SS置き場トップに戻る
 
 
 
うどん
 
 
 ――もう、こんな季節
 ――日差しが温かい
 可南子はバスの時刻表と腕時計を見比べながら、そんなことを考えている。
 出張先での打ち合わせは予想よりもかなり早く終わった。一応会社に連絡してみると直帰でいいと言われたので、可南子は自宅方面に向かうバスを待っている。
 仕事は順調だった。
 今の可南子は母親とは業種こそ違うものの、それなりに似ている道を歩んでいる。未だに「女だてら」と言われてしまうようなキャリアウーマンの道だ。
 それでも、母の時代よりはマシだとわかっている。さらに可南子の場合は、リリアン出身という学歴が物を言っていた。
 社会に出ていて実力のある女性陣となると、リリアン卒業生の率は非常に高いのだ。どうもリリアンの卒業生というのは、お嬢様として嫁入りする者と社会に出て行く実力者でそれぞれの世界に二大勢力を作り上げているらしい。そのうえ、その勢力にそれぞれ属している者同士の仲が悪いというわけではないので、人脈としてはかなりとんでもないことになっているのだ。
 実際に仕事をする相手が卒業生では決してありえない男だとしても、その妻が卒業生であればかなり有利に物事を運ぶことができる。男たちも、その人脈を軽々しく見ることができないことを……実力者であればあるほど……よく知っているのだ。
 それ以前に、実力ある女性の登用を増やして業績を上げている会社には、実際に卒業生が多い。可南子のいる会社もその一つだ。
「社会に出てまでお嬢様学校ごっこか」と陰口をたたく者もいるが、実力で負けているのだから単なる負け犬の遠吠えである。
 夕日に目を細めながら、可南子は何の気無しに新しく現れたバスに目を留めた。
 空港直通のシャトルバスだ。
 そして、可南子は思わず口をポカンと開いてしまった。
 知った顔がバスから降りてきたのだ。
 そして、彼女もこちらに気付く。
「あら、可南子さん」
 予期せぬ場所で予期せぬ人物と出会い、可南子は硬直していた。
「お久しぶりね」
 偶然か? と可南子は思った。
 それとも、瞳子が可南子の立ち回り先を知って先回りしたのだろうか。あり得ないことを即座に想像してしまうのは、学生時代の無茶な記憶のせいだ。あの頃の瞳子や、あるいは瞳子のお姉さまならそれぐらいはやってのけている。
「どうしましたの? 可南子さん」
 返事がないことを奇妙と感じたのか、重ねて瞳子は声をかけてくる。
 可南子はようやく答えた。
「どうしてここに?」
「空港からのバスに乗ってきたのですけれど?」
 可南子の沈黙に何を感じたか、瞳子はさらに続ける。
「一ヶ月ほど、渡欧していましたの」
 つまり、ちょうど今帰ってきたところだというのだ。
 ということは、自分はたまたまここにいたことになる。瞳子の乗ってきたシャトルバスが止まるターミナルに。瞳子の帰ってくるどんぴしゃりの時間に。
「まさか、いきなり可南子さんにお会いするなんてね。可南子さんこそ、ここで何をしてらっしゃるの?」
「私はバスを待っているのだけど」
 可南子が言うと、瞳子はポケットから携帯電話取り出して、ディスプレイの時計表示を確かめた。
「仕事中? 急いでいるのなら、呼び止めて悪かったかしら?」
