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RUNNER
 
 
 それはいつのことだったろうか?
 私がまだ小さかった時。まだ、自分が何をしたいのか、何をしようとしているのかが全くわからなかった頃。
「いっちゃんは足が速いんだね」
 そんな風に褒められたことがあったような気がする。
 あれは、誰だったんだろうか。
 褒められてとても嬉しかったことだけは覚えている。だから、まるっきり知らない相手ではないはずなのだ。
 褒められた私はいい気になって走り回っていた。そして走るたびに早いと褒められた。
 幼い私は覚えてしまったのだ。走ると褒められる、と。
 いったい、誰だったんだろう。そんなおかしな条件反射を私に植え付けたのは。
 だけどそれも、今となっては誰でもいいのかも知れない。かつて私の足を褒めてくれた人がいた。それだけで、今の私には充分だから。
 今も、褒めてくれる人がいる。期待してくれている人がいる。
 それで、充分だ。それだけで、私は走ることかできるのだから。
 だから、私は走った。
 そして、走ることが好きになった。
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
「それで、逸絵さんはどうするの?」
 同じ二年生の咲希さんが逸絵にそう尋ねたのは、クラブを終えて着替えている時。
「ごめん。聞いてなかった。何の話?」
「あ、ぼっとしてたね?」
「ごめん」
 ぼうっとしていたのは事実だから謝るしかない。
「クラブ対抗リレーよ」
 そうだ。体育祭が近づいていて、出場選手を決めなければならないのだ。
 自分のクラスの体育祭実行委員を思い浮かべ、逸絵は軽く苦笑する。
 ……山口真美さんと島津由乃さん
 真美さんはいざ知らず、由乃さんは張り切って采配を振るいそうだ。心臓の手術を無事終えたことによって、これまでの分を取り返すべく猛烈に行動力を増しているのが、最近の由乃さんなのだから。
 ただ、どちらにしろ選手決定はもっと後になるだろう。クラブ対抗の選手のほうが先に決まるのも、これまた例年のことだ。
「部長が選抜するのかしら?」
「立候補が特になければそうなるんじゃないかって、お姉さまが言っていたわ」
 咲希さんのお姉さまは陸上部の先輩でもある。クラブの先輩後輩がそのまま姉妹となるのは珍しいことではない。咲希さんもその中の一人ということだ。
「逸絵さんは立候補する? どっちにしろ、選抜で選ばれると思うけれど」
「どうせ選ばれるなら、立候補しておいた方がいいかなぁ……」
 その言葉に間違いはなく、翌日のクラブでは早速代表選手が決まっていた。勿論、逸絵もその一人である。
 期待していると三年生に言われ、
「はい。がんばります」
 と答えてはみたものの結構なプレッシャーがかかる。
 だから、申し訳ないとは思った。思ったけれど、それはそれ。クラスのほうは少し遠慮させてもらおうかなと思った。陸上部と言えば走力が期待されるのは当然。体育祭での期待も大きいのだ。
 それは逸絵だって、クラスが優勝に関わるというのなら多少は頑張ろうかなと思う。だけど運動部員が極端に少なくて、出場することに意義があるというのが、今年の二年松組なのだ。だったら、力はクラブ対抗に注ぎたい。いくら元気いっぱいの女子高生だからと言って、無限体力ではないのだから。
 ところが、である。
 体育祭実行委員の由乃さんが言うのだ。
「色別対抗リレーはおおとりで点数が高いので、できれば勝ちを狙える人に出てもらいたいと思います」
 具体的な名前は出てないけれど、何人かの視線を逸絵は感じる。
