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歩いていける
 
 
 私は小さな頃、しょっちゅう転んでいたらしい。
 歩いては転んで、泣きながら起きあがってはまた転んで。
 けれど、母はそんな私をあまり抱き起こそうとしなかったということらしい。
 らしい、というのは私に記憶がないからだ。当時のことは当たり前だけれどほとんど覚えていない。私が知っているのは、後から父や知り合い、親戚に聞かされたことばかり。
 転んだ娘を抱き起こそうともしない母。といっても母に愛されていなかったとは思わない。当時のことを話してくれた人たちも、異口同音に同じような意味のことを言っていた。
 母は、転んでも一人で立てるようになって欲しかったのだ。そして、一人で歩けるように。
 もしかすると、母は知っていたのだろうか。娘が小学校に入る前に、自分が娘と別れなければならないことに。
 だとしたら、私は言いたい。
 お母さん、大丈夫だからもう心配しないで、一人で歩いていけるよ、私は。
 
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 目を覚ますと、当たり前のように見慣れた天井。
 横を向くと、何故か見慣れてしまった頭がそこに。
 これで何回目だっけ?
 そう考えるのも億劫だ。
「……八時か。佐藤さん、もう起きたら?」
 んん〜〜と唸る声と共に起きあがる身体。確かに寝起きはいい。その辺りはなんだかんだ言っても育ちがいいのだろう。
「あー。おはよ、加東さん」
「起きたらテーブル出してね」
「ん〜」
 佐藤さんが泊まっていくことは最近では珍しいことではない。
 さすがに連日連夜というわけではないけれど、週に一度は泊まっているような気がする。
 のそのそと布団から這い出た佐藤さんが半分眠っているような顔で、それでもてきぱきと布団を畳み始めた。
 朝食の用意に台所へ立つと、がちゃがちゃとテーブルを用意する音が背中に聞こえる。
 こういう音が心地よいと感じ始めたのはいつ頃だっただろうか。一人では決して聞こえない、家の中の他人の生活音。そんなにも、独りの時間は長かったのだろうか。
 だけど、一人で歩かなくちゃならない。
 私は、一人で歩けるのだから。
 
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 父が入院して、意識を回復したとき、私は父の知り合いだという女性とそこにいた。後から思えば、彼女は父の十年来の愛人だったのだけど、その時の私はただ、頼りになる人が駆けつけてくれたと言うことでホッとしているだけだった。
 父一人娘一人で生きてきて、父が前触れも無しに突然倒れる、というのは心臓に悪い。
 大学生にもなれば、男一人で子供を育てるのがいかに無茶なことかは、自分が子供を持っていなくても想像くらいは出来る。そんな父が突然倒れれば、最悪の想像をするなという方が無茶だろう。
 私は覚悟して、そして薄ら寒い思いに囚われていた。
 一人になるのが早すぎる。世の中には私よりももっと辛い境遇の人がいる。それはわかっていても、そんな理解は何の助けにもならない。
 一人で歩いていける。だけど、まだ一人きりにはなりたくない。そう叫びたいのを堪えて、父の病室で過ごす時間を少しずつ増やしていった。
 そこに現れた彼女は、私にとっては大きな救いだった。
 何も言わない父の枕元にただ座ってるだけの自分が、どれほど不安だったか。
 意識を取り戻して数日すると、父の精神状態はすっかり回復したようだった。身体には麻痺が残っていてリハビリが必要ではあったけれど、少なくとも命に別状がないことがわかったのだ。
 少なくとも、私にはそれで充分だった。父の命に別状がない。細かいことは先送りにするとしても、それだけで充分だった。
 まさか、あの人も同じ思いだったとは。
「驚いているんじゃない?」
 意地悪く笑いながらあの人は言った。
「面倒くさいことからは手を引く。愛人と思われているからにはそのくらいのエグさは必要かもね」
「あの、私」
「いいわよ? その通りだから。籍に入ってもなければ実の娘にも存在を知られていない。どう考えても愛人としか形容できないわよ。現代日本語だと」
「ごめんなさい」
「謝る必要ないわよ。だけど、愛人よりは恋人の方がいいかな。うん、そうしましょう。私はあの人の恋人ね? それとも、やっぱり愛人?」
 私は何も言えなかった。
 そんな私にあの人は、しみじみと言ったのだ。
「景さん、大学へお戻りなさい。あの人の面倒は私が見るから」
「でもっ」
「いいのよ。あの人だって、娘よりも愛人の方が嬉しいでしょう? それに……」
 あの人は意地悪そうな表情を作る。
「とっとと治ってもらって埋め合わせしてもらわないと。愛人としては割に合わないことこのうえないのよ」
 そう言って笑うあの人に、私はホッとした。
 正直、そう言われたほうが気は楽だったのだ。もしかすると、あの人はそれを見越していたのだろうか。父から、私の性格を聞いていたのかも知れない。
 結局私は、復学することになった。運のいいことに、入りたかったけれど空いていなかった下宿が、一年休学したことでタイミング良く空き部屋になっていたのだ。私は一も二もなく申し込んだ。
 そして下宿へ移る前日に、父は私を枕元に呼んだ。
「すまんな、こんな時にこんなことになって」
「謝るような事じゃないでしょう? 悪いことをした訳じゃあるまいし」
「そうか。…そうだな」
「だから、お父さんは早く元気になってくれればいいの。せっかく恋人さんだって来てくれたんだから」
 その一言で去ろうとした私を、父は呼び止める。
「景」
「なに?」
「すまな…いや、ありがとう」
「いいの」
 私は一人で歩いていける、とは言わなかった。
 
