祐巳さんと可南子ちゃん
「川の字というより小の字」
傘がないの。
そう言うと、乃梨子と瞳子が二人同時に可南子を見た。特に瞳子は、信じられないといった様子だ。
「朝からの曇り空で、誰がどう見たって午後から雨になるのは予想できていたと思うのですけれど?」
瞳子の問いに、可南子は首を傾げる。
「ええ、雨が降ることくらいわかっていたわよ。そんなに鈍感じゃないわ」
そう答えると、今度は瞳子のほうが首を傾げた。
「それじゃあ、どうして傘を忘れたんですの?」
「忘れた訳じゃないわよ?」
「持ってくる途中落としたとか?」
乃梨子の答は外れ。第一、そう簡単に傘は落とさない。
「いいえ、元々持ってきていませんから」
二人は、ますます訳がわからないといった顔。
それも当然かも知れない。
雨が降ると予測していたのに傘を持ってきていないなんて。
けれど、可南子にはちゃんとその理由があるのだ。それも、この二人なら納得するに違いない理由が。
薔薇の館でいつものようにお仕事をして帰るとき、
「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
お姉さまがそう言うと、白薔薇さまもそうね、と頷く。
そう言いながら微笑み交わす白薔薇さまと乃梨子を見て、瞳子は少し複雑そうな顔で憮然としている。それもそのはず、今日は黄薔薇さまも瞳子の妹もいない。
二人とも、今日はどうしても剣道部が外せないのだ。
「はーい。賛成」
「あんたは黙ってなさい。部外者なんだから」
「えー、ひどいよ。何とか言って下さい、白薔薇さま」
「志摩子さんに近づくんじゃないっ!」
「せっかく手伝ってるのに」
「どーせ、お茶とお菓子目当てでしょ!」
「志摩子さま目当てだよ」
「余計悪いっ!」
乃梨子に威嚇されているのは、実妹の友梨子ちゃんだ。乃梨子には黙ってリリアンに入学した上に、何故か白薔薇さまに懐いている。
下馬評では白薔薇のつぼみの妹最有力候補なのだけれど。
「五月蠅い白薔薇さんちは放っておいて、帰りましょう、お姉さま」
妹を妹にする気はない、と、なんだかわかりにくいことをいいながら近づいてくる乃梨子を避けて、可南子はお姉さまを連れて外に出た。
「雨が止まないね」
といいながら傘を開こうとするお姉さまは、何もせずに雨模様を眺めている可南子に気付いて動きを止める。
「あれ? どうしたの可南子。傘は?」
「それが、うっかりして忘れてしまったんです。折りたたみ傘をカバンに入れてあったつもりなんですけど」
「そっか…可南子は傘を忘れた…」
お姉さまは少し考えている。その間、可南子は興味なさそうな素振りで、でも心の中では一生懸命に祈っていた。
――マリア様、お願いします
「傘がないのか…」
お姉さまは、そこで振り向いた。
「それじゃあ可南子、一緒に帰ろうか」
ニッコリと
「相合い傘で」
「はい、お姉さま」
なるほどね。と言う声に振り向くと、傘を抱えた瞳子。
「そういうことでしたのね、可南子」
「ええ。瞳子も真似してみる?」
「人真似というのは悔しいですけれど…」
語尾は濁しているけれど、「やる」と断言したようなものだった。
「お姉さま、傘は私が持ちます」
やっぱり、お姉さまとの身長差は如何ともしがたく、可南子はかなり低く傘を差すことになった。
それでも、窮屈だとは感じない。
隣にお姉さまがいて、傘一つの円の中。
隣にお姉さま、寄り添うように雨の中。
隣にお姉さま、二人で並んで話に夢中。
バス停までの道が、こんなに短かったなんて。
次に雨が降った日、瞳子は傘を持ってこなかったと朝の内に二人に宣言していた。
