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チケット
 
 
 
「瞳子さま、お茶ができました」
「ありがとう。菜々ちゃん」
「あ、お姉さま、私、今日の実習でクッキー焼いたんです」
 張り切って報告する妹に瞳子は優しく微笑む。
 瞳子の妹と一緒に薔薇の館へやってきた菜々は、そんな様子を見ると黙って身を退いた。そして級友と、そのお姉さまである瞳子を二人きりにさせる。
 この辺りの身の処し方を見ていると、とてもじゃないけれど由乃さまと姉妹だとは思えない。
 勿論それは、由乃さまにデリカシーがないと言う意味ではない。ただ、由乃さまの場合はもう少しアグレッシブな方法をとる、というだけのことだ。
「それじゃあ、頂こうかしら」
「はいっ」
 嬉しそうに返事をすると、妹がカバンを開ける。
「今日のは良くできたって、先生も褒めて下さいました」
「ふふふっ。今日のはって言うことは、いつもは失敗しているんだ」
「あ……もぉっ、お姉さまの意地悪ッ」
 瞳子はついうっかり、はしたない大声で笑ってしまった。
「お姉さま、紅茶をどうぞ」
 あれ? 紅茶はさっき菜々ちゃんから…
「ありがとう」
 何故か自然と口から言葉が。
「はい、お姉さま」
 あれ? どうして妹が二人?
 よく見ると、紅茶を差し出しているのは……
 可南子さん!?
 
 コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
 目を開く瞳子。
「紅茶じゃなかった……」
「寝ぼけてるの?」
 可南子の声に、瞳子は首を振った。
「変な夢よ…」
「変なって?」
「リリアンの夢。私と妹と、菜々ちゃんと、可南子がいた夢」
「いい夢じゃない」
「そうね。悪い夢ではなかったわ」
「それじゃあ、もう起きる? 今なら、一緒に朝食を食べる時間があるわよ」
「あ……そうするわ」
 ベッドから降りながら、ふと瞳子は思った。
 卒業して、家を出て、女優の勉強を続け、そして可南子と一緒に暮らし始めて……どれくらい経ったのだろうか。
 いつの間にか当たり前のようにこうやって暮らしている。
 目が覚めると可南子がいて、家に帰ると可南子がいて。
 家の中に可南子がいることを、当たり前の風景として受け入れている自分がいる。それは心地よい慣れなのだけど。
 だけど、わかっている。これが、ひどく脆い世界だと。
 その気になれば一瞬で壊せる世界。ベッド際の壁に掛けられた瞳子のバックの中には、この世界を一瞬で壊してしまう劇薬が入っている。
 その劇薬はとても甘い。甘すぎて、二人を即座に壊してしまうだろう。
 二人とも、一度はその甘さに狂わされてしまった身なのだから。だけどそれを後悔などしていない。
 その狂おしさは思い出の中で疼いている。いつでももう一度取り戻せる狂おしさが、皮一枚下で今も息づいている。今は、ひたすら不安定な平穏。
 二人で過ごす平穏は、一枚めくれば愛憎渦巻く修羅となる。だからこそ、二人は互いを愛している。ギリギリの緊張感に征服された幸せは、互いの存在でしか味わえないと知っているから。
 そしてそれをときおり壊したくなるのは何故だろう。
 瞳子は物憂げにバックを手元に引き寄せた。
「今度、主役をやることになったの」
 可南子の手が止まる。
「瞳子。凄いじゃない、どうして早く言わないのよ」
「うん。なんていうか、自分でも実感が無くて。チケットが実際に印刷されるまでは黙っていようと思っていたの」
 それは大きな劇だった。女優としての瞳子のキャリアには不可欠と言っていいだろう。これは、それほどのチャンスなのだ。
「いつなの? 見に行くわよ」
 瞳子は場所と期間を告げる。
「それで、先に言っておくけれど、初日のチケットをいくつか確保してあるの」
 小劇団に毛の生えたような所なら、チケットの始末に困ってしまうものなのだが、瞳子が今回演じるような舞台ではそんなことはない。
 少なくとも初日や千秋楽のような特別な日のチケットは、入手に苦労するレベルだった。出演者といえど、無尽蔵にチケットを入手できるわけではない。
 瞳子の口調から、可南子は少し首を傾げる。
「ああ、わかった」
 イタズラっぽく笑うと、可南子は片手を広げた。
「四枚より多いのね?」
 バックの中を探っていた瞳子の手が止まる。
「どうしてわかるの?」
「なんだか、謝っているような話し方だから」
 可南子は平然とコーヒーを手にしている。
「二枚がご両親。一枚が病院のお爺さま。一枚が祥子さま」
 コーヒーを飲みながら、
「四枚までしかないなら、その行き先は決まっているもの。さすがにこの人達を抑えてまで欲しいとは言えないわ」
 五枚目の存在が、瞳子を謝罪させている、と可南子は言う。
 瞳子の妹は卒業後留学の道を選んでいるため、日本にはいない。チケットに記された日に戻ってくることは無理だろう。
 だったら、答は一つしかなかった。
 福沢祐巳しかいない。
「貴方のお姉さまなのだから、私に遠慮することはないわ」
 逆に、遠慮されてしまうことが不愉快と言えるのかも知れない。つまりそれは、瞳子が未だに吹っ切れていないと言う意味だから。
 だけど、その意味では可南子も同じだった。可南子の中でも、福沢祐巳という存在は未だに特別な存在なのだ。
 そしてそれは、おそらくこれからも変わらないだろう。可南子にとっても、瞳子にとっても。
「祐巳さまに渡しなさい。祥子さまに渡して祐巳さまに渡さないなんて、却って不自然よ」
「祥子お姉さまは、私の親戚のお姉さまだもの」
 だから祐巳とは別格なのだと。
「だったら瞳子のお兄さま、柏木さんに渡す?」
 あ、と口に出してしまう瞳子。
「ほら、忘れていたんでしょう?」
「忘れていた訳じゃ…」
 どちらにしろ、未だに男嫌いだと広言している可南子よりも後に思い出したのでは、どんなフォローも追いつかない。
「いいから、祐巳さまに渡して。私は気にしないから」
「いいの?」
「祥子さまの隣の席なんだから、そこは祐巳さまでしょう? 私じゃあ、お互いに気疲れしてしまうわ」
 チケットをじっと見て、少し考える瞳子。
「ごめんなさい、可南子」
「だから、気にしないって。リリアンッ子の宿命よ。スールは血よりも濃し、てね」
「結局、可南子は在学中にはスールを作らなかったものね」
「いいのよ。最高の先輩と最高のお友達、最高の後輩がいたんだから」
 貴方にも会えたしね。と言って、コーヒーを飲みきる。
「それじゃあ、私は先に出るわよ。戸締まりヨロシクね」
 
