春の桜
春が来た。乃梨子にとって少し憂鬱な春が。
志摩子さんが三年生になって、乃梨子は二年生になって。
うん、当たり前のこと。
当たり前のことだけど何故だか新鮮で。なのに少し憂鬱で。
二年生だな、という想いは、志摩子さんが三年生だという想いに直結している。卒業まであと一年。たったの一年。
卒業して終わってしまうような関係ではないと確信しているけれど、それでもやっぱり寂しい。
祐巳さまも由乃さまも、そして志摩子さんも。こんな思いをこれまで皆が感じてきたのだろうか。
乃梨子には想像しづらかった。自分なら、こんな想いを抱えたままあんな風に笑えないだろうから。
「乃梨子には、いったいどんな妹ができるのかしら」
他意のない言葉だったのだと思う。ただ、純粋に湧き起こった疑問。
だから、つい乃梨子は応えてしまった。
「いらないよ」と。
聞こえなかったかのように尋ね直す志摩子さんにもう一度、
「いらない。妹なんて私はいらないから。私は、志摩子さんがいればいいもの」
志摩子さんは困ったように首を傾げるだけだった。
……嫌だよ。
……志摩子さんのことを忘れたくない。
……私のスールは志摩子さんだけだもの。グランスールもプティスールもない。ただ、志摩子さんだけ。
だから妹なんていらない。志摩子さんが卒業したって関係ない。そもそも、私は白薔薇さまとかつぼみとか、そんなの一切関係無しに志摩子さんのことが好きなんだから。
「私も……そう思ってたの」
志摩子さんの言葉に乃梨子は思わず足を止めた。
でも、志摩子さんには妹がいる。自分という妹が。
「佐藤聖というお姉さまがいた。それだけで私は充分に満たされていたから」
そう言って微笑む志摩子さんの顔はひどく豊かで、乃梨子はこの場にいない相手に嫉妬を覚える。
「お姉さまのいないリリアンで、妹なんて私には必要ないと思っていたの」
思わず息を呑んだ乃梨子に何を感じたのか、志摩子さんは息を切らずに急いで言葉を続けた。
「乃梨子に出会うまでは、そう思っていたわ」
桜の下を、乃梨子は思いだしていた。
始めて志摩子さんと出会った日。銀杏の中の桜。
今思えば、その瞬間に乃梨子にとってのリリアンは別のものへと変わったのだ。
高校浪人を防ぐための、とりあえずの進学先。
大叔母の顔を立てるための、とりあえずの受験先。
波風立てず出しゃばらず、大学に進学するまでのとりあえずの居場所。
自分には少々居心地の悪いお嬢様学校。
それらのネガティブな先入観は、呆気ないほどあっさりと消えた。
志摩子さんがいる。ただそれだけでリリアンに価値が生まれた。そしてそれは、乃梨子にとっては環境を見直す絶好の機会でもあったのだ。
新しい目で、新しい思いで見つめるリリアン。それは乃梨子の知らなかった世界。
……これはこれで、悪くない。
それが始まりだったのだ。
「私だって、志摩子さんに会うまではもう少し違っていたよ。リリアンがあまり好きじゃなかったもの」
志摩子さんは笑う。
「そうね。だけど今では、妹なんていらないと思っていた頃の自分を思い出すのが難しいの。乃梨子もそうではないのかしら?」
「同じだよ。今はここが大好きだから。私の居場所だと思うことができるから」
だからこそ、志摩子さんの言葉が気になって。
「志摩子さんは、やっぱり私に妹がいた方がいいと思う? 妹が、必要なのかな」
「お姉さまが心配していたの…」
志摩子さんは、眩しいものを見るように目を細めていた。
「自分がいなくなったリリアンで、私が過ごしていけるかどうか」
だけど、その心配はすぐになくなった、と志摩子さんは続ける。
「お姉さまが卒業する頃には、祐巳さんがいたから。それに、由乃さんだっていたもの」
自分ではないのか、と乃梨子は少し残念な気持ち。けれど、相手が祐巳さま達だったら仕方ないのかも知れない、とも思う。
「お姉さまが卒業してから少しの間は寂しかったけれど、乃梨子に出会うこともできたし」
だから、乃梨子だって誰かと出会うかも知れない。人の縁なんてわからないのだから。
そう話を締めくくった志摩子さん。乃梨子はやや気乗りせずに、それでも頷く。
話はわかる。言いたいことはわかる。志摩子さんの気持ちだってわかる。
自分がいなくなった後を心配しているのだ。
「だけど、やっぱり今は妹のことなんて考えられないよ」
「そうね、ごめんなさい。無理強いするつもりはないのよ。妹を持つも持たないも、乃梨子が決めることだわ」
白薔薇さまとしてはどうなの? と聞こうとして乃梨子はやめた。
そんなものなど志摩子さんには関係ないのだ。そして、自分にも。
会話のとぎれを待っていたかのように、祐巳さまの声が聞こえる。
「志摩子さん、ここにいたんだ」
「あら、祐巳さん」
「環境整備委員会の人が探してたよ?」
志摩子さんは何かを思い出したようで、乃梨子に急なことを詫びながら校舎へと向かっていく。そしてその後を追うように祐巳さまも。
「あ、乃梨子ちゃん。瞳子に会ったら、館に行くのが少し遅くなるって伝えておいてね」
「はい」
突然一人になった乃梨子の足は、薔薇の館ではなく講堂に向かっていた。正確には、講堂裏の桜の木へと。
桜の木の下で、乃梨子は志摩子さんに出会ったのだ。
もし、今もそこに誰かがいたら……。
人の姿に、乃梨子は立ち止まる。
桜の木の下に誰かがいる。
「なんとなく、来るような気がしていましたわ」
勝ち誇ったようににんまりと笑っている瞳子。その後で、桜の花を見上げている可南子。
妹じゃないけれど。
下級生じゃないけれど。
初対面じゃないけれど。
だけど、大切で。
だけど、大好きで。
きっと、明日も明後日もずっと一緒に進んでいくから。
乃梨子は早足で二人の元へ駆け寄っていく。
「話には聞いていたけれど、本当に綺麗な桜ね」
可南子の長い髪に散りばめられた桜の花びらを、瞳子が一枚一枚丁寧に剥がしている。乃梨子は手を伸ばし、瞳子の縦ロールに付いた花びらを摘んだ。
そして桜の花びらが舞い散る下、三人は飽きることなくそれを眺め続けていた。