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「佐藤さん、私、今日明日と居ないからね」
「出かけるの?」
「ええ。母のお墓参り」
「ああ、そうか。この時期なんだ」
「一緒に来る?」
 口走る。そうとしか言いようがない。
 突発的に言ってしまった言葉。
 今になっても、どうして自分がそんなことを聞いたのかはわからない。いったい、彼女を墓参りに連れて行ってどうなるというのだろう。
 何を見せようと言うのだろう。
「お墓参りに?」
 当たり前のように彼女は聞き返す。
 その問いには答えられない。当然だろう。別にお墓参りに連れて行きたいわけではないのだから。ただ、そう口に出てしまっただけ。
「うーん。…それは、ちょっと重すぎるかな」
 彼女の答は、私が無意識に放っていた問いにまで応えていたのかもしれない。
「そうね」
 一人で大丈夫だから。
 
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 父がお寺の人と話をしている隙に、私は先に墓に手を合わせる。
 ――お母さん?
 私は、一人で歩いていけると思ってたんだよ?
 気が付くと、いつの間にか隣に歩いている人がいたの。
 その人は、たまたま私の隣を歩いているだけなのかも知れない。ある日突然、いなくなってしまう人かも知れない。
 それでも、私は誰かと一緒に歩くことが楽しいと思ってしまったんだ。
 お母さんはお父さんと一緒に歩いていた。お母さんがいなくなった後、お父さんは私の手を引いて歩いていた。
 今は、お父さんは別の人と歩いている。
 私は、一人で歩いていけると思ってた。だけど、間違ってた。
 私は一緒に歩く人を捜していた。
 見つけたと思ったの。
 一緒に歩く人がいたと思ったの。
 違ったの。
 よく見ると、似たような道を歩いているだけだった。
 私は、一人で歩いていた。
 でも、一人で歩くのは寂しいの。
 一人で歩くのは寂しいと思ってしまったの。
 
