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SWEET&BITTER
〜粒チョコの波紋〜
後編
 
 
 見つめ合う視線が宙に形を得たように、二人の視線は絡みついて剥がれない。
 そこに言葉は産まれず、ただ、先刻の言葉だけが二人の間に凍りついたように固まっている。
「想いの量が同じなら、応えてくれる人に傾ければいい」
 その言葉を、瞳子は受け取れなかった。
 受け取れば、応えることになる。
 応えれば……
 嫌なの? と瞳子は自分に問うてみた。
 否。と即座に答が返る。それが自分にとって驚きでも何でもなくて。そう答えるとはわかっていても、それでも心のどこかが揺れて。
 揺れた自分を抑えるように、もう一度視線を確かめたとき。
 一筋流れる黒い涙。
 瞳子は、すぐにそれが涙ではないと気付いた。
 可南子の唇に触れる瞳子の指から流れ落ちた一筋は、ただの溶けたチョコレート。可南子の唇へと吸われなかったチョコレート。
 チョコレートの雫が、可南子のトレーナーに落ちた。
「あ」
 ほんの小さなアクシデントが絡みついていた視線をほぐす。
 二人の身体は一瞬離れ、視線はトレーナーの黒い染みを追う。
「チョコが…」
 瞳子が言い終わる前に、可南子はトレーナーの前をめくり上げていた。
 瞳子の視線を吸い寄せるような白い肌。
 細くて白い。そして多分、柔らかい。背の高さから想像されるしなやかさと、激しい運動を好む者特有の腹筋の張りが、しゃんとした肌を瞳子に見せつけている。
 捲り上げたトレーナーとスパッツの隙間に見えるお臍が不思議に艶めかしく、瞳子はまた別の向きに視線を絡め取られた錯覚を覚えた。それでも、相手の視線がないだけ、そこから自分の視線を引きはがすのは容易く。だからといって脳裏に焼き付いた肌の色が消えるわけもなく。
 臍回りから上へ、胸元、鎖骨、うなじ。
 臍回りから下へ、腰、お尻、太股。
 そうやって想起する肌の続きを振り払いながら、瞳子は可南子の行為に目をやっていた。
「可南子…?」
 トレーナーを捲った可南子は、チョコの落ちた箇所に唇を当てている。生地に染みこむチョコを吸う唇。
 瞳子は、自分のトレーナーに目を落とす。
 再び顔を上げたとき、同時にふと、可南子が目を上げていた。
 絡む二人の視線。
 それは無意識の行為だったのか、可南子は初めてそれに気付いたように捲り上げていたトレーナーから手を放す。そして照れたように顔を背けると、呟いた。
「染みに…なってしまうから…」
 ふてくされるでもなく、自分の反射的な行為に本気で恥ずかしがっている様子に、瞳子は思わず笑ってしまう。
「可南子、可愛い」
「瞳子、貴方、何言い出すのよ」
「だって、可愛いんですもの」
 瞳子は咄嗟に指を伸ばしチョコを掬った。指に、たっぷりと。それこそ滴り落ちるほどに。
「何するの?」
「気を付けないと染みになりますわよ、可南子」
 ワザと、可南子のトレーナーに落とす。
 トレーナーに届く前に手のひらで受けて、可南子はそれを口に運ぶ。
「もうっ!」
  伸び上がるようにして向かってきた可南子から瞳子は逃げようとしたけれど、身長の違いはそのまま手の長さの違いですぐに捕まってしまう。捕まえられた手は、可南子の口元へ引かれていき、
「いい加減にして」
 そんな言葉を発した柔らかい唇が瞳子の指を包む。指先に付いたチョコレートを、暖かな舌が丹念に掃除する。
「瞳子の、悪い、指」
 節を付けるようにとぎれとぎれに呟くと、可南子は悪戯っぽく笑いながら瞳子を睨んだ。
 かりっ
 そんな音が聞こえたような気がしたのは、指先に与えられた刺激のせい。可南子の唇が少しすぼんで、力の入った顎が微かに動いている。
 軽く噛まれた指に顔をしかめて、それでも瞳子は微笑んだ。
「可南子は、チョコが、好き?」
 返歌のように節を付けて言い返しながら、瞳子は余った方の手でチョコボウルの中のアーモンドを掴む。
 たっぷりとチョコを被ったアーモンドを可南子の鼻先に突きつけながら、瞳子はくわえられたままの指を引き抜こうとする。けれど、可南子の唇は瞳子を離さない。
「…駄目」
 可南子の手も瞳子の手を握りしめて離さない。
「チョコは、もう、いらない、かも」
 噛む力が少し強くなる。
 噛まれているから痛いのに。
 痛いはずなのに。
 …痛くない。
 甘い。
 …甘噛みっていう言葉、噛まれる方も甘いんだ。と、瞳子は思った。
「本当に、いりませんの?」
 アーモンドはゆっくりと、二人の視線を受けたまま動く。
 二人の間から、瞳子へと。瞳子の指に挟まれたそれは、そのまま唇に挟まれる。瞳子の唇へと。
「本当に?」
 首を傾げて、瞳子は微笑む。すぼめた唇の真ん中にチョコのかかったアーモンドを挟んで。とろりとこぼれようとするチョコレートを舌で抑えながら。
 瞳子の指が自由になった。可南子が手を離したのだ。
「…瞳子の馬鹿」
 同じ言葉だけれど、どこか違う。
 最初の言葉とはどこか違う。
 だから、瞳子は頭を起こして真っ直ぐ前を向いた。前の方へ。可南子の方へ。
 そして、近づいた可南子の視線を受け止めて、反らさずに、目を閉じる。
 待ち受けて、唇を開く。
 落ちるはずのアーモンドはそのままに。挟んでいた唇の代わりのものがあるから。
 瞳子一人の唇に挟まれていたアーモンドは、瞳子と可南子二人の唇の間に挟まれて。そして忘れられて。
 挟むものを失った二人の唇はそのまま出会い、温もりを分けあって。
 まるで、最初からそうしようとしていたように。
 …甘い
 だけどその甘さはチョコの甘さじゃないと、二人とも知っている。
 唇が触れ合っても可南子は止まらない。瞳子を押し倒すように身体で覆う。
「チョコがね」
 息苦しさすら感じて身を捩った瞳子からつと離れて、可南子は笑う。
「チョコが勿体ないの。それに、染みになってしまうわ」
 転がったチョコが落ちている。二人の間から落ちて瞳子の胸元に引っかかったそれを、可南子は指で突いた。
「染みになってしまうから」
 瞳子の制止よりも可南子は早かった。
 トレーナーの上から感じる吐息に、瞳子の胸が熱くなる。
「可南子ッ、それは…」
 お腹を空かせた犬。餌入れに猛然と顔を突っ込む子犬を瞳子は想像した。
 子犬が瞳子。自分は餌入れ。そして餌はアーモンドチョコレート。
 だけど、もしかするとこの餌入れは餌そのものかも知れない。なぜなら、子犬は餌入れに夢中だから。
「チョコは、大好き」
 途切れ途切れの息の下、可南子はそう言うと指をボウルに浸す。
「大好きよ」
 チョコを掬った可南子の指が瞳子に触れる。
 そしてその後にはチョコが。
 チョコをついばむ唇が。
 チョコを削ぎ取る舌が。
「…!」
 
