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季節に貴女を想うこと
 
 
 
 ふと、背後で洗い物をしている景の気配が気になった。
 だから振り向かず、聖は第三者に話しかけるように、独り言を呟くように言ってみる。
「お景さん、何を食べさせてくれるのかな」
「何が食べたい?」
 返事が返ってきた。当たり前だろう。景はその辺りは律儀だ。二人きりの状態で聞いていないふりなんて、したことがない。
 聖は素直に答える。
「んー。それじゃあ、中華かな」
「そうすると、八宝菜とかチンジャオロースとかになるかしら」
「わお。楽しみだねぇ」
「ええ、楽しみにして待っててね」
 いそいそと皿洗いを再開する景。
 その後ろ姿を見ながら、ふと疑問に駆られる聖。
 ……何やってるんだ、私たち?
 いや、疑問に思う点なんて何もない。
 そりゃあ、今のやりとりだけ抜き出してみればおかしいかも知れないけれど。それでも、これまでの流れを考えればこの程度の軽口は叩いてもいい関係だ。
 
 景の下宿に、いつものように聖が遊びに来た。
 一緒にごはんを食べることにした。
 ただ、それだけの話。疑問に思う所などどこにもない。
 聖は、自分が何を疑念に思ったのかすら、わからなくなっていた。
 なんだろう、この違和感は。
 景のせいじゃないことだけは、確かなのだ。
 つけっぱなしのテレビの中では、最近出てきたばかりでまだ名前と顔の一致しない若手のお笑い芸人が何か言っている。わざとらしい観客の笑い声すら癇に障る自分が、逆に苛立たしく思えた。
 いったい、自分は何に腹を立てているんだろう。
「どうしたの?」
 それでも、景の言葉にはすぐに反応できる自分。
「ん? ちょっと考え事してた」
 そして当たり障りのない返事。優等生的返答ではないけれど、及第点は確実にもらえる無難な答え方。
 かぶり続けていた優等生の仮面というものは、そう簡単には外れない。例えそれが、仮面を被る必要のない相手だとしても。
「食器、並べてくれる?」
「勿論」
 聖は立ち上がり、食器棚へと移動した。
「どれ使うの?」
「その大皿でいいでしょう?」
 二つの皿に分けなくてもいい。と景は言っている。
 本当にいいの? と聞き返しそうになって、聖は口を閉じる。
 何を今更、遠慮するというのだろう。
 たかが、一つの皿のうえから同じものを一緒に食べるというだけなのに。
 何を意識しているのだろう。
 自分は。
 加東景に。
 何を。
 盛られている料理を目にして、聖は箸を伸ばす。
「出来はどう?」
 景の言葉に何故か総毛立つのを覚える。
 まるで砂を噛んでいるような味。だけど紛れもない、それは景の作った料理の味で。
 ……私、何してるんだろ?
 頭のどこかで疑問に答える。
 ……食事をしているんだよ。景さんの作ってくれた美味しい食事を、食べているんだよ。
「うん。美味しい。これ、ピーマン?」
 細長く切られた赤い野菜を取り上げる。
「パプリカ。ピーマンじゃないわよ」
「赤ピーマンじゃなくて?」
 自分がこんな会話をこなしていることに、聖は驚いていた。
 自分を背中越しに見ているようなもどかしさがある。景が気付いていないということは、傍目にはもどかしさなど感じられないのだろうか。
 話そうとすることと実際の唇の動きにタイムラグがあるような、それどころか話そうとする内容と実際に話している内容そのものに齟齬があるような。まるで、水飴の中で脳神経を動かしているような緩慢さ不確実さ。
 ……なにがあったの?
 ……さあ
 頭の中のやりとりを余所に、二人の会話は進んでいく。
「だから、パプリカって言ってるでしょう?」
「ふーん。どう違うんだろうね」
 景は箸を止めて、考え込んだ。
 おかしなところで真面目なんだと、聖は景の性格を再認識する。
「大きな違いはなかったと思うけれど」
「それじゃあ、赤ピーマンでいいじゃん」
「パ、プ、リ、カ」
 一語一語をはっきりと言い聞かせるように景は言った。その音節毎の区切りは、聖にとっては耳に楽しいものだった。
「パプリカ?」
「パプリカ」
「……やっぱり赤ピーマンだ」
「あのねえ」
 呆れた顔の景に、満足そうに笑う聖。
 そして違和感が、ますます膨れあがっていく。
 ……何を楽しそうに話しているんだろう、私……
 ……楽しくないの?
 その問いには答えるな。と警告が脳裏に浮かぶ。
 ……楽しくない……かな
 警告など、気に留める価値はなかった。
 そして、聖はゆっくりと食事を再開した。
 