「このクラスで早い人といえば、とりあえずは逸絵さんだけれど」
「でも、私クラブ対抗リレーにも出ることになってますし。二つはちょっと」
 逸絵は咄嗟に立ち上がって言う。確かに無理して出られないことはないだろうけれど、どちらかに支障が出るのは嫌だ。
「クラブ対抗リレーは、チーム別の成績に関係ない競技じゃないですか」
 由乃さんがややムッとした顔で言い返す。
「少しはクラスに貢献してください」
 正論かも知れない。と逸絵はちょっぴり思った。
 だけど。
「そんなにクラスクラスと言うのなら」
 あ、まずい。と心の中で叫ぶけど、
「由乃さんが出られればいいんじゃないかしら?」
 言ってしまった。
 由乃さんの表情が固まる。
「わ、私にリレーに出ろ、と?」
 つまり逸絵の言葉だと、そういうことになってしまう。
 もう後には引けない。言うべきではないと思いつつも言ってしまったのだ。
「手術なさって、丈夫になられたんでしょ」
 そしてなし崩しに、リレーの選手は逸絵と由乃さんに決まってしまった。はっきり言って、こんなつもりではなかったのだけれど、今更言ったところで始まらない。決まってしまったのだ。
 事こうなってしまえば、走るしかない。互いの意地の張り合いでこうなってしまったのだ。
 幸か不幸か、由乃さんが入っているという段階で勝敗は埒外となるだろう。だからといって露骨に手を抜くつもりはないけれどそれでも気分は多少楽だ。
 しかし、陸上部には陸上部のプライドがあると考える先輩もいるわけで。
「出るからにはトップを狙うべきなのよ」
 だからその日の部活、クラブハウスでそう言われた瞬間、逸絵は思わず尋ね返していた。
「トップですか?」
 部長命令である。
「そう。トップよ。チーム全体で一番になれっていうのは無理かも知れないけれど、少なくとも一緒に走る相手には勝ちなさい。陸上部同士の勝負にはならないように、実行委員のほうで調整してくれているはずだしね」
 不本意そうな顔になってしまう逸絵に、
「何か不満? それとも、自信がないとか?」
 部長が冗談半分でやっている簡単な挑発だとはわかっていたけれど、応えないとなんだか怒られてしまいそうで。
「いえ、一応自信はあります」
「じゃあ問題なしね。勝ちに行きなさい。部長命令よ」
 あっさりと言われ、引くに引けなくなった逸絵は頷いた。
「わかりました」
「期待しているわ」
「参加することに意義がある」なんて由乃さんには言ってしまったけれど、少なくとも自分はそれだけではダメなのだ。やっぱり陸上部は陸上部として、それなりのものを見せなければならなくなってしまったわけだ。
 もっとも、それはあくまで気持ちの入れ方の問題だから、そのために別の練習をすると言うことはない。第一、走る自体は元々やっていることのだ。体育祭だからと言って特別なメニューになるわけではない。そもそも、体育祭で走るからと慌てているようでは、陸上部で普段何をしているのだということになってしまう。
 だから逸絵は普段の練習メニューに特に新しいものをくわえることはなかった。ただ、体育祭直前に距離に慣らすためのための試走をやったくらいである。
 あとはメンバー揃ってのバトン渡しの練習。こればかりは個人の走力には関係ないので無視はできない。
 そして、
「今日は楽しみにしているわよ」
「由乃さんこそ、足を引っ張らないでね」
「精々、頑張るわよ」
 体育祭当日、顔を合わせた最初のやりとりがこれだ。
 険悪になろうとは思っていないのだけれども、やや挑戦的な物言いにお互いなってしまうのは仕方ない。
 競技が終われば何とでもなるだろう。もともと、互いに遺恨があるわけではないのだから。と逸絵は考えていた。
 