だから、乃梨子と可南子は気の毒そうな顔になったのだ。
何故って、それは二時間目の休み時間。
菜々ちゃんが二年生の教室で瞳子を掴まえてこう言ったのだ。
「お姉さま、今日も私と黄薔薇さまは剣道部に行かなければなりませんので、薔薇の館の方は失礼させていただきます」
「ちょ、ちょっと待ちなさい、菜々。白薔薇さまと紅薔薇さまには…」
「それは今頃、由乃さま、いえ、黄薔薇さまが直接報告していると思いますので」
日頃から、菜々ちゃんと由乃さまの良すぎる仲を苦々しく思っている瞳子にとって、これはかなりのショックだったようで。
「……瞳子、元気出してね」
「大丈夫、雨は今日だけじゃないわ」
二人の慰めもあまり効果はない。
「瞳子ちゃん、元気ないのね」
「黄薔薇さまと菜々さんが来ないからかな」
いきなり核心をついた実妹を拳で黙らせながら、乃梨子は可南子を見た。
そこでこちらを見られても。
可南子としても今のところ何も手はない。
…今となっては、瞳子が頼れるのは可南子なんだからね。
ひそひそと囁きかけてくる乃梨子に、可南子は首を振る。
…何を言うんですか。一年の時あれほど瞳子を構っていたのは誰ですか。白薔薇さまの嫉妬が大変だったんですよ!
…嘘ッ、志摩子さんの嫉妬!?
心底悔しそうに拳をふるわせる乃梨子の姿に、可南子はため息一つ。
…み、見たかった…
…白薔薇には代々ヘンタイさんが揃うというのは本当だったようですね
…志摩子さんを馬鹿にすると、いくら可南子でも怒るわよ
…いえ、私は乃梨子のことを言ったんですよ?
…ああ
…納得してるんですか?
「今日はこんな所かしら」
ひそひそとやりながら仕事を続けていると、いつの間にか結構な時間が過ぎていた。
白薔薇さまが残った書類を整理しながら終わらせようとしている。
「そうだね、残っているのはほんの少しだし。後は明日でも大丈夫ね」
帰り支度を始めるお姉さまを手伝いながら、可南子は瞳子の傘のことをもう一度考える。
どちらにしろ、瞳子に傘はないのだ。そして、雨は容赦なく降っている。
「可南子、今日は傘を持ってきたの?」
突然尋ねられ、可南子は慌てて頷いた。
実はあの相合い傘の日、可南子はうっかり、ワザと傘を持ってこなかったことを告白してしまったのだ。そうすると、お姉さまは二度とこんなことをしないようにときつく言ったのだ。
「風邪でも引いたらどうするの? 私、そっちの方が心配よ」
そう言われては、同じ真似はできない。
だから、今日はきちんと傘を持ってきている。
「そう。実はね、今日は私が傘を忘れたみたいなの」
あはは、と照れ隠しに笑いながら言うお姉さまの場合、本当にうっかりで忘れかねないのだ。
「それじゃあ、一緒に帰りましょうか」
可南子はワザと一拍おいた。
「相合い傘で」
「川の字でね」
一瞬、可南子は言われた意味が理解できなかった。
川の字。
縦三本の川の字。
「瞳子ちゃんも、傘がないみたいだから」
つまり、三人で。
「スカートはちょっと濡れちゃいそうだけど、頭が濡れなきゃいいよ」
二人のやりとりに気付いた瞳子が抗議の声を上げる。
「いいよ、瞳子ちゃん、気にしないで」
「でも」
「いいってば。瞳子ちゃんに風邪でも引かせたら、私が由乃に怒られちゃうもの」
そして一本の傘で仲良く帰る三人。
可南子を真ん中に。瞳子とお姉さまが両脇に。
「あら、可南子ちゃん。両手に花な所を一枚ね」
通りすがった蔦子さまに写真を撮られながら。
「川の字というより、可南子が大きすぎて小の字ね」
などという瞳子と口喧嘩をしながら。