 お墓参りを終えても、私はぐずぐずと実家に居残っていた。
 父も義母も、私が下宿に戻らないことを何も言わなかった。
「いいの?」
 五日が過ぎたとき、私がそう尋ねていた。
「いいさ」
 父は事も無げに言った。
「歩きづめだったんだ。少しぐらい休んだところで、誰に文句を言わせることもない」
「え?」
「どうした?」
 歩きづめ、という言葉に私は反応していた。
 そう言うと、父は懐かしそうに笑う。
「ああ。あいつの口癖だったからな。俺にも伝染ってたんだろ」
 お母さんの口癖。
「今の母さんがどうだこうだって訳じゃない。けれど、少しの間でもあいつと一緒に歩けたのを、俺は誇りに思ってる」
「今でも一緒じゃない」
 義母がお茶を運びながら現れると、それをテーブルに置いてから父の頭を軽く叩いた。
「私は今でも一緒に歩いているつもりよ。貴方の中には未だにあの人がいる事なんて重々承知だもの。だから三人で、いいえ、四人で歩いているの」
 四人と言われて、一瞬私はわからなかった。
 父、義母、お母さん。…そして私。そう、四人だ。
「それとも、景さんには迷惑かしら?」
 その口調に嫌味は感じなかった。
「迷惑とは思いませんけれど、私がそこに入っていいのかなって」
「あら、どうして?」
「母のことをそんな風に言っていただけるのは嬉しいですけど。私がそこに入ってもいいのかなって。家にいるわけでもないし」
「いいんじゃないかな。一緒にいるとかいないとか、一緒に歩いているのとは関係ないし。身体が一緒にいるのは色々と難しくても、相手を想っていれば一緒に歩くことは出来るんじゃない?」
 ふと気付くと、父は義母の言葉に決まり悪そうにして、茶に手を伸ばしていた。
 私の視線に気付いた父は、苦笑いと共に告白する。
 同じ事を、父は義母に言ったのだと。
 まだ、二人がただの知り合いだったときに、父は義母に母の思い出を語っていた。その言葉を義母が同じように使っているのだ。
 二人が男と女の関係になった後でも、その言葉は生きていた。
 父と一緒にいることは、亡くなった母、そして私と一緒に歩くこと。義母はそう思ったと言う。
 母の言葉は父へ、そして父から義母へ。
 それは私にはとても素敵なことに思える。言葉が伝えられているのなら、そこに母の意思も生きているのだから。
 だけど、母が私に望んでいたことを私は知っている。
 私は一人で歩く。一人で歩けるのだから。
 強くなることを、母は私に望んでいた。だから、義母の言葉に感謝はするけれど、一緒に歩くかと問われれば答は決まっている。
 それは、父にも告げねばならないことだった。私の母への想いなのだから。
 私が家を出たのは、義母のせいではないことを伝えたかった。
 ただ、母の想いを果たしたかったから。そのために。一人になるために。
 だから、私はそう言った。
「そうか」
 話し終えると父は少し遠い目をしていた。
「そうなのかな」
 何故、父が母の想いを疑うのか。
「あいつが、景に歩いて欲しかったのは確かだろうな。それはそうだ。だけど」
 だけど?
 私は少しきつい目で父を見ていたかもしれない。
「あいつは、景に一人で歩いて欲しかっただけじゃない。一緒に歩きたかったんだよ」
 考えたこともないことだった。私の解釈は間違っていたのだろうか。
「間違った訳じゃないだろう。一人で歩いていても、いつかは誰かと一緒に歩くときがくる。それが友達なのか、生涯の相手なのか、それはわからん。だけど、誰かと一緒に歩くときは絶対に来る。なあ、景。同じ道を行こうとする人間が一緒に歩いている。それは自然なことだろう? あいつには、それを景に教える時間がなかったんだ」
 一人で歩くこと。
 誰かと一緒に歩くこと。
 それは相反しないという考え方。
 それが、母が私に伝えたかったこと?
「いずれ違う道を行くとしても、少しの間は一緒に歩いていればいい。その時が来れば離れる。そんなの、いくらでもあることだろう」
 
 その翌日、私は下宿に戻った。
 弓子さんは私の顔を見るなり言った。
「佐藤さんが何度も来てたわよ」
 何度も。
「連絡無しで帰ってこないから、心配してたわよ。佐藤さんには何も言ってなかったの?」
 墓参りとは言ったけれど、確かにこれほど長くなるとは思っていなかっただろう、と私は納得した。
 そして弓子さんは何も言わないけれど、私は弓子さんにも連絡を怠っていたのだ。
「ごめんなさい」
 そうか。弓子さんだって、私との道を歩いている一人なんだ。
「実家の居心地が良すぎて、つい長居してしまいました」
「それはいいことね」
 そう言って母屋に戻ろうとする弓子さんを引き留めて、私は紙包みを取りだした。
「これ、実家の義母からです。弓子さんに持っていけって」
 礼を言われ、翌日のお茶の時間を約束させられて、私は部屋に戻った。
 一時間もしないうちに、来客があった。
「景さん、おひさ」
「耳ざといのね、佐藤さん」
「実は、弓子さんにお願いしておいたの。景さんが帰ってきたらすぐに電話してくれるように」
 携帯電話を取り出す佐藤さん。
「じゃーん。ついに買ったよ」
「呆れた。まさか、このために?」
「うーん。きっかけはそうかも。だけど、前から持とうと思っていたしね」
 私は、嬉しそうにストラップをくるくる回す佐藤さんを横目で見ながら、玄関から靴を出す。
「外に出るの?」
「散歩したくなって。つきあわない?」
「ん、いいよ。そうだ、ついでにお茶しようよ。先週新しい喫茶店が出来たらしくて」
「…メイド喫茶なんて言わないでよ?」
「えー。可愛いじゃない」
「あのね…」
「ま、いいか。でも初めてじゃないかな。景さんに散歩に誘われるって」
「そう?」
 そうかもしれない。いつも、家の中に招くか。外で待ち合わせしていたような気がする。でなければ、泊まった翌朝に一緒に大学へ出かけるか。
「なんかあった?」
 相変わらず、佐藤さんはこういうことには鋭い。
 そして相変わらず私は、はぐらかして応えない。
「別に、何もないわよ。ただ…」
 そう。何も変わったことはない。ただ…
「佐藤さんと一緒に歩いてみたくなっただけ」
 
 お母さん。私にはね、一緒に歩いてくれる人がいるんだよ。
 
 
あとがき
 
 
 
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