 ところが。
 
 嘘だ
 逸絵はそう叫びたかった。
 あるいは、
 馬鹿
 とでも。
 クラブ対抗リレーは無事陸上部の圧勝に終わった。それはいい。しかし、選手として出た自分が足をくじいてしまうなんて。
 夢だと思いたい。なんて馬鹿なんだろう。
 由乃さんにあれだけ言っておいて、自分がこんなことになってしまうなんて。本当に大馬鹿だ。
 腫れ上がった足を冷やしながら、逸絵は泣きたいような怒鳴りつけたいような気持ちを堪えていた。
 このままでは走れない。いや、走らないわけにはいかないのだ。走らなければならない。由乃さんの手前、そして自分の言葉に責任を持つために。これは義務感と言うよりも意地なのだ。
 痛みさえ治まれば、腫れさえひけば。
 リレーの後、昼食の前、昼食の後、時間さえあれば足首を冷やし続けた。医務室へ行けばいいのかも知れないが、そうなればドクターストップでリレーに出られなくなるだろう。まさか先生方がこの状態を見て走ってよしと言うわけはない。
 なんとか誤魔化すしかないのだ。
 でも…………
 逸絵は自分の決心に疑問を抱いている。
 そもそも、この腫れがそんな簡単にひくだろうか。ひかないまま無理に走るしかないことはわかっている。本当にそこまでしなければならないのだろうか。意地だけのためにそんな無茶をするべきなのだろうか。
 昼食を終えてから三回目の水飲み場通いの最中にも、そんな思いが頭をよぎる。
 由乃さんだって気は悪いかも知れないけど、この状態を見てまで許さないとは言わないだろう。ただ、自分がそれを承諾できないだけだ。意地なのだ。
 いっそ、誰かが気付いて由乃さんに御注進とは行かないだろうか、そんな後ろ向きなことまで考えてしまう。
「逸絵さん?」
「ゆ、祐巳さん……っ」
 知った声に振り向くと、まるで今の思いを読みとったかのようにクラスメートがいる。しかも、選んだかのように祐巳さんだ。由乃さんとはつぼみ仲間で親友の。
「あ、あのね。私、ちょっと目にゴミが入ったから、それで――」
 何で言い訳なんだろう、祐巳さんが。別に悪いことをしているわけでもないのに。
「私はうがいに……。グラウンド、埃ッぽいものね」
 そして何故か、自分も言い訳めいたことを口走っている。
 ああ、何で素直に言わないんだろう。
「クラブ対抗リレーで足をくじいたの」
 そう言えたらどんなに楽だろうか。
 だけど、これで逆に心は決まった。祐巳さん相手に誤魔化したと言うことは、自分は由乃さんに負けを認めたくないのだ。
 こうなったら、行けるところまで行ってやる。
「じゃ、私はこれで」
 決めると、少なくとも迷いは消えて気持ちは軽くなった。
 足は全く治っていないのだけれど。
 逸絵は足を引きずりながら、そして祐巳さんに見送られながら、水飲み場を後にするのだった。
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 私は、由乃さんたちが走るのを救護テントからぼおっと見ていた。
 なんだったんだろ、私。
 由乃さんに最初に啖呵を切ったのはまあいいとして、最後にみっともなく絡んだのは少々情けない。
 自棄になって絡んだ私と、正論を通した由乃さん。さすがは黄薔薇のつぼみ、なんだろうか。
 落ち込んでいるうちに閉会式までが終わり、私は救護テントから出て行かなければならない時間。
「迎えに来たわよ」
 由乃さんがいる。
「……ごめんなさい」
「別に、サボったわけでもないし。ただの事故よ。強いて言えば、運が悪かっただけ」
「気分の問題。謝らないと、なんだか収まらなくて」
 ああ、と由乃さんは頷いた。
「だったら、快く受けるわよ」
 まだぎこちなく歩く私を補助するように、由乃さんが肩を支えてくれる。
「こっちこそ、ごめんね」
 由乃さんに謝られるようなこと、何かあっただろうか。
「え? なにが?」
「リレーの選手を無理矢理押しつけたみたいになった事よ」
 確かに。だけど、私はそれについてはもう怒ってない。
「いいわよ。別に」
「今だから言うけれど、逸絵さんならあっさり承諾してくれると思ってたのよ」
「陸上部だから?」
 ある意味、よく言われることだから。それは仕方がないと思っている。
「確かにそれもあるけれど、ちょっと違う」
「違うの?」
 なんだろう。
「運動部の練習って、結構見学してたのよ。勿論、陸上部もね」
 それで私の走り方を見て何か思ったんだろうか?
「逸絵さん、ものすごく楽しそうに走ってた」
 私は、由乃さんを見ていた。多分、とっても変な顔で。そして、呟いていた。
「ああ、そっか」
「どうしたの?」
「思い出したの」
「何を?」
「私が、走ることが好きだって事」
 どうして、忘れてたんだろう。
 部活になって義務になったから? 
 昔のように無条件に褒めてくれないから?
 だけど、私は間違いなく好きだったんだ。
 私は自分の足を見下ろしていた。見えるのは腫れた足首に巻かれた湿布と包帯。
 早く治れと私は念じる。
 もう一度、いや、今度はあの頃の気持ちで走ることができるような気がしたから。
 
 
あとがき
 
 
 
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