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志摩子さんのビンタ
 
 
 薔薇の館には二人きり。
 三年生はもう滅多に出てこない。そして、祐巳さんは瞳子ちゃん絡みで用事に出ている。多分、乃梨子ちゃんも一緒。そうすると、館に残っているのは志摩子さんと自分だけ。
 由乃は、久しぶりの状況に妙な懐かしさすら覚えていた。
 祐巳さんがいなかった頃は、これが標準だったのだ。
 江利子さま、聖さま、蓉子さま、そして祥子さま、令ちゃん。
 そこに志摩子さんと自分を合わせて七人。それが薔薇の館の総勢だったのだ。
 先代の薔薇さまが卒業されて、入れ替わりにやってきたのが乃梨子ちゃん。そして、瞳子ちゃん。四月になれば菜々も来る。
 人は移って、そして中身も変わっていくのだ。
 そこまで考えて、由乃は溜息をついた。
 このところの由乃にはちょっとした心配事がある。少し前から消えない悩み事が。
 果たして、菜々を迎える自分は本当に菜々のお姉さまとして相応しいのだろうか。
 いや、それだけではない。黄薔薇さまとして、自分は本当に上手くやっていけるのだろうか。
 周りの評価を聞いてみればいい。
 曰く、暴走機関車。
 曰く、イケイケ青信号。
 曰く、島津由乃は改造人間である!
 曰く、たった一つの命を捨てて生まれ変わった不死身の身体。
 さんざんな言われようだけれども、手術後の自分の行状を考えるとうなずけてしまえるのが情けない。
 言い訳してみる。いわば、ナチュラルハイだったのだ。十数年間の不自由な思いを一気に解消した一年だったのだ。多少の無茶はやってしまうのが人間というものではないだろうか。
 しかしやりすぎである。
 その一言で、由乃の意気は見事に雲散霧消する。
 またも、溜息。
「どうしたの? 由乃さん」
 さすがに志摩子さんが尋ねる。
 ……うん。悩んでいるんだ。来年度からの薔薇さまや妹になる菜々のことで。
 そんな素直にあっさりと言えるようならば、これほど由乃は悩んでなどいない。
「ちょっとね……」
 自分の返事に自分で虚しさすら感じ、由乃は机に突っ伏せた。
 かさかさと衣擦れの音。そして椅子の動く音。視界から消えた志摩子さんが動く気配。最後に足音。
「由乃さん?」
 空いている椅子が動いた。
 顔を上げた由乃は、隣に座った志摩子さんに気付く。
「志摩子さん?」
「私に解決できるとは思わない。それでも、由乃さんが誰かに話して楽になれるのなら、私が聞こうと思うのだけれど」
 押しつけがましくなく、だけどはっきりとした意思表示。
 なぜだか由乃は、志摩子さんはお寺の娘なんだなと納得してしまった。
「大したことじゃないの」
 行ってから、由乃はしまったと思う。
 多分、自分の口調と態度は言葉を裏切っている。まるで、
「本当は大したことだから相手になって欲しい」
 と訴えでもするかのように。
 それとも、それが本当の自分の気持ちなのか。
 由乃は三度目の溜息をつく。
 志摩子さんは、辛抱強く言葉を待っていた。
「本当に、大したことじゃないの」
 それでも志摩子さんは何も言わない。そして由乃もそれを待っていた。
「だけど、志摩子さんが聞いてくれるのなら、愚痴ってもいいかな」
 本当なら、令ちゃんに愚痴るところ。それがいつもの由乃だった。だけど令ちゃんはもういない。
 愚痴る相手がいないのに愚痴りたいというのなら、すっぱりと諦めるしかない。あるいは、新しい相手を見つけなければならない。志摩子さんには悪いけれど。
「ええ。聞かせてもらえる?」
 志摩子さんはそう言うと、何故か立ち上がる。
 おや? と由乃が考えていると、志摩子さんは新しいお茶を煎れる準備を始めた。
「由乃さんは?」
「あ、紅茶を」
 反射的に応えてしまってから、慌てて立ち上がって志摩子さんをお手伝い。愚痴を聞いてもらうというのにお茶まで煎れさせるというのはさすがに気まずい。
 そもそも、志摩子さんは本腰を入れて聞くつもりなのだろうか。お茶まで準備して長期戦の構えではないか。
 お茶が二人分。用意を終えると志摩子さんは再び座って、由乃を促すように微笑む。
「由乃さん、いつでもどうぞ」
 そうやって構えられると話しにくい。
「う、うん」
 ちょっと迷ったけれど、由乃は口を開いた。
 結局、悩んでいるのは事実だし、解決できるできないはおいて誰かに聞いて欲しいと思っていたのもまた事実なのだ。ただ、その相手が志摩子さんだとは思っていなかっただけ。
「最近思うんだけど……」
 果たして、自分は菜々のお姉さまとして相応しいのだろうか?
 次期黄薔薇さまとして相応しいのだろうか?
 別に、自分が取り立てて劣っているとは思っていない。だけと、黄薔薇さまに相応しいかどうかはまた別の問題だ。
 例えば志摩子さん。誰に気兼ねすることもない白薔薇さまだろう。現に、二年生の間の一年間を見事に勤めたではないか。純粋な人気の点から考えたとしても、今では押しも押されもせぬ立派な白薔薇さまだ。