 
 
「この前は御免ね」
「構いませんわ」
 朝、教室で会った途端に頭を下げる乃梨子に、瞳子は鷹揚に答えていた。
「今度、埋め合わせるから」
「大丈夫ですって。気にしてないですわ」
「それならいいけど、チョコレートは上手く作れた?」
 瞳子は無言で小さな包みを取り出して、乃梨子に渡す。
「友チョコってやつですわ」
「ありがとって、これ……市販品よね?」
「作るのはうまくできたんですけれど、最後の最後にこぼしてしまって、結局こうなってしまいました」
「あら、残念。まあ、仕方ないか」
「残念ですけれど、そうですわね」
「じゃあ行こうか」
「どこへですの?」
「更衣室よ。時間割変更で一時間目は体育よ?」
「あ、今日はお休みします」
「調子でも悪いの?」
 そうは見えないけれど、という言外の疑問に、瞳子は少し俯いた。
「体操服を忘れたんです」
「替えがあるから、貸すよ?」
「結構ですわ。調子がよろしくないのは事実ですし」
「そう、それじゃあ、私は更衣室に行くから」
 行こうとした乃梨子の足が止まる。
 その視線が、教室の後ろへ。
 そこには、瞳子と同じく動こうとしない可南子が。
「もしかして、可南子も見学?」
「そうですけれど?」
 ややつっけんどんな物言いに、乃梨子は苦笑した。
「ああ、そういうこと。体育が出来ないというより、人前で着替えたくないんだ」
「違います!」
「誤解です!」
 二人同時の否定に、乃梨子は笑いを隠そうともしない。
「うん。別に、いいの、祐巳さまに言いつけたりするつもりはないから。そう、二人がね。ふーん。あ、熱いシャワーを当てながらよく揉むと、消えやすいよ。……キスマークはねっ」
 何事か叫ぶ二人を尻目に、乃梨子は一人でさっさと更衣室へ。
 クラスメートも皆行ってしまい、教室に残された二人はバツが悪そうに視線を逸らしている。
「…つけ過ぎよ、瞳子」
「可南子が先にやったんです…」
「だって………」
 言いかけて、がっくりと肩を落とす可南子。
「もしかして、可南子、後悔してるの?」
「まさか!」
 思わず出てしまった大声に、二人は顔を赤らめる。
 そしてまた、気まずい沈黙が。
「シャワーで消えるんですって」
「うん。聞いた。乃梨子って、詳しいのね」
「あの……可南子?」
「なに?」
「一緒に、消しません?」
「…瞳子の馬鹿」
 
 
あとがき
 
 
 
 
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