幸せなマリオネット
あの人の体重を感じながら、私は熱い息を吐いているのだろう。
罪深い。私も彼も知っている。私たちは罪深い。
身震いするほどに。快いほどに。
背の高い彼に抱かれる度に、私はもっと小さな子供になったように錯覚する。そしてその度に奇妙な申し訳なさを覚えるのだ。
私が本当に子供であれば、こんなことにはならなかったのに。
彼はまだそこまで壊れてはいないのだから。だけど、私を抱くほどには壊れている。
壊れた男に抱かれるのは恐ろしい。そしてその恐ろしさが奇妙に快い。
「ごめんね」
私はある日、彼の耳元で囁いた。
事が終わって気怠げに寝ころぶ彼の耳元で。
「背が低くてごめんね」
訝しげな彼の耳元で、私は毒を流し込む。
「背が高い女の子が好きなのでしょう?」
焼きごてを押しつけられた罪人のように跳ね起きたあの人の恐ろしい顔を、多分私は一生忘れない。
…ああ、この人はこんなに恐ろしい顔ができる人なんだ
…きっと、図星なのね
私を見つめるあの人の目には、きっと殺意が浮かんでいた。
もう一言で、私は縊り殺されていたかも知れない。ただ、あの子の名前を出すだけで、彼は簡単に逆上してくれるのだろう。
私を慕ってくれていたあの子の名前を出すだけで。
私も彼も、あの子をこれほど裏切っているというのに。
今さらあの子に脅えているというのだろうか。
自暴自棄とは少し違う。ただ、確信があった。
彼と婚姻を結んだ女は、きっと私と同類なのだ。いや、私以上の怪物だろう。
だから私は存外に平気だった。
彼の妻に会うことにためらいはない。ただ、彼の娘に気づかれないように会うのは苦労した。
彼女は私を歓迎してくれた。少なくとも、私を見るなり「泥棒猫」と詰るような三文芝居は向こうも御免蒙るようだった。
「互いに利用しただけよ」
今となっては利用価値がなくなったのだから、別にいなくなっても構わない。
「私とあの人って、遠い親戚なのよ」
法的には結婚できるほどの薄い血縁なのだけど、名字は同じだと言う。だから、離婚した後でも娘は名前を変える必要がないと。
便利で良いわよね、と彼女はクスクス笑う。
「田舎にはね、知恵より知識を優先するような女の居場所はないの」
だから、都会へ出たかったのだと言う。どんな手段を使っても。
「あの人とは半分幼馴染みみたいなものだったから」
先に都会に馴染んでいた彼を追って、田舎を出た。そして半ば無理矢理に同棲を始めた。彼女はそう説明した。
「惚れた男に付いていくと言えば、親も反対できなかったのよ。幼馴染みが好きだったと言えば、万事丸く収まった。そんな話が好きだからね、あの世代は」
「好きだったんですか?」
「貴方と同じじゃない? 唯一身体を重ねる相手として選ぶ程度にはね?」
「重ねただけではないでしょう?」
娘が生まれている。それは何かの手違いとでも言うのだろうか。
そうだとすれば、それは許したくない。私はもしかすると、彼よりも彼の娘のほうが好きなのかも知れない。でも残念なことに、彼の娘は私と同じ性の持ち主だ。私にはその嗜好はない。
「……大好きよ、娘は。愛していると言ってもいいわ。あの人とは別。可南子はあの人の娘でもあるけれど、私の娘なんだから」
だから、私に感謝している。と彼女はまた笑った。
「貴方がいる限り、可南子はあの人に引き取られようとはしないでしょう? 貴方をお母さんと呼ぶことに、抵抗がないわけないもの」
確かにそうだろう。私も、可南子が私をお母さんと呼ぶ姿など想像もできない。
「…あの人は、可南子を引き取りたいのでは?」
「…ああ、そういうこと」
彼女は三度、笑った。
「そうね、私と別れて、貴方とも別れて、娘だけを連れて田舎に戻る。あの人にはある意味相応しいかもしれないわ」
今なら、可南子は私とあの人の関係を知らない。黙っていれば、今後も気づかないだろう。それほどに、可南子は自分の父親や私を信頼している。
「簡単な話があるの」
彼女の笑いは止まない。
「私は都会に残るためにあの人と結婚したの。だけど、あの人は最後まで悩んでいたわ」
だから、後押しをしてあげたの。そう言って彼女は細長い何かを取り出した。
蛍光灯の光を反射するそれは、禍々しい物のように私の目には映っていた。
「貴方も使ってみる?」
ああ、それを使ってあの人を繋ぎ止めるというのか。
何の変哲もない一本の針で穴を空ける。
ただそれだけ。
女の子なら、名前は次子。
男の子なら……ううん、多分女の子。
可南子に似た子が産まれるといいな。
なんとなく楽しい気持ちで、私はあの人を待っている。
ぷすぷすと穴を空けながら。