 そして祐巳さん。立派な紅薔薇さまだ。人気はあるし、親しまれている。威厳という意味では先代先々代には及ばないかも知れないけれど、愛される薔薇さまとしては近年希に見る逸材ではないだろうか。
 翻って、自分はどうだろう。
 人気はあるのだろうか? 愛されているのだろうか?
 さすがに嫌われているとは思わないが、さりとて好かれているとも思えない。
 そして、能力的にも明らかに劣っているだろう。
 はじめから藤堂志摩子であり、福沢祐巳であった二人と違い、自分はあくまでも支倉令の妹である、黄薔薇のつぼみの妹島津由乃だったのではないだろうか。
「私は、駄目駄目なんじゃないのかな……」
「由乃さんが駄目駄目なの?」
「そう。志摩子さんはそうだと思わない?」
「思わない」
「ありがとう。でも、私は思ってしまうのよ」
 返事の予想はできていた。志摩子さんは絶対に「そう思う」とは言わないだろう。例えそれがレトリックによるものに過ぎないとしても、志摩子さんはネガティブな表現で他人を評するような人ではない。
 それでいいのだ。由乃は同意を求めているわけではない。ただ本当に、聞いて欲しかったのだ。自分が自分をどう思っているのか。
 気休めでも言われれば、それに納得する用意はあった。心底納得できないとしても、折り合う必要があることくらいはわかっている。
 これは煎じ詰めればただの愚痴なのだ。そしてそれは、最初にきちんと断ってある。
 ただほんの少し、意地悪な気持ちになっただけ。それで、志摩子さんに答えにくいであろう問いをぶつけてみただけ。
 だから志摩子さんの返事は、由乃にとっては最高の返事だった。
「ところで由乃さんは、祐巳さんのことが好き?」
 だから、その問いには意表を突かれた。
「え?」
 思わず聞き返すと、志摩子さんは変わらぬ調子で同じ質問をする。
「由乃さんは、祐巳さんのことが好き?」
「祐巳さんの、こと?」
「ええ。祐巳さんのこと」
 答えるまでもないような気がしたけれど。
「勿論、好き」
「だったら、誰かが祐巳さんの悪口を言っていたらどうする?」
「悪口って」
「紅薔薇さまには相応しくないとか」
「それはないわよ」
「祥子さまの妹として、瞳子ちゃんのお姉さまとしては力不足だとか」
「あり得ない。祐巳さん以外に誰がいるのよ」
「そんなことを声高に主張している人がいたらどう思う?」
「文句言ってやるわよ」
「それでもやめなかったら?」
「本気で怒るわよ。ビンタくらい、してやるかも」
 少し過激かなとも由乃は思ったが、気持ちの方向としては間違ってはないとも確かに思ったのだ。
「そうね。私も同じ気持ち」
 次の瞬間、そう言った志摩子さんの手が上がる。
「だから、歯を食いしばってね」
 え? と由乃が尋ね返すより早く、志摩子さんの手が動く。
 平手打ち。ビンタ。
 由乃がそう思った時には志摩子さんの手が頬に触れていた。
「嘘。本当には殴れないけれど」
「……志摩子さん?」
「由乃さんが祐巳さんの悪口を言われて怒るように、私も大事な友達の悪口を言われると怒るの」
「それって……」
「由乃さんは私の大事なお友達なの。だから、その悪口を言わないでもらえるかしら?」
 そう言うと、志摩子さんは伸ばしていた手から力を抜いた。
「ね、由乃さん」
 志摩子さんの目は真剣だった。
「由乃さんを大事に思う令さまや、由乃さんのことを親友だと思っている祐巳さんだって、きっと怒るわよ」
「……ごめん」
 それは、由乃が思わず素直に出した言葉だった。
 志摩子さんの目はとても真剣で。本当に怒っているように見えて。怒っているのは自分のせいで。だけどそれは自分のためで。
 怖いのと、嬉しいのと、恥ずかしいのと。
 三つが混ざって由乃は言葉を失って。だから足音にも気付かなくて。
「ごきげんよう」
 扉が開いた時には隣り合わせに座っている志摩子さんの手が、まだ由乃の頬に触れていて。
 扉を開いた乃梨子ちゃんが固まっていて。
 その後ろでは目を丸くした瞳子ちゃんと祐巳さんが。
「な、な、な、な……」
 乃梨子ちゃんがわなわなと震えている。
「な、何やってるんですか、由乃さま!」
「……私はやられている方だと思うけど? 乃梨子ちゃん」
「や、やられ!?」
 顔を真っ赤にして、座り込んでしまう乃梨子ちゃん。
 慌てて駆け寄る瞳子ちゃん。
「乃梨子、しっかりして」
「瞳子ぉ〜、志摩子さんが、志摩子さんがぁああ〜」
 乃梨子ちゃんは泣いているような気がした。
 祐巳さんはおろおろと、志摩子さんと乃梨子ちゃんを交互に見ている。
「ね、ねえ、由乃さん。何があったの?」
「何がって……」
 由乃は志摩子さんと顔を合わせて、互いに首を傾げる。
「仲良くしてただけよ?」
「ええ」
 乃梨子ちゃんが泣き声になったような気がした。
 
あとがき
 

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