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口紅
 
 
 口紅を手に取った。
 そして私は、紅を差す。
 誰のためでもない朱色が、血色の悪い唇を覆い隠していく。
 私は紅を差す。
 
 
 これは秘薬なんだよ。
 微笑む老婦人の戯れ言を、しかし私は笑い飛ばせなかった。
 別に嘘でも構わない。面白い話を聞かせて貰った礼だと考えれば、紅の値段は驚くほど安かった。例えば私の妹にとっては、安すぎて問題にならないほどの値段だろう。
 毒々しい紅色はお嫌いかね? 言いながら、婦人は一枚の化粧紙を見せた。そこに塗られた紅は、婦人がテーブルの上に置いた口紅の色。
 紅薔薇の名で呼ばれた私にとって、紅の色は特別な色。それを婦人は知っていて、私をからかっているのだろうか。
 それに私には、毒々しい色など見えない。見目鮮やかな紅色が見えるだけ。
 ああ。と婦人は嘆息した。
 お嬢ちゃんにはこれを使う資格があるようだ、と。まるで、私に資格がある事が不幸であることのように。
 これはね、毒薬なんだよ。
 婦人は再び微笑んだ。
 この紅を唇に塗りなさい。口づけられた者は苦しむこともなく倒れるよ。そして口づけた者もすぐにその後を追う。
 私は婦人の戯れを笑い飛ばそうと思った。
 私の頬は動かない。ただ、思っただけだった。
 
 
 初めて出会ったときは、只の同級生だった。
 気が付いたときには、お姉さまの親友の妹だった。
 次に気が付いたときには、かけがえのない親友だった。
 最後に気が付いたときには、私は卒業していた。
 仕方ない、と自分に言い聞かせていた。消えていった少女の事を、彼女は忘れていないのだから。私にできる事は、傷口を癒す手伝いだけなのだから。
 いつの間にか、傷口を癒すのは彼女の妹の役目になっていた。
 いつの間にか、傷口を癒していたのは私の孫だった。
 私は何をしていたのだろうか。
 私は、自分に求められた役割を演じていた。それはそれで心地よかったはずだった。
 
 
 あれはいつの事だっただろう。
 紅は私の部屋に。時にはバッグの中に。
 彼女に出会うとき、出会わないとき。それは私にとっての護符。持っているだけで強くなれる。持っていなければ弱い自分を演じる事ができる。
 紅が私を彩る。身ではなく、心を。生殺与奪の権利を持って、私は私を装った。
 老婦人の顔を忘れても、その声色を忘れても、紅は確かにそこにある。
 私はいつ、紅を手に入れたのだろう?
 そもそも、老婦人などいたのだろうか。
 
 
 彼女の隣で笑っているのは、眼鏡をかけた大学生。名前は知らない。聞かされてはいたのだけれど、私は忘れた。
 私にとっては覚える価値など無い名前なのだろう。
 その女は彼女の隣で笑っている。ただそれだけでいい。ただそれだけでわかるのだから。
 あの女は、邪魔だ。
 
 
 彼女の隣で笑っているのは、おさげの高校生。名前は知らない。知っていたはずなのだけれど、私は忘れた。
 とても大切な子だったような気もする。
 誰にとって? ああ。違う。あの子は私の大切な人にとっての大切な人。
 それならわかる。理解できる。けれど、私にとってはどうでもいい子。
 あの子は、邪魔だ。
 
 
 彼女の隣で笑っているのは、ふわりとした髪の高校生。名前は知らない。知っていたはずなのだけれど、私は忘れた。
 最初からどうでもいい子だった。いつの間にか現れて、いつの間にか入り込んできた。私の間隙を縫って現れたのはいつのことだっただろうか。
 そうだ。最初から、邪魔な子だった。
 私の邪魔をし続けた憎い子。
 あの子は、今でも邪魔だ。
 
 
 彼女の隣で笑っているのは、同じ歳の大学生。名前は知らない。知っていたはずだった、大切なはずだった。
 だけど、もうどうでもいい。だって最初に裏切ったのは向こうなのだから。私たちの世界に背を向けたのは向こうなのだから。
 大切なのは彼女だけ。後は知らない。
 知らなくても構わない。いなくても構わない。
 彼女以外は全て、邪魔だ。
 
 
 自分のものにならないのなら。いっそそう考えたくもなる。彼女ならきっと、拒まない。
 それは妄想だとわかっているけれど。
 妄想に浸ることは危険なほど甘美で優しい。ほんの一欠片の可能性を夢見てしまうほどの彼女の意外な脆さを、私は知っているのだから。
 私はその脆さを知っているから。彼女の仮面を切り崩す。
 その向こう側に例え、私の望むものがないとしても。
 