「いいえ。家に帰る所よ」
「誰か待っていますの?」
 祐巳さまが、と答えてやろうかと可南子は一瞬思うが、さすがにそれは趣味が悪い。素直に答えることにした。
「まさか。一人暮らしです」
「だったら、お食事でもどうかしら? 私、久しぶりに日本食が食べたくて」
 家に帰ればいくらでも食べられるだろうに、とは可南子も言わない。
「いいわ、おつき合いしましょう」
「よかった。帰国早々一人の食事なんてつまらなくて」
 寂しいとは言わないのが瞳子らしい。と可南子は思う。 
「せっかく日本に戻ってきたのだから誰かに会いたいとは思っていたけれど」
「誰かって、誰でも良かったの?」
 知らず知らずに、可南子の視線が険しくなる。
「乃梨子とか、菜々ちゃんでもよかったけれど?」
 そうそう、と瞳子は続けた。
「日出実さんとか、笙子さん。何なら由乃さまや志摩子さまでもね」
「私で悪かったわね」
「次善ですわ。いないよりはマシ」
「私だって、瞳子さんの帰国が今日だと知っていれば逃げていましたよ」
 憎まれ口を叩きながらも祐巳さまや祥子さまの名前を出さないのは、互いにわかっているからだ。
 祐巳さまが大学を卒業した後、二人は同居生活を続けている。
 だからどうしたというわけではない。瞳子に対しての態度に変化があったわけでもない。二人がどうであろうと、祐巳さまは相変わらず瞳子のお姉さまであり続けている。
 こちらの見る目が変わっただけだということは、瞳子も気付いている。そしてそれがわかっていても、仕方ないのだ。二人の間に自分のはいる場所はないとはわかっていても。
 とうの昔にわかっていたことをさらに突きつけられてしまっては、自分の居場所はないと通告されるに等しいのだから。
「逃がしませんから」
 瞳子は可南子の手を取り、手を取られた可南子は逃げる素振りすら見せない。いや、手を振り払おうとする意識の欠片すら浮かばなかった。
 逆に、取られた手を持ち替えて握り返す。
「ええ、逃げませんよ」
 何か食べたいものはあるか、と瞳子に尋ねる。
 握られた手に気付いてしばし慌てる瞳子。それでもすぐに平静を装い、つっけんどんに答える。
「おうどん」
「……うどん?」
 予想外のメニューに可南子は尋ね返した。
 日本食と言っていたのだから、天ぷらやお寿司、あるいはスキヤキだと一人合点していたのだ。
「ええ、おうどん。讃岐でも備中でも稲庭でも味噌煮込みでも。できれば、天ぷらうどんが」
 あ、やっぱり天ぷらは必須なのか。
 可南子は納得した。
「きつねや月見もいいですね」
 違った。天ぷらは必須ではないようだ。
「うどんなら、家に来る? 作るわよ?」
 旅行や出先ならまだしも、近所でうどんを食べるのは馬鹿馬鹿しい。家に帰って自分で作った方が気楽だ。
「それなら、うどんすきを」
 いきなり食べたいものがグレードアップした。
 うどんすきなら下ごしらえは必要ないから、すぐに作れるといえば作れる。それに、鍋物なら最初の用意が終われば台所に立ちっぱなしになる必要もない。
 瞳子が何か話をするつもりなら、ピッタリなのかも知れなかった。
「いいわよ。その代わり、帰る前にスーパーに寄るから」
「ええ」
 
