そしてそれ故に瞳子には承服できないことだった。
 瞳子の反発は乃梨子に向いたが、乃梨子はそれをうまくいなしていた。
 そして、ついに瞳子が爆発する事件が起こったのだ。
 事の始まりは、やはり瞳子だった。
 祥子が瞳子にロザリオを渡そうとした。当然のように、瞳子はそれを断った。烈火のように激怒し、口汚く祥子を罵る姿を祥子は哀しそうに眺めているだけだった。
「山百合会は、リリアンに必要なのよ。祐巳がいなければ、紅薔薇さまを受け継ぐのは瞳子しかいないの」
 これもある意味正論。そして、瞳子には絶対に受け入れられない正論。
「私は、祐巳さま以外の方からロザリオを戴く気はありません! ましてや、あれほど仲睦まじかった妹のことをあっさりと忘れてしまわれるような冷酷な方のロザリオなど!」 
「そう」
 祥子はただ一言、そう言った。まるで「紅茶に砂糖はおいくつ?」という問いに「二つ」と応えられたように。
 あくまでも平然と。そして静かに。
 さすがに、この行為には由乃と志摩子が黙っていなかった。それでも、紅薔薇さまを絶やすわけにはいかないというのは、どうしようもなく正論なのだった。祥子の言い方ややり方は別として、それを認めないわけは行かなかった。
 そして、ここまでなら瞳子も爆発はしなかっただろう。
 祥子は次代の紅薔薇として可南子を選んだのだ。
 瞳子には、可南子個人に含むところはない。それでも、可南子が一度は祐巳の妹候補だったという事実が瞳子を逆上させた。
「そうやって祐巳さまの跡を追うくらいなら、どうして祐巳さまを無視するんですか! 帰ってきて欲しくないんですか!」
 その問いに、祥子は答えなかった。
 ただ、紅薔薇さまの継承が必要だ、とだけ、事務的に応える。
 薔薇の館で、瞳子が祥子を詰問する場面。そこに同席していたのは、祥子に呼ばれた可南子、そしてたまたま早めに来ていた菜々だけだった。
 可南子と菜々の前でそれは起こった。
 乾いた音。殴打音。
 瞳子が、祥子を殴り倒していた。
 祥子に駆け寄る可南子。瞳子を羽交い締めにする菜々。
「離しなさい、菜々ちゃん」
 祥子はそう言って、可南子に下がるように手で合図する。
「瞳子。貴方の気が済むのなら、いくらでも殴りなさい。私はここにいるわ。そして、絶対に退く気はないの」
 瞳子はそれ以上を手を出さずに、今度は可南子に向き合った。
「貴方も貴方よ。どうして、ロザリオを受け取るのよ!」
「私は、祐巳さまのロザリオが欲しいと思ったことはないの。私はただ、祐巳さまにもらった物を別の形でリリアンに返そうと思っただけ。だから、お姉さまにロザリオを戴いたのよ」
「祥子さまをお姉さまと呼んでいいのは、私と祐巳さまだけなのよ!」
「リリアンでは、今は私だけよ」
 再び上がる瞳子の手を、可南子はあっさりと受け止める。
「私は黙って殴られるつもりはないわ」
 可南子の手を振り払った瞳子は、そのまま薔薇の館を後にした。
 その後、瞳子の姿をリリアンで見ることは二度となかった。
 瞳子は翌日、退学届けを出した。
 祥子の卒業後、可南子は立派に紅薔薇さまの役割を勤めた。
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 私は今でも時々思い出す。
 卒業式の後の、お姉さまの言葉。
「可南子、私が卒業後突然行方不明になったとしても、探す必要ないし、悲しむ必要もないのよ」
 祐巳と同じように、とは言わなかった。
 だけど、私にはそう聞こえた。そして私にはわかった。
 お姉さまは祐巳さまの行方を知っている。そして、いずれ後を追うのだろうと。 
 その道は、私には辿れない道なのだろうと言うこともわかってしまった。
 今、私の前には二匹――
「お久しぶりです、お姉さま。祐巳さま」
 私は思わず呟いていた。
 祐司と夫が、不思議な顔をしている。
 二匹は私を見ていた。
 いや、違う。
 私は気付いた。もう一匹いる。
 二匹に寄り添うようにもう一匹が姿を見せた。
 頭の横の毛が、くるくると巻かれている。
 ああ、なんて、懐かしい姿。
 見つけたのね。
 貴方は、辿ることが出来たのね。
 ゆっくりと去っていく三匹の姿を私は見送った。
 涙の止まらない目で、いつまでも、いつまでも――
 
 
 
あとがき
 
 
 
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