 
 それからしばらくの間、その話題は全く出なかったのだが。
 公演を三日後に控えた日――。
「お爺さまがどうしてもその日は外せないと」
「今さら? 何かあったのかしら?」
「どうしても、お爺さまが付いていないといけない患者さんがいるそうですわ」
 患者のため。このお題目を出した医者を翻意させるのは難しい。ましてや、瞳子が尊敬している相手である。もし患者よりも瞳子のことを優先させたと知れば、瞳子自身が許さないだろう。
「そうか。それじゃあ仕方ないか」
「可南子、来てくれるわよね」
「え?」
「他に招待したい人はいるけれど、一番は可南子よ?」
「柏木さんはいいの?」
「お兄さまより、可南子なの!」
 瞳子の剣幕に、可南子が押される。
「いいの?」
「当たり前でしょう?」
 一枚のチケットを力一杯に差し出す瞳子。心なしか頬が硬直している。
「これでお父さまとお母さま。そして祥子さまとお姉さま。それから可南子の五人よ」
「祐巳さまと一緒に見ろって言うの?」
「一向に構いませんわ。今さら、気になんてしませんから」
「瞳子はそうかも知れないけれど…」
 自分の中にだって、残り火は燃えている。もう一度出会ってどうなるかなんて、想像もできない。可南子はその点には自信がなかった。
 祐巳さまのことが好き?
 問いつめられれば、答えてしまうだろう。その答がどんな結果を招くか、それを熟知していたとしても。
「私は、祐巳さまをお呼びすることに決めたのよ?」
 だから、貴方も覚悟を決めなさい。向き合って、自分なりに何とかしなさい。
 そう、瞳子に言われたような気がして、可南子はチケットに手を伸ばす。
「わかっているわ。だったら私は、祐巳さまと一緒に見てあげるわよ」
 チケットを受け取り、可南子はもう一度言う。
「しっかりと見させてもらうわ。失敗したら、承知しないわよ」
「私を誰だと思ってるんですか? 失敗なんて、ありえませんっ」
「わかってる。瞳子がミスなんてするわけがないわよ。祐巳さまに見られていることを意識して、あがったりしなければね」
「可南子!」
 チケットを取り戻そうとする瞳子。チケットを頭上高く差し上げて届かないようにして、ヒラヒラとそよがせる可南子。
「相変わらず、おチビさん」
「可南子が大きすぎるの!」
「そういうこと言うのはこの口か」
「ひゃっ! 私の顔で遊ばないで」
「んふふふふ」
「こらっ」
「こうしていると、瞳子がとっても可愛い」
「可南子〜!」
「んふっ」
 しばらく遊んでいると、可南子の方から自然と手を下ろす。この辺り、本気で怒られる前にピタリと止めるのは流石の呼吸だった。
「公演前の女優さんの顔に傷でも付いたら大変だものね。今日はこの辺で止めてあげる」
「…覚えてなさいよ?」
「はいはい」
 そして三日の間、瞳子の帰宅は極端に遅く、可南子と顔を合わせることも少なかった。
 公演直前はいつもこうなので、可南子も今さら動揺はしない。ただ、冷蔵庫の中身をチェックして、瞳子がきちんと食事しているかどうかを確認、すぐに食べられそうなものを補充しておくのを忘れないようにしている。
 そして可南子は、公演当日まで瞳子からチケットを貰ったはずの二人にも連絡しないことにした。瞳子も、可南子がチケットを持っていることは伝えていないはずだ。でも、二人が同棲していることは当然祥子さまも祐巳さまも知っている。
 ただ、突然現れたときの反応が見たかった。
 下らない自意識だと思っても、それでも見たくなった。たまには、思いつきのままにやってみるのも悪くない。可南子は自分にそう言い聞かせていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、久し振りだね、可南子ちゃん」
 だから、慌てずに対応することができた。
「ごきげんよう、祥子さま、祐巳さま。お二人にも、チケットは送られたのですね」
「ええ。貴方もね。ところで瞳子は元気?」
「勿論です」
 他愛のない近況報告と世間話。
 それでも話の節々で可南子は気付いた。
 ――やっぱり……
 きっと、同じ事を瞳子も気付くのだろう。
 気付いた方がいい、と可南子は思った。それが舞台の上であろうと、気付いた方がいい。
 舞台の上でなら、きっと……
 
