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夢の輪廻
 
 
 
 その日、令が久し振りに江利子と会ったのは、単なる偶然だった。
「ごきげんよう」
 信号待ちをしていて、後から話しかけられたのだ。
「…お姉さまっ」
 少しの間忘れていた言葉が甦り、慌てて口をつぐむ令。
 リリアンから離れた大学に通うようになってから、リリアンでの習慣となっていた言葉が、どれだけ他から奇異に見られるかは骨身に染みている。
「ああ、懐かしいわね、その言い方」
 だけど、江利子さまは喜んでくれたようだった。
「どう、最近。由乃ちゃんは?」
 その問いに、令は複雑な笑みで応える。
「あー。由乃は今日も、菜々ちゃんと…」
「ふーん。気が揉めるわね、令」
「そうでもありませんよ。私は菜々ちゃんと違って、家に帰ればいつでも会えるわけですから」
 言った言葉に被せるように、下の方から声がした。
「江利子ちゃん?」
「こら、江利子ちゃんじゃない。江利子さん…あ、いや、鳥居さんだろ」
 そのやりとりでようやく、令は江利子の隣の二人連れに目を向けた。
 というより、できるだけ視界から外れるように、意識から外れるように仕向けていたのだが。
「知っているわよね、山辺さんとお嬢さん」
 忘れるわけがない。その理由は江利子とは違っているけれど、令がこの顔を忘れるわけはないのだ。
 ハッキリ言えば、憎たらしい。
 どうも、と言いながら山辺は頭を下げる。
 令もとりあえず会釈した。自分でも大人げなく情けないとは思うのだけれども、こればかりはどうしようもない。
「ごきげんようっ!」
 子供が元気に挨拶する。どうやら、この挨拶は江利子を真似たものらしい。
「何故だか、気に入っちゃったみたいなのよね」
 苦笑する江利子に同調して、半分照れたように笑っている山辺。
 令は面白くない。
 だけど子供にはその辺りの微妙な空気が読めるわけもなく、
「あのね、あのね、今日はね、お泊まりなの」
 そして令は、子供の無邪気な言葉に水をさせるような性格でもなく、
「ふーん、そうなんだ。良かったねぇ。それじゃあ、今から幼稚園に行くんだね」
「うんっ」
 つまり二人は、この子を幼稚園のお泊まり会に送り届けるところなのだろう。
 令はふと何の気無しに顔を上げた。
 江利子と目が合う。江利子は慌てたように視線を逸らした。
 一瞬、令は不審を感じる。
 尋ねようかと思ったとき、信号が青に変わった。
 走り出す子供。追いかける二人。
「それじゃあ令、またね」
「あ、はい」
 疑問を持ち出す間もなく、令は江利子と別れる。
 
 …今のは、なんだったんだろう…
 
 その夜、令は夢を見た。
 
「……お姉さま?」
 江利子が手を振っている。
 立ち止まっているだけなのに、二人の距離は遠ざかっていく。
「さよならね。令」
「え?」
「正確にはさよならじゃないけれど。“私”とはもうお別れね」
「お姉さま?」
 それは夢だとわかっていた。
 夢だとわかっていても奇妙だった。夢なのに、相手に意志が感じられる。自分の夢の中に別の者が入ってきたような感覚と言えばいいのだろうか。
「お姉さまの仰ることがよく、わかりません」
「うん。令にもいずれわかると思う」
 江利子は寂しそうに笑う。
「でも、こればかりは仕方ないのよ。さようなら、令」
「お姉さまっ!」
 自分の声で目が覚めても、夢の余韻が残っていた。
 令は考える。
 昼間の間に出会ったお姉さまが夢に出てきたのだろうか。
 お姉さまが山辺先生と結婚することを思い出して、それであんな夢を見てしまったのだろうか。
 だけど、それは違うような気がする。
 もっとなにか、別の何かに別れを告げられたような気がする。
 それがなんなのか。そう問われても今は答えられないのだけれど。
 しばらくの間、天井の染みを数えながらぼおっとしている。朝だというのに由乃が来る気配もない。
 休みの朝になると欠かさず顔を出していた頃もあったのに。
 だけど、今となってはこれがあたりまえなのだろう。いつまでも同じままではいられない。今の由乃は黄薔薇のつぼみでも令のプティスールでもない。黄薔薇さまであり、菜々のグランスールなのだ。
 頭ではわかっていても、嫌なものは嫌だ。
 我が侭だな、と自嘲気味に苦笑しながら、令は身体を起こした。部屋の中に籠もっているから、こんなマイナス思考になる。外へ出れば、多少は気も晴れるだろう。
 
