バレンタインに下克上?
「そりゃ、もらえると思ってたわよ」
由乃さんは鼻息も高く言い切った。
おお。気持ちはわかるけれど、ここまで言い切るなんて。と祐巳は驚いた。呆れると言うよりも凄いという気持ちのほうが強くて。
やっぱり由乃さんのイケイケ青信号は、卒業間際の今でも健在なのだ。
「少しは落ち着くと思ったんですけれどね」
そう言ったのは乃梨子ちゃんだったろうか。
それとも瞳子?
もしかして志摩子さん?
「少しは落ち着くと思ったんだけどね」
訂正。この前久しぶりにお見かけした令さまだ。
「話は聞いてるよ。元黄薔薇さまというより、元剣道部としてだけどね」
令さまにも、色々な情報網があるのだろう。江利子さまが凄すぎて霞んでいるみたいだけど、令さまだって伊達に黄薔薇さまをやっていたわけではないのだ。
とにかく、由乃さんの鼻息は荒い。
「そういう祐巳さんは、どの程度なの?」
そう来ましたか。
「え? どの程度って」
「直接で二つはあるでしょう?」
「二つ?」
あ、瞳子が反応してる。
うん、実はそうやって嫉妬してくれるのはお姉さまとしてなんとなく嬉しいのだけど。
祐巳は瞳子の眼差しを巧みに外しながら言い訳を考える。
「……可南子さん?」
外すまでもなく瞳子の攻撃がクリティカルヒット。
「それ以外、紅薔薇さまに直接チョコを渡せる心臓の持ち主がいる?」
いつも通り、乃梨子ちゃんはクールに断言する。
「や、でもね。可南子ちゃんのチョコレートは、義理以上本命未満だから、ね?」
「なるほど、義理以上ということですか」
はうっ、と乃梨子ちゃんのほうを祐巳は見る。
乃梨子ちゃんは時々こうやって祐巳の敵に回る。具体的には、瞳子が傷つきかねない時。
ああ、なんてわかりやすいんだろう、乃梨子ちゃん。
そう思っても、志摩子さんの前ではそれを口にしてはいけない。ちょっと機嫌が悪くなってしまうからだ。
「瞳子だって一年生にもらったでしょう? おあいこおあいこ」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
だけど、可南子ちゃんから持ってきたチョコレートを突っ返したりしたら、きっと瞳子はもっと怒る。そうなるってことを祐巳は知っている。
だからこれは、可愛い妹の精一杯のジェラシーなのだ。これくらいは大きな心で受け止めるのが、お姉さまというものだ。
ただし、由乃さんはちょっと違う。
ジェラシーとか、そういう問題ではない。
乃梨子ちゃんは、志摩子さんのためにチョコケーキを作ってきたらしい。
瞳子は、チョコチップクッキーを焼いてきた。
菜々ちゃんは、何もない。
そう。何もないのだ。
朝から由乃さんは何度も菜々ちゃんに会っているらしいのだけど、菜々ちゃんは何も言わない。
「照れてしまって言い出せないんじゃないかしら」
志摩子さんのフォローもかなり微妙。というか、照れてしまう菜々ちゃんなど想像できない。ある意味、かつての江利子さま以上の傑材なのだから。
「それはない」
うわ。由乃さん直々に否定した。
祐巳はフォローする言葉を考える。
「あのさ、放課後にゆっくり渡すつもりなんじゃないかな、昼間だと、ばたばたするし。薔薇の館でゆっくり渡すつもりなんだよ」
「……まだ来てないし」
由乃さんは完全に拗ねている。
「一年全体で、終礼が長引いているようですわね」
瞳子の言葉に、由乃さんがおやっとした顔で言う。
「そうなの?」
「他の一年生も来てませんし」
確かに。誰も来ていない。
「きっと、皆が遅れているんですよ。菜々ちゃんも」
「……ま、べつにいいんだけど。令ちゃんからちゃんともらうし」
興味なさそうに書類に目を落とす由乃さん。だけど、祐巳と志摩子さんにはそれが由乃さんのポーズだということはバレバレなわけで。
やっぱり由乃さんは、菜々ちゃんが何も言ってこないことを気にしているのだ。それもかなり。
皆で由乃さんの様子を気にしていると…
「ごきげんよう。すいません、終礼が長引いてしまって」
菜々ちゃんがようやく姿を見せる。
挨拶を終えると、再び自分のお姉さまである由乃さんに謝りながら、菜々ちゃんは席について由乃さんの仕事を手伝い始める。
テキパキと進める菜々ちゃんの姿に安心したのか、由乃さんはもう何も言わない。
祐巳が密かに志摩子さんに目配せすると、志摩子さんはニッコリ笑って返す。
そして二人もそれぞれの担当に……
「菜々?」
「なんですか、お姉さま」
「なにか、忘れてない?」
「なんですか?」
「なんですかって……周りの状況見てわからない?」
「周り。ですか?」