 
 最初は驚いていたが、おおむね好意的に迎えられているのだと聖は思うことにした。
「お久しぶりです」
 父親との挨拶も無難に終わる。
 いつでも来ればいい、娘も喜ぶ。そんな挨拶に頭を下げて、聖は居間へと通された。
「お姉さまは、コーヒーの方がよろしいですか?」
「志摩子さん、私がやるよ」
「ここは薔薇の館ではないのよ。乃梨子がお客さんなのだから、座っていて」
 二人のやりとりがどこか空々しく見えるのは、自分に問題があるからなのだと聖は自覚している。それでも、何か腹立たしさが募ってくる。
 二人に対してではない。
 聖は、微笑ましいと思えるはずの二人のやりとりに対してそんな感想しかもてない自分に、激しく苛ついていた。
「お姉さま? どうかしましたか?」
 ああ。やっぱり志摩子は鋭いね。
 いつもなら、そう答えていたのだろう。そんな風に思う余裕があっても、志摩子の言葉に応える余裕はなく。
「ん? どうかした? 別になんでもないけれど?」
 志摩子のどこか訝しげな、柔らかな視線すら今はどこか気に障って。
「なんでもないってば。どうしたの? 志摩子」
 笑いに紛れた言葉にすら刺はあって。
 それに気付かない志摩子であるはずもなく。
 そして、志摩子の揺らぎに敏感な少女がそこにいる。
 乃梨子の咎めるような視線が、聖には不思議に心地よかった。自分は咎められるような人間なのだと、その認識を与えてくれた視線が。
 いっそ、何をしに来たのかと詰問してくれないだろうか。
 だけど白薔薇のつぼみともあろう者が、客に向かって、それも先代の白薔薇さまに向かってそんなことを言うわけもない。
 聖はただ、己を苛んでいた。来るべきではなかった、訪れるべきではなかったと。
「お姉さまは、ブラックでしたよね」
「うん、お願い」
 必要以上に苦いコーヒーが舌を灼く。
 舌の感覚器官すら自虐を理解しているのかと思うと、妙におかしい。それなら、もっと苛んでくれればいい。
 自分には、苛む人が必要だ。
 三口目の苦さと熱さで顔をしかめていると、乃梨子と目が合った。
 笑っている?
 そうだね。聖は理解したつもりだった。
 乃梨子が自分を憎んでいてもそれは当然のことだから。それとも憎むという言葉は当てはまらないのだろうか。
 嫉妬、と言うべきか。
 可愛らしい、己が身を焼くこともない子供らしい嫉妬なのか。
 それとも蛇のように己に巻き付く、執念の嫉妬なのか。
 薔薇の根元に蛇などはいない。蛇は林檎の木の下にいればいい。
 蛇がいるとすれば、それは薔薇から離れた自分。
 楽園を追い出された自分。
 蛇ならば嫌われるのも、苛まれるのも、それは運命なのかも知れない。受け入れるべきなのだろう。
 乃梨子が手を伸ばした。
「ミルクと砂糖、入れます?」
 差し出された盆に載せられた二つの容器に聖は気付いた。
 シュガーポットとミルクポット。
 盆に下ろしていた視線をあげると、不思議そうにこちらを見ている乃梨子がいた。当たり前のように、ミルクと砂糖を薦める姿。聖を嫌がっている素振りすらない。
 つまり、そういうわけなのだ。
 鏡を見ていたらしい。
 自分が嫌だから、他人も自分を嫌なのだろうと勝手に決めつけて見てしまう。自分の心が鏡に映って、他人の態度として見えているのだ。
「乃梨子ちゃんがお薦めなら、今日は入れてみようかな」
 聖は素直にスプーンを取った。
 ミルクと砂糖の入ったコーヒー。これはこれで悪くない。
 志摩子の物言いたげな視線を、聖はあえて無視してコーヒーを飲む。
「うん、悪くないね」
 
 
 大学の門の前で待っている見知った顔に、聖は手を挙げる。
「どうしたの? こんなところで」
「貴方を待っていたんだけど」
「こんなところで?」
 同じ事を聖は尋ねた。
 リリアン女学院大学の門前。そこで元紅薔薇さまが元白薔薇さまを待っていたのだ。
 通りすがりに熱い視線を向けてくるのは皆リリアンの卒業生たちだろう。声をかけられる前に退散したい、と聖は切に願った。
「珍しいこともあるよね」
 一旦構内のカフェテリアまで戻ると、聖はやれやれと言ったように座り込む。
「蓉子があんな目立つ行動するなんて」
「目立ちたかった訳じゃないわよ、貴方を確実に捕まえたかっただけ」
「携帯電話ってものがあるのに?」
「逃げられたくないから」
 逃げないよ、とは言えず、聖は天を仰いだ。
 やはり、見透かされているのだ。彼女には。
「それで、いたいけな女子大生を捕まえて何がしたかったのかな、蓉子さんは」
 棘が胸に刺さったような気がした。
 救いなど求めていないことは、自分が一番よくわかっている。
 しかも、蓉子の救いなど。
「ちょっとした噂を聞いてね。おこがましいことを言いに来たのよ」
 景か、それとも志摩子か。いや、どちらもか。
 聖は考えて、すぐにやめた。どちらであろうと変わりはないのだから。
「ご高説、賜るよ」
「聖。貴方は幸せになっていいのよ」
 閉じかけていた聖の目が開く。そして、座り直して姿勢を正す。
「蓉子?」
「それだけよ。簡単な話。貴方が幸せになって、何が悪いの?」
 根拠のない罪悪感だとは知っていた。
 けれど、あの日。
 あの雪の日から離れない想い。
 この想いを抱いたまま、自分は幸福にはなれない。なってはならない。
「吹っ切る必要も、忘れる必要もない。一生引きずってもいい。だけど、貴