SWEET&BITTER
〜粒チョコの波紋〜
中編その二
「緊張しないで」
そう言っている自分が緊張していてはお話にならない。と可南子は心の中でひとりごちた。
意識したわけではないのだけれど、いつの間にか、まるで瞳子を背中から抱きかかえているような体勢になっている。
夕子さんも祐巳さまも、可南子が好きになる相手はみんな可南子より小さい人ばかり。当たり前だと言われそうな気もするけれど、ただ物理的に小さいだけでは駄目。小さいというイメージ、可南子が抱きしめてしまえるようなイメージが大切なのだ。夕子さんと祐巳さまがどこか似ているように、瞳子にも二人との共通点がある、可南子にはそんな気がしていた。
「しっかり持つのよ」
そんなことを言いながら、瞳子の手を握る力を少し強くする。瞳子はしっかりと包丁を持っているはずなのに。
「危ないから」
そんな言葉なんてただの言い訳に過ぎないって、誰よりも自分が一番よくわかっている。
息をする度、吐息が瞳子の柔らかな髪をくすぐる。
そして感じる微香。それはまさに、『媚香』だと可南子は感じた。男に媚を売るための香があるのなら、同性に媚を売る香があってもいい。
だけど、それは何の香?
香水を使う子はリリアンにも少なくない。勿論、リリアンの少女ともあろうもの、はしたない真似はせずに文字通りの微香程度に過ぎない。
お姉さまのお気に入りの香を探して、その香を身にまとう。それは香水だったり、ときには石鹸だったり、あるいは化粧品だったり。
瞳子が祐巳さまの好きな香をまとっていても、それはそれで自然なこと。
だけど、今日は祐巳さまはいない。ここにいるのは可南子だけなのに。
誰のための微香? それとも、媚香?
自分でも危ういと思える方向に傾いていく思考にストップをかけて、可南子は手元に集中しようとする。
あろうことか、視界の半分が瞳子の頭で占められている。そんなことにも気付かないほど、自分は自分の想いに没頭していたのか。
こんなざまでは瞳子にどんなふうに思われているやら。もしかすると、とんでもないところに来たと思われているかも知れない。そう思うと腹立たしく、言葉遣いが少し乱暴になってしまう。
「見えないわ」
瞳子の身体を引き寄せて、視界の中の頭を少しでも減らそうとする。するとようやく手元がしっかりと見えるようになった。
結局、瞳子の身体をしっかりと引き寄せておけばいいということらしい。
必然的に、可南子の身体は瞳子の身体と密着することになる。
されるがまま引き寄せられて、身を固くして緊張している様子の瞳子が弱々しく見え、可南子の庇護心を駆り立てた。
それなのに、つい口調は荒くなる。
「どうしたの? 早く手を動かして?」
その声に気押されたように、瞳子の手がギクシャクと包丁を動かし始める。
慌てる可南子。瞳子の包丁の使い方は危なっかしくて見ていられないのだ。
「慌てないの」
瞳子の手を握る手に力を込める。
「ちゃんと手元を見るのよ。こうやって…」
最初はゆっくりと包丁を動かし、チョコレートを刻んでいく。
そして少しずつ速度を速め、緩やかなリズムに合わせるように包丁が動く。
「リズムを覚えてね? 演技するつもりになれば簡単じゃない?」
いいながら、可南子は自分の手が瞳子の手から離れないことに気付いた。
まるで糊でも付けたかのようにピタリとくっついている。そして、瞳子の手からは少しずつ力が抜けていくのがわかる。まるで可南子に全てを任せるかのように瞳子の手からは力が失われていく。
そしてそれに合わせるように、瞳子の身体も可南子に預けるように傾いている。
体重をかけられて、もたれかかられて、自分の中に入ってくるように押し込まれて。
それが可南子には深いとは感じられなかった。いや、それは心地よさを伴う強制だった。
強引に押しつけられる瞳子の身体を可南子は受け入れる。
しっとりと肌に吸い付くような湿り気を帯びた瞳子の手のひらが心地よい。そして胸元に、お腹に、腰に感じる瞳子の重み。
身体全体を任せきるとでもいうようにゆったりとした、うっとりした雰囲気を漂わせながら、瞳子の身体は可南子に預けられている。だから、いや、仮にそうでなくても、可南子はそれを受け入れる。
こうしてみたかった、のかもしれない。
薄皮一枚の境で、可南子は踏みとどまっていた。
あと少し、ほんの少し力を入れれば。
両手をこのまま中に巻き込めば。
微香に震える鼻梁を豊かな髪に埋めれば。
吐息を下へと伸ばし、うなじに吹きかければ。
振り向かせ、その唇を見つめれば。
サイズ違いのトレーナーの、危うげに余っている襟元に視線を落とせば。
その瞬間、何かが始まって何かが終わる。
どちらも、二人にとってとても大切なもの。
選ぶことなんて出来るわけもなく。
それでも、いや、それだからこそ、この瞬間の心地よさを感じ続けていたい。せめて、しばらくの間だけでも。
瞳子がこのままでいる間に。
可南子のそばにいる間に。
