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椿組三人娘「失せ物」
 
 
 
「馬鹿にしないで!」
 瞳子の手のひらが、可南子の頬の直前で止まった。
「瞳子!」
 乃梨子の制止は一瞬遅かったが、瞳子の自制はそれより少し早かった。
「ごめん…なさい」
 殴られそうになった姿勢のまま避けようともしなかった可南子は、そこから一歩たりとも動かない。
「こんなの、ちっとも嬉しくないわよ! 少しは考えなさいよっ」
「瞳子、言い過ぎだよ」
「乃梨子は黙っててっ!」
 
 
 事の発端は単純な出来事だった。
 放課後、教室で自分の机の下に潜り込んでいる瞳子を、乃梨子が見つけた。
「何やってるの? 瞳子」
「捜し物よ」
「何か落としたの?」
「うーん。多分」
「多分って…」
 一緒に机の下を覗き込んでも何も見つからない。
「何もないみたいだけど」
「……教室じゃないのかしら」
「何を落としたの?」
 瞳子は答えず、何事か考えている。
 音楽室…家庭科室…部室…。そう呟いているところを見ると、何かはわからないが大事なものを落とした場所を考えているのだろう。
「なんだかわからないけれど、学校で落としたとは限らないでしょう?」
「そうね。乃梨子の言うとおり」
「だから、一体何を落としたのよ。何かがわからないと、一緒に探すこともできないんだけど」
「シャープペンシルよ」
 それくらい、と一瞬乃梨子は思ったけれど、物を大事にすると言うことは悪いことではない。
「どんなの?」
「…イタリア製の…マーブル模様の」
 聞き覚え、いや、見覚えがある。
「瞳子? それってもしかして」
 それ以上は聞くまでもなかった。振り向いた瞳子の表情が全てを物語っている。
 青ざめてこそいないけれど、充分絶望的な表情。
 そうだ。祐巳さまの修学旅行のお土産。それを瞳子は紛失してしまったのだ。
 大事に仕舞っておけばよかったのに、とは言えない。手元に置いて愛用したいという気持ちは乃梨子にもよくわかるからだ。
「教室で落としたのなら、自分の机の下とは限らないし」
 這いつくばるようにして乃梨子は教室の床を眺めた。
「…掃除の時間に間違えて捨てられたなんて事はないのかな」
 言いながらも、それはないと乃梨子は思っていた。
 誰が見てもシャープペンシル以外の何者でもないデザインなのだ。落とし物であれば先生に届けられているだろうし、誰かがちゃっかり自分の物にしているとも考えにくい。流石に、リリアンの生徒は正直者が揃っているのだ。
 教室の隅に転がっているわけでもなく、二人がかりでも見つからない。こうなると、落としたのが教室でないという可能性は強くなる。
「他の部屋は調べたの?」
「いいえ、でも、今日は教室移動と言ってもほとんどありませんでしたし」
 確かに、今日の時間割で教室移動と言えば体育くらいの物だ。そのうえ、体育の時間に筆記用具は必要ないので持ち歩いていないはずだった。
 誰かに盗まれた、という嫌な可能性も頭をよぎる。
 だとすれば、目的は嫌がらせだろう。シャープペンシル自体は高価な物ではない。
 それに、瞳子には色々と敵が多いこともわかっている。
 それでも、わかっててやったとすればかなり悪質だ。なにしろ物が物だ。紅薔薇のつぼみからのプレゼントなのである。一歩間違えれば山百合会幹部の不興も買うことになる。流石にそこまで肝の据わったクラスメートはいないだろう。それに、瞳子を嫌っているほとんどが祐巳さまのファンだ。祐巳さまに対しても嫌がらせになってしまうことをやるとは思えない。
 ただ、純粋に瞳子の不注意だとしても、少なくとも教室に落ちていないことは確かだった。
「学校には確かに持ってきていたの?」
 瞳子は首を振る。