言葉通り、素直に辺りを見回す菜々ちゃん。
瞳子からもらったチョコレートを摘んでいる祐巳と目が合う。
祐巳は思わず微笑んで、つい摘んだチョコレートをこれ見よがしにふらふらと揺らしてみる。
自分でもわざとらしいとは思うのだけれど、これも親友由乃さんのためだ。菜々ちゃんが度忘れてしているとするならば、思い出させてあげなければならない。
それなのに菜々ちゃんの視線は、祐巳のチョコレートを素通りして。
「よくわかりません」
「え?」
「ですから、よくわかりません。変わったことがあるようには見えませんけれど」
「……菜々?」
「はい?」
「もしかして目が悪い? 実はコンタクトで、今日はつけてないとか」
「いえ。おかげさまで目も含めて、いたって健康です」
「だったら、見えないかな」
「何がですか?」
菜々ちゃんはわざとやっている、と祐巳は確信した。これは惚けたりど忘れとしたりなどという生やさしいものではない。完全に自分の意志でスルーしているのだ。
「何がって……」
そして由乃さんはそろそろ頭に血が上りつつある。
これはまずい。
久しぶりの爆発かも知れない。
祐巳は志摩子さんに目配せをする。すると、志摩子さんもあらかじめわかっていたようで軽く頷いた。
そして、そっと二人で立ち上がり行動を起こそうとした時。
「もしかして、チョコレートですか?」
ごろり
祐巳は、導火線に火のついた爆弾がテーブルの上に転がっているような錯覚に襲われた。
志摩子さんは何も言わず、じっと祐巳を見ている。
乃梨子ちゃんも。そして瞳子も。全員が祐巳を見ているのだ。
つまり、祐巳に何とかして欲しいと言っているのだ。
「無理」
そう叫びたいのを堪えて、祐巳はそっと由乃さんに目を向ける。
由乃さんは、目が据わっていた。
「お姉さま?」
返事がないので声をかける菜々ちゃん。この状況でさらに声を重ねるのは大物なのか鈍感なのか。
「いい」
由乃さんは叫ぶでもない大きな声でそう言った。
「え?」
「だから、もういいって言ったの。この話はここでおしまい。いいわね?」
「はい。お姉さま」
これは、進化したと思った方がいいのだろうか。それとも、怒らないように由乃さんが進化したと言うよりも、由乃さんの怒りが中へと深化したと言う方がいいのだろうか。
どちらにしても、祐巳たちギャラリーからするとあまり気持ちはよろしくない。というよりも、素直に言ってしまえば怖い。
この後、由乃さんがどんな行動を取るのか。それを考えただけで怖いのだ。
薔薇の館メンバー全員の前で、いわば由乃さんはお姉さまとしての株を落とされたのだ。何もないと思う方がおかしい。
これが白薔薇姉妹や、自分たち紅薔薇姉妹でも、相当な嵐になるだろうなと思うのに。よりによって由乃さんである。
騒動が起こらない方が珍しい由乃さんである。
だけど由乃さんは微笑んでいた。
「いいわね?」と尋ねるように言った瞬間、確かに顔は微笑んでいたのだ。
さすがは黄薔薇さま、と言うべきか。
表情隠しに長けた、と言うべきか。
どちらにしろ祐巳には、この数年のつきあいで確かに言えることが一つあった。
……これは由乃さんじゃない。
言い換えると、
……由乃さんらしくない。
いうことだ。
何かある。微笑みの裏には何かある。
由乃さんは何かを企んでいるに違いない。
多分、それは止めないと色々とまずいような気がする。
よし。
祐巳は一つ決心すると席を立った。
「あ、祐巳さん」
その矛先をかわすように、由乃さんが先に声をかけた。
「へ?」
思わず漏れる祐巳の緊張感のない返事に、瞳子ががっくりと頭を落とした。
自分の株が下がったような気がする、と憮然たる思いの祐巳に、由乃さんは続けた。
「特に用がなければ、そろそろ失礼していいかしら?」
由乃さんの妙な迫力に、祐巳は思わず頷いてしまう。見ると、志摩子さんも同じようにして頷いている。
「ありがとう。菜々、貴方はどうするの?」
「え? いいんですか?」
菜々ちゃんは乃梨子ちゃんと瞳子を見ている。それはそうだろう。つぼみ仲間を見捨てて帰っていいものか。
「お姉さまと一緒なんだし、別に構わないわよ」
「ええ。乃梨子の言うとおり」
それじゃあ、と立ち上がる菜々ちゃん。
結局、黄薔薇姉妹は連れだって帰っていってしまう。
「なんだか、一触即発のような気がしたんですけれど」
二人の姿が消えると、瞳子が呟いた。
「黄薔薇さんちには、黄薔薇さんちのやり方があるんだよ。きっと」
祐巳は自分に言い聞かせるように言う。
「黄薔薇さんちのやり方って……なんでしょう?」
乃梨子ちゃんの疑問に、志摩子さんは首を傾げ、祐巳は何も言えなかった。