瞳子には祐巳さまがいて、乃梨子もいて。二人とも、可南子にも大切な人だから。だから、少し距離を置いて。
奪わないように、だけど、奪われないように。
のめりこむと突き詰めてしまう自分の性格は、誰よりも自分が一番わかっているつもりだから。
今はこうやって温もりと重み、そして匂いを確かめていたい。
一瞬か、それとも数分か、あるいは数時間なのか。
微睡みにも似た時間が過ぎたとき、瞳子が突然身を起こそうとする。
「あ、可南子、ごめんなさい」
咄嗟に可南子は瞳子の手を握りしめた。
――行かないで
だけど、口から出た言葉は。
「瞳子の馬鹿」
人をこんな風に惑わせておいて。
一言の謝罪で済ませるなんて。
それで終わりにしてしまおうとするなんて。
なんて馬鹿なんだろう。
だけど口から出る言葉は。
「ぼうっとしていると危ないわよ」
――私の馬鹿
「ちゃんと包丁を持ち直して」
「はい」
「つづけるわよ」
「ええ」
神妙に、作業が再開した。
二人は無言で息を合わせ、チョコレートを刻んでいく。そして刻み終わったそれをボウルに入れると、そのボウルを熱湯を入れた別のボウルに浸す。
「これでチョコレートを溶かすの」
「電子レンジでは駄目なんですの?」
「確かに早いけれど、風味が飛んでしまうわ」
へらでゆっくりとかき混ぜながら、溶けていくチョコレートを見つめる二人。
「…可南子」
「なに?」
「可南子の馬鹿」
「え?」
思わず、可南子は手を止める。
「何よ、いきなり」
「さっきのお返し」
「さっきって……瞳子が包丁を放すから…」
「嘘。それくらいわかります」
可南子は無言で再びかき混ぜ始める。
瞳子もそれ以上何も言わない。
無言の二人の視線がボウルに注がれている。
刻んだ欠片の半分ほどが溶けたところで手を止めると、可南子はアーモンドの準備を始めた。
砂糖を溶かして作った水飴に潜らせたアーモンドを、バターに絡めて冷やしてあるものを取り出す。
「これにチョコレートをつけるのよ」
作業自体は滞りなく進む。
「可南子」
可南子は答えず、チョコレートを溶かしきる作業を続けていた。
「可南子」
可南子は答えない。
「…乃梨子が羨ましいですわ」
「なにを?」
「乃梨子は絶対にぶれませんもの」
乃梨子はぶれない。
可南子の言葉を待たずに瞳子は続ける。
「何もかも、志摩子さまがいらっしゃるんですから」
お姉さまであり、友人であり、もしかするとそれ以上かも知れない人がいる。それは乃梨子にとって幸運なこと、と瞳子は言う。
そうすれば、ぶれずにいられる。選ばなければならないという悩みもない。
「乃梨子にとっての志摩子さまのような御方が複数いたら、どうすればいいのかしら…可南子はどう思いますの?」
アーモンドの入ったボウルに瞳子は手を伸ばす。
チョコレートを溶かしたボウルを、可南子は手に取った。
コーティングされたアーモンドをつまみ、一粒ずつゆっくりとチョコレートのボウルの中へ落としていく。
「それは、例え話なのかしら?」
「ええ、あくまでも、例え話ですわ」
「それは、お姉さまがいて、友人がいて、それ以上かも知れない人がいて、皆がそれぞれバラバラにいるということなのかしら?」
「いいえ」
そうなら、迷うことはない。と瞳子は静かに告げる。
つき合いかたを変えればいいだけのことだから。お姉さまがいて、友人がいて。それはとても豊かなこと。だから、何も迷うことはない。ただ受け入れればいい。
でも。
お姉さまにしたい人が二人いたら?
「あくまで例え話ですけれど」
友人、これは二人いてもいい。いや、二人どころか、いくらでもいていい。
では、それ以上かも知れない人が二人いたら?
それが、お姉さまや友人と重なる存在だったら?
お姉さまであり、それ以上かも知れない人。
友人であり、それ以上かも知れない人。
瞳子はアーモンドを摘んで、チョコレートのボウルにゆっくりと落とす。
優しく静かに落とすため、甘い水面にアーモンドを近づける。
指先がチョコに触れた。
可南子の視線を確かめるように、瞳子は大仰な身振りで指を持ち上げる。そして、視線を確かめた瞳子の指に、ゆっくりと近づく赤い舌。
唇に触れ、吸い取られていくチョコレート。
「可南子ならどうする?」
チョコの甘い匂いに重なる瞳子の質問。
可南子は気付いた。
チョコに触れた瞳子の指は二本。
吸われた指は一本。
甘い匂いのついたまま、一本の指が残っている。
二人の視線が重なる場所に、その指が立っている。
「答は簡単かも」
可南子に視界に入るのは、白い肌と黒いチョコ、赤い唇。一色違いのトリコロールをさらに彩り漂う、甘い匂いと微香。その背後には微笑みと視線。
一色違いのトリコロールが紅白に変わる。
可南子の唇へと消えていく黒い色。
一つの色が唇に消えて、代わりに産まれる一つの答え。この場では唯一無二の、他には考えられない答え。
「想いの量が同じなら、応えてくれる人に傾ければいい」
二人が同時に同じ言葉を飲み込んだ。
――あの人には、祥子さまがいるもの―