「それが…覚えていないんです」
 中まで確認してペンケースを持ってきているわけではない。
「それじゃあ、家にあるかも知れないのね?」
「そうかも知れませんけれど…」
 瞳子はその可能性を考えていない、というより考えられないようなことなのだろう。
「お姉さまになんて言えばいいか…」
 瞳子の心配はよくわかる。
 乃梨子も、別にこの出来事で祐巳さまが怒るとは思っていない。祐巳さまがそんな人でないことはよくわかっている。でも、翻ってみれば瞳子の心配もよくわかる。
 祐巳さまが怒る怒らないの問題ではないのだ。無くしてしまった自分が情けなく、腹立たしいのだろう。言い換えると、今の瞳子はお姉さまに顔向けができない。
 それはわかっていても、今の乃梨子が瞳子にかけられる言葉は一つしかない。
「祐巳さまは、そんなことを気にする人じゃないよ。それは瞳子が一番よくわかっているんじゃないの?」
「わかってます。そんなことは、よくわかっているんです」
 でも…、と言いかけて瞳子は口をつぐんだ。
 やっぱり、顔向けができないと言う思いは拭えないのだ。それが気にしすぎだと言われても、気になるものはなるとしか言いようがない。
 そうなるともう、乃梨子にも何も言えなかった。
 あとは、瞳子の気持ちに任せるしかない。乃梨子にできることはただ見守るだけだ。
「もう少し、探してみましょうか」
 それくらいしか、今の乃梨子には言えないのだ。
「ありがとう、乃梨子」
 二人がもう一度しゃがみ込んで教室の床をくまなく探す。
「どうかしたの?」
 教室に入ってきた可南子の声に、慌てて立ち上がる二人。
「あ、可南子さん。実は…」
「なんでもないわ。ちょっと落とし物をしただけよ」
 乃梨子の言葉を遮る瞳子。
 乃梨子は訝しげな顔になるけれど、とりあえずは瞳子に調子を合わせることにした。
「一緒に探しましょうか?」
「大丈夫。今見つかったところだから」
「そう、それならいいけれど」
 そう言うと可南子は、自分の机の中から何かを取りだしてポケットに入れた。どうやら、何か忘れ物を取りに来たらしい。
「それじゃあ、二人とも、ごきげんよう」
 可南子が去っていくのを見届けると、乃梨子は小さく尋ねた。
「どうして隠すの?」
「深い意味はありませんけど、なんとなく…」
 可南子も同じシャープペンシルを貰っているのだと言うことを、乃梨子は思いだした。
 それで言い出しにくいのかも知れない。瞳子の気持ちはなんとなくわかるような気がした。
 二人はさらに時間を掛けて探した後、諦めた。
「家にあるかも知れませんから、帰ってからよく探してみます」
 幸い、今日は薔薇の館に行かなくてもいい日になっている。瞳子が祐巳さまに顔を見せるのは明日でいいのだ。もし家で見つかれば、明日は普通に顔を合わせることができるだろう。
 その翌日、乃梨子が見たのは冴えない表情の瞳子だった。
「家にも、無かったわ」
「祐巳さまはわかってくれるよ。わざと無くした訳じゃないんでしょう?」
「それはそうだけど」
 担任の先生が入ってきて朝礼が始まる。
「これ、落とし物で届けられたんだけど、誰のかしら?」
 先生がかざしたのは紛れもないマーブル模様のシャープペンシルだった。
 瞳子はすぐに申し出る。
「良かったじゃない、瞳子」
 休み時間になるとすぐに乃梨子は瞳子に駆け寄った。
「誰かが届けてくれてたんだね」
 ところが、瞳子の表情はより冴えなくなっている。
「これは私の物じゃありません」
 立ち上がると、つかつかと可南子の席に近づく。
「可南子さん、ちょっとお話が」
「なにかしら?」
「ここでは話せないから、外に出てもらえるかしら?」
「いいわよ」
 厳しい表情の瞳子と、白けたような顔の可南子。乃梨子は慌てて瞳子に付いていく。