別にチョコレートが欲しかった訳じゃなくて。
由乃は必死で自分に言い聞かせていた。
帰り道は、和気藹々と帰ることができたのだ。チョコレートのことさえ気にしなければ。
それでも、チョコレートの話題を由乃は全く出さなかった。
もし拒絶の言葉を二回聞いてしまえば、もう立ち直れない、と感じていたからだ。
妹にチョコレートがもらえないというのは、かなり情けない。
黄薔薇さまとして、少なくない数の下級生から届けられたチョコレート。申し訳ないけれど、どれだけ数があったとしても、妹から贈られるたった一つのチョコレートとは比べようがないのだ。
比べること自体が間違っているとはわかっているけれど。
それでも、違うのだ。
だけど、催促なんてみっともない真似はできない。それを自然体でやってのけるような人は昔いたけれど、由乃にそんな芸当はできない。
だから、由乃はとにかくその話題を避けた。それしか、ないのだ。
それが情けなくて、部屋に入って由乃は放心していた。
情けなさと、疑問と、悲しさと。それからちょっぴり腹正しさ。
別に、チョコレートなんか欲しくないけれど。
そうやって、自分に対して意地を張ってみる。
無意味だな、とは思うけれど。虚勢を張りたくなるのは自分の性格だと知っている。そして、妹相手に虚勢を張っている自分のみっともなさが嫌で、さらに意固地になってみる。
悪循環。
わかってはいるけれど。
それで止まらないから悪循環。
「それじゃあ、また、明日ね、菜々」
「はい、お姉さま」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
そう言って、普通に別れてしまった。
そして今、自己嫌悪を抱えて部屋に籠もっている自分。
「馬鹿みたい」
呟いてみても時間は戻らない。
切り替えて、明日だ。
明日、きちんと菜々と話をしよう。
でも,何を?
どうしてチョコレートをくれないの? と?
そうだ。と由乃は肯定する。
仕方ないのだ。それが例え情けなくても、気になっていることがあるのなら確かめるのが自分だ。
少し気分が楽になって、うずくまっていたベッドの上から由乃は降りた。軽く伸びをして、本棚の本を取ろうとする。
「由乃、お客さんだよ」
令ちゃんの声がした。
由乃の家だけど、令ちゃんかいるのは別に珍しいことではない。たまたま訪れた瞬間に行き会えば、家まで案内して家人に引き合わせても何の不思議もないのだ。
「今行く」
声をかけて、服を確かめる。なにしろ、帰ってからすぐに落ち込んでいたのだ。服をちゃんと着替えたかどうかもよくわからない。
見下ろして、室内着だと確認してから階段を下りていく。
「こんな時間に誰?」
薔薇の館でやってしまったことを考えると、祐巳さんか志摩子さんかも知れない。けれど、二人ならまず電話をしてくるはずだ。それに、令ちゃんの反応も違っていただろう。
「ごきげんよう、お姉さま」
由乃は足を止めた。
どうして?
驚きと怪訝の混ざった表情で、由乃は菜々を見ていた。
「……菜々?」
「はい」
「どうしたの?」
「チョコを届けに来ました」
「え?」
確かに、菜々の手には紙箱が。
でも、どうして。
まさか、薔薇の館であんな事を言われたからといって急いで用意したのだろうか。だとしたら、はっきり言って受け取りたくない。
「……あれは、出来合いのケーキじゃないよ。紙箱にお店のロゴが入ってないもの。ちゃんと準備してたんだ」
令ちゃんが由乃にだけ聞こえるような小さな声で言うと、勝手知ったる島津家の居間へと去っていく。
そして菜々は、
「……あの、ごめんなさい」
今度は謝ってくる。由乃は軽くパニックになっていた。
「学校で渡せませんでした」
「……どうして?」
ようやくの、由乃の一言。
「なんていうか……その……照れるじゃないですか」
後半を早口で言うと、菜々は紙箱を両手で捧げるようにして差し出す。
「お姉さま。受け取ってください」
つまり、人前で渡すのが照れくさくて恥ずかしかった。と言うのだろうか、この妹は。
由乃は大きく溜息をついて、腰に手を当てる。
「しょうがないわね」
高揚してくるのが自分でもわかる。
「中身はケーキ?」
「はい」
そして、由乃は気付いた。どうして令ちゃんが箱の中身にまで気付いたか。
菜々はきっと、令ちゃんの指導を受けたのだ。
「菜々、時間はあるの?」
「え? あ、はい」
「お茶を煎れるから、一緒に食べようか」
「はいっ」
いそいそと靴を脱ぐ菜々を待ち、由乃はケーキを受け取る。
「ようこそ菜々」
そして、由乃は微笑んだ。