 
 普段の緊張とは明らかに違う。と瞳子は感じていた。
 初主演とも違う。これは、懐かしい動悸だった。
 あの日、ロザリオを戴いたとき。
 初めて、お姉さまの家を訪れたとき。
 姉妹になって初めて迎えた夏休み、文化祭、クリスマス、お正月、各種イベント。
 これは限定された条件での緊張なのだ。
 松平瞳子が福沢祐巳に対してのみ緊張すること。これがそれだ。
 客席にお姉さまがいる。その事実だけが瞳子を高ぶらせている。
 愚かだろうか。それとも、無謀だったのだろうか。
 結局は、自分の無能を見せつけるのではないだろうか。
 馬鹿にされるとは思わない。哀れまれるとも思わない。ただ、失望されたくない。その想いが瞳子を縛っている。
 幕が開く。
 今さら……。今さら緊張する自分ではない。瞳子は自分に言い聞かせる。
 余計な動揺はしていない。
 瞳子はそのつもりだった。
 客席に誰がいようと関係ない。例えそれがお姉さまでも。
 久し振りにお会いしたお姉さまでも。
 瞳子は視線を感じていた。舞台に立つ者ならば皆が感じる視線を。
 お父さまからの。
 お母さまからの。
 祥子さまからの。
 お姉さまからの。
 可南子からの。
 わかる。視線がわかる。皆が、自分を見ていると言うことが伝わる。
 真剣な観客の視線は、役者の演技の真剣を呼ぶのだ。
 だから、わかってしまった。
 そうなのか。
 客席にかいま見た、可南子の微笑み。
 ああ、そうか。瞳子は悟った。
 可南子にももうわかっているのだ。二人の隣に座った可南子にはすぐにわかってしまったのだろう。
 ほんの少しの落胆と少しの安心。
 お姉さまの存在に恐れることなく、気押されることなく、瞳子は演じた。
 
 
 楽屋を訪れた二人が帰ると、入れ替わるように可南子が姿を見せる。
「祥子さまと祐巳さまは?」
「入れ違いよ」
「そう。ちょうど良かったかもね」
「可南子も、気付いていたのね…」
「入り口で会ったときから気付いていたわよ。幕が開く前に伝えた方が良かった?」
「いいえ。壇上からよく見えていたもの。可南子が思っている以上に、私には見えていたかも知れない」
「そうかもね」
 可南子は芝居を見ていた。そして、瞳子を見ていた。
 祥子は芝居を見ていた。そして、瞳子を見ていた。
 祐巳は芝居を見ていた。そして、瞳子を見ていた。
 けれど、祐巳は祥子を見ていた。
 舞台に立つ者以外に向けられた注意。これが他の者ならば、瞳子は自分の未熟を恥じたかも知れない。
 でも、これはわかっていたことだった。
 後になってみればあまりにも自明の事だったのだ。ただ、そこにいたのが祥子と祐巳だっただけ。
 瞳子が祐巳を見るように、祐巳は祥子を見ているのだ。
 お姉さまに見て欲しいと瞳子が言うのなら、祥子を一緒に呼ぶのが間違っているのだ。
「だけど、私は瞳子を見ていたわよ」
「うん。わかってる」
「多分、これからも」
「いつまでも?」
「瞳子が嫌でないなら」
「そんなこと…」
 瞳子は答えない。ただ、可南子の手を取っていた。
 そして可南子も何も言わない。ただ、頷いていた。
 
 
 
あとがき
 
 
 
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