 そして二日連続で同じメンバーに出会う。
 というよりも、令が昨日と同じコースを歩いていたのだ。
 お泊まり保育に山辺先生の娘を送っていた二人だ。翌日、迎えに行くのに同じコースを通っても何の不思議もない。
 自分が迂闊だったのだ、と令はすぐに気付いた。
 そして、どう言葉を交わそうかと考え、江利子を見た。その瞬間――
 殴られたかと思った。
 自分が呆然としている、と令は思った。
 カチャリ、と音を立てて錠前が閉じたような感覚。
 何故? と尋ねてもわからない。何故かわかってしまう、としか答えようがない。
 違うのだ。
 ここにいる江利子さまは違う、と令は感じていた。
 …ああ
 理解していた。令は自分の理解を、どこか遠くで聞いていた。
 …そうか。そういうことなのか
 お泊まり保育。つまり、二人きり。
 好きあっている者同士が、二人きりになれたのだ。
 別に、悪いことをしているわけではない。二人は将来を約束している。見方によっては「ようやく」ととらえる人もいるだろう。
 要は、二人の問題なのだ。余人が、ましてや令が干渉できる問題ではないのだ。
 伝え聞く人柄から考えれば、これで二人の間は落ち着くのだろう。山辺先生は、互いの結婚を具体的に決意しているのだろう。
 だとすれば、これば祝うべき問題なのだろう。
 しかし、とりあえず、今は…
「ごきげんよう、令」
 今は、その挨拶に応えたくない。
 どうして。と令は尋ねたかった。
 今は、話しかけられたくない。
 今のお姉さまとは、話したくない。
 理屈では、自分が愚かなのだとわかっていたけれど。
 お姉さまをそこまで束縛することなんて、できるわけがないこともわかっている。そして令には束縛する気がないことも事実だった。
 だけど。
 何か違う。
 違和感が祓えない。
 誰の悪意もない、誰も被害を受けていない。それなのにただ一人だけが違和感を感じている。
 そんな自分が不自然だとわかっている。
 わかっていても、どうしようもない。
 潔癖なのか。
 潔癖であると素直に頷けばいいのか。
 きっと、そうなのだろう。
 その解釈が一番穏便に思えた。
「どうかしたの? 令?」
「いえ。なんでもありません。ちょっと、立ちくらみしたみたいで」
 適当に言葉を返す自分。
 普段のお姉さまならこんな自分に気付いていたに違いない。だけど、今のお姉さまにはそれ以上の気がかりなことがあるのだろう。
 いや――
 令は突然、そのことに思い至った。
 そうだ。
 お姉さまにしても、自分には会いたくなかったのではないだろうか。
 悪いことをしたわけではないというのに。
 後ろ指を指されるようなことではないのに。
 そこに罪悪感が発生してしまうのは何故だろう。
 裏切り、と言う言葉が連想されてしまうのは何故だろう。
「それじゃあ、失礼します。ごきげんよう」
 昨日よりはほんの一歩か二歩縮まった二人の距離。それを横目で見ながら、令はその場を立ち去った。
 
 また、同じ夢を見るのだろうか?
 それなら、夢の中でなんと言おう。
 おめでとうございます、なんて大きなお世話だろう。
 ただ、さよならに応えるだけでいいのだろう。そして、言えるのなら言えばいい。
「それでも貴方は、私のお姉さまです」
 多分、胸を張ってそう言える。言ってみせる。
 
 でも一つだけ、わからないことがあった。
 
 その時が来れば自分も、由乃の夢の中でさよならを言うのだろうか?
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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