 
「どうしたの?」
「なんでもないわ。で、その背中に隠した荷物は何かしら?」
「あははは。さすがに目敏いね」
「お泊まりセット……ね?」
「正解。突然だけど、今夜、構わないかな?」
「珍しいじゃない。家に来るなんて」
「そうかな? 結構ここにも来てたつもりだけど」
「来てたのは来てたけれど、泊まりに来るのは珍しくない?」
「やっぱりね、家族の人がいると遠慮しちゃうじゃない?」
「うちの家族とは顔見知りの癖に」
「だけど、ねえ?」
 不思議なところで顔見知りをするのは、あの頃の自分を引きずっているせいなのだろう。如才ないように見えて実は人見知りなのだ、彼女は。
 色々言っても、まともに話相手のできる男性は福沢祐麒と柏木優しかいないことを私は知っている。
 彼女はものすごく歪で、不完全だ。だから、その間隙を埋めたくなる。
 それは私でなければならないと思いたくなる。例えそう思っているのが私だけだと知っていても。
 
 
 鎖がじゃらりと音を立てる。
 金属のきしる嫌な音。
 だけど、必要なのだから。私は自分にそう言い聞かせる。私には必要なものなのだ。
 彼女にも必要だといいのだけれど。
 
 
「言ってなかったかしら」
「何を?」
 彼女は平然と答えた。私の正気を信じているのだろう。
 それでいい。私は正気で貴方をこうしているのだから。
「家族は皆、引っ越したの。今ここに住んでいるのは、私一人」
「もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「貴方を驚かせようと思って」
「うん。確かに驚いた」
 その静かな仮面を引きずり下ろしたい。向こう側の動揺を見たい。
 私にそれができるのだろうか。
「まさか、こんな物まで用意しているなんて」
 じゃらり
 彼女が手をあげると、鎖も一緒に持ち上がる。強度は充分でも重さはそれほど無いはずだ。
「それで、次は何があるのかな?」
 彼女は真っ直ぐに私を見ている。
 私は目を反らさない。後ろめたいことなど何もないのだから。
「少し、変わったかな」
 彼女の言葉に私は首を傾げる。
「視線を外してもらえると、思ったんだけどね」
 ああ。そうかも知れない。私は強くなったのだろう。彼女をこうやって手に入れられるほどに。
「だったら、こう聞くべきかな」
 私は、彼女の言葉を待った。
「貴方、誰?」
 
 
 じゃらり
 悲鳴が聞こえたような気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
 彼女は、歯を食いしばって耐えていたのだから。
 
 
 私は彼女を抱き締めて震えていた。
「……酷いな、誰だか知らないけど…」
 何故?
「うん。もういいよ。大丈夫。血は止まった…と思う。多分」
 何故?
「大丈夫。大丈夫。ああ、ついでに鎖も外してもらえると助かるな。駄目?」
 私は彼女の名を呼ぶ。
「ああ、私の名前、知ってるんだ。それで、貴方の名前は?」
 知っている癖に。何故?
「いや、そういうのは、いいから」
 彼女の微笑みは微妙にひきつっていた。傷の痛みのためだろう。脅えて笑えなくなるような彼女ではない。
「違うでしょ? 蓉子なら、こんなことはしないもの」
 彼女は別の笑いを見せる。
「貴方誰? 確かに、蓉子に似てるけど」
 私は……
 水野蓉子。
 水野蓉子。
 水野蓉子。
 貴方が佐藤聖であるのと同じくらい確実に、私は水野蓉子。
「でも、蓉子はこんなことしない」
 じゃらり、と鎖を持ち上げる。
「もし止むに止まれずやったとしても、蓉子なら私の目を見ることなんかできなくなってる」
 そして彼女は微笑んだ。
 佐藤聖らしく。
「だからさ、帰ってきてよ。蓉子」
 
 
 涙で化粧が落ちていた。もともと薄化粧なのだからさほど目立たないけれど、それでもみっともない姿になっている。
 聖に説得されて私が化粧を直している間、鎖を外された彼女はお風呂を沸かしていた。
「ま、長く付き合っていれば色々あるよ」
 そんな一言で終わらせてしまっていいのだろうか。
 本当に終わるのだろうか。
 これが一時を凌ぐための嘘だとしても、私に抗う権利はないのだ。
 そして私は、また元に戻る。
 彼女の周りの者に嫉妬する日々。
 加藤景に、
 福沢祐巳に、
 藤堂志摩子に、
 鳥居江利子に、
 そして、久保栞に。
 弱く、いじましい自分に。
「ねえ」
 私は脱衣場の聖に声を掛ける。
「なに? 蓉子」
「キスしても、いい?」
「……お風呂から、出た後にね」
 私は化粧台に目を落とした。婦人から買った口紅と元からそこに置かれている口紅が並んでいる。
 私は一つに手を伸ばす。
 
 
 口紅を手に取った。
 そして私は、紅を差す。
 誰のためでもない朱色が、血色の悪い唇を覆い隠していく。
 私は紅を差す。
 
 
あとがき
 
 
 
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