「どうしたのよ、瞳子」
「……このシャープペンシルは私のではありません」
「え?」
「可南子さんの物です」
 人気のない校舎裏に出ると、瞳子は早速尋ねた。
「このシャープペンシルは可南子さんの物ですわね?」
「どうして、そう思うの? 祐巳さまには同じ物をもらったのだと思っていたけれど」
「私の物には、キャップの裏に印を付けてあるんです」
「そんなところに……。それは気付かなかったわね」
「何故ですか?」
「瞳子さんが落とし物をして、私から隠そうとしている。そんなの、一つしか思いつきません。だから今朝早く来て、手紙を付けて先生の机の上に置いておいたんです。もし間違っていたとしたら、私のものだと名乗り出れば済むことでしたから」
「私は、理由を聞いているんです」
「瞳子さんのことだから、祐巳さまに合わせる顔がない、なんて考えていたんでしょう? 私なら、別にいいから」
「何が、いいのよ」
「瞳子さんは祐巳さまの妹なのでしょう? 私はただの後輩だもの」
「だから、何よ」
 瞳子が一歩、可南子に近づいた。
「シャープペンシルが一つしかないとすれば、持ち主に相応しいのは私でなく瞳子さんだから」
「それが何だって言うのよ!」
 瞳子が手をあげるのを見て、乃梨子は息を呑んだ。
「馬鹿にしないで!」
 瞳子の手のひらが、可南子の頬の直前で止まった。
「瞳子!」
 乃梨子の制止は一瞬遅かったが、瞳子の自制はそれより少し早かった。
「……ごめん。でも……」
 殴られそうになった姿勢のまま避けようともしなかった可南子は、そこから一歩たりとも動かない。
「でもこんなの、ちっとも嬉しくないわよ! 少しは考えなさいよっ」
「瞳子、言い過ぎだよ」
「乃梨子は黙っててっ!」
 瞳子が可南子につかみかからんばかりの勢いで詰め寄った。
「私だって、お姉さまだって嬉しくないわよ! 貴方だって!」
 俯いていた可南子が瞳子を見た。
「瞳子さん…?」
「誰も嬉しくなんかないのよ。そんなことぐらい、わかるでしょう?」
 拳を突き出すように、瞳子はシャープペンシルを可南子に渡す。
「だからこれは、可南子さんの物」
 可南子は逆らわずに受け取る。
「……そうね。これは私の物」
 ポケットにシャープペンシルを落として、可南子は言った。
「ごめんなさい、瞳子さん」
「うん」
 良かった、と乃梨子が二人に向かって歩く。
「それじゃあ、そろそろ次の時間が…」
「あーーっ! こんな所にいた!」
 ギョッと振り向く三人。
 他でもない紅薔薇のつぼみが、手を振りながら駆け寄ってくる。
「瞳子、探してたんだよ」
「お姉さま?」
 慌てて「ごきげんよう」と挨拶する三人。
「ごきげんよう」
 言うと、祐巳は瞳子の肩をしっかりと捕まえる。
「瞳子。シャーペンのことなんだけど」
 げっ。と乃梨子は口の中で呟いた。
 どこからか情報が漏れている。
 乃梨子が見ると、可南子は慌てて首を振る。
「これ、昨日のお昼休みに、薔薇の館に忘れてたみたいだよ」
 祐巳の手から渡されるのは、紛れもないマーブル模様のシャーペン。
「え?」
「それじゃあ、またお昼休みにね」
 何も答える間もなく、瞳子のお姉さまはその場を去っていく。
 シャーペンを受け取ったまま固まっている瞳子。
「……乃梨子さん?」
「なにかしら、可南子さん」
「ミルクホールで一番高いパンって何かしら?」
「……そうね、私も今それがとても知りたい」
「瞳子さんなら教えてくれるかしら」
「うん。明日のお昼に直々に教えてくれるよ、きっと」
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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