 隙を見ては買い物かごにプリンと大福を入れようとする瞳子を制止しながら、可南子は買い物を済ませ、自宅に帰る。
「プリンはないのですね」
「……当然でしょ」
「可南子さんはお金に困っていたんですね。言ってくれればそれくらいは出しましたのに」
「だったら、うどんすき代を出して」
「プリン代なら」
「自分で買えば良かったのに」
「可南子さんに買ってもらいたかったのに」
「買いません」
 下ごしらえを済ませ、食材を平皿に乗せて準備を終える。
 二人の間では、ガスコンロに乗せた鍋の中でぐつぐつと出汁を沸騰していた。
「家には戻らなくていいの?」
 鶏団子を入れながら。
「そのことなんですけれど」
「なに?」
 ネギと三色団子、えのきだけ、椎茸、ニンジンを投入。
「もし良かったら、しばらく泊めていただけません?」
「家はいいの?」
 下茹でしてある白菜のホウレンソウ巻きとカマボコ、竹輪を投入。
「そういえば、だし巻き玉子がありませんね」
「うちは入れないの」
「なるほど」
「で、家はいいの?」
 うどんを入れる。
「ビール戴いてもいいですか?」
 可南子はキリン樽生一番搾りのプルトップを引き開けた。
「家はいいの?」
「まずは家主の可南子さんからどうぞ」
 缶を持って、可南子のグラスに注ぐ瞳子。
 グラスに注がれるのを確認して、今度は可南子が瞳子のグラスにビールを注ぐ。
「では、乾杯ですわ」
「音頭は任せるわよ」
「再会を祝して、乾杯」
「はい、乾杯……で、家はいいの?」
 一気に飲み干す瞳子。
「……ふぅ、やっぱりビールも日本のもののほうが美味しいですわ」
「家は?」
「あ、そろそろうどんが煮えますわ。さあ、可南子さん、取り皿をください。よそって差し上げます」
「ありがとう」
 瞳子はお玉で鍋の中の出汁を掬って、取り皿の中のポン酢に混ぜる。それから可南子の取り皿を一杯にして、自分の取り皿にも入れる。
「美味しそうなおうどんですね」
「だから、家は?」
「では、いただきま……」
「放り出すわよ?」
 箸を持ったまま瞳子が固まる。
「家はいいのかって聞いてるの。これ以上誤魔化すと、家から叩き出すわよ?」
 瞳子はゆっくりと箸を置き、おもむろに空になったグラスを手にとった。
 可南子はそのグラスに、新たにビールを満たす。
 そして瞳子は、それをまたもや一気に飲み干す。
「食べ終わってからのお話。と言うことでよろしいですか?」
「食べる前、食べている最中に嫌な話はしたくないっていうこと? それとも、叩き出される前にとりあえず食べておきたいっていうこと?」
「両方ともですわ」
 可南子は再び瞳子のグラスにビールを満たす。そして自分のグラスにも。
「酔いつぶれたら、そのまま放り出すわよ?」
「気をつけます」
 そして瞳子は、当たり障りのない旅行中の話を始める。それが尽きると、今度は思い出話。
 祐巳さまと祥子さまの名前を出さなくても、話はいくらでも湧いてくるようだった。
 だけど、どこか物足りない。
 それに気付いているのか、瞳子は話し続けている。そして可南子も聞き続けた。いや、気付いているからこそ話し続け、聞き続けているのだろう。
 食べ終わると、可南子は冷蔵庫からプリンを取り出した。
「何故か、うどん玉の底に隠してあったのよね。お金を払った覚えはないんだけど」
「ちゃんと別で払ってますからご心配なく」
「油断も隙もないわね」
 プリンを受け取ると、瞳子はそのフタをペリペリと剥がしながら言う。
「家のことだけれど」
「まだ食べ終わってないけど、いいの?」
「うどんは食べ終わりましたから」
「そう」
 可南子は、お店の人がプリンに付けてくれていたプラスチックのスプーンを捨てると、普通のスプーンを二人分置く。
「聞きましょう」
「家を出ようと思ってます」
「理由は、聞けるのかしら?」
「家にいると、甘えてしまいますから」
「一人暮らしを始めるの?」
「ええ」
 可南子はプリンを一口運ぶ。
「だからといって、今家に帰らない理由にはならないと思うけれど」
「居心地がとってもいいんですよ?」
 一度帰れば、もう出られなくなる。
 これほどの長期間家から遠く離れていたことは今までなかったのだ。これがいい機会なのだ。
 瞳子の説明に、可南子は一応頷いてみせる。
「それでも随分突発的に聞こえるわよ」
 瞳子は可南子の言葉を認めた。それでも、前から考えていたことに間違いはないのだと。この旅行で、自分が松平の家から一度離れるべきだと確信したのだと。   
「だから、当面の間だけでいいの。すぐに借家を捜すわ」
「仕事はあるの?」
 可南子の記憶では、瞳子は大学卒業後も家事手伝いという名の花嫁修業の身だったはずだ。つまり、就職はしていない。
「ありません」
 即座に答えた瞳子に、可南子は思わず笑ってしまう。
「生活費は? まさか親に出してもらうつもり?」
「しばらくは貯金で凌ぎます。それからアルバイトを探します」
「アルバイト?」
 まさかフリーター志望でもあるまいに。
「知らなかったんですか?」
 瞳子は唇をとがらせる。
「私の本職は女優ですよ?」
 知らなかったわけではない。忘れていたわけでもない。
 ただ、本職とは思っていなかっただけ。
「本気で言ってる?」
「怒りますよ?」
 可南子は軽く頭を下げた。
「そういうことなら、いいわよ。ただし、家には連絡してね。厄介ごとは御免だから」
「厄介ごと……」
「松平家の一人娘を誘拐したとでも思われたら大変だわ」
「可南子さんになら、誘拐されても構いませんわ」
 妙な間が空く。
 それでも、瞳子はじっと可南子を見ている。可南子も、瞳子の視線をしっかと受け止めていた。
 二人とも、視線を逸らそうともしない。
「じゃあ、誘拐しましょうか」
「ええ」
「部屋は空いてるから」
「ええ」
「アルバイトも、無理しなくていいわよ。出世払いにしてあげる」
「可南子さん、それは」
「大丈夫」
 可南子は冷め切った鍋に目を向けた。
「うどんくらいなら、食べさせてあげるわよ」
「うどんだけ?」
「たまにはプリンも付けてあげる」
「成立ね。誘拐されてあげます」
「じゃあ、家に連絡しないと。身代金はどうします?」
「自宅に置いてある着替え一式、かしら」
「妥当な線ですわね」
 それから二人はプリンをゆっくりと食べ終えて、ビールをもう一本ずつ空けた。
 
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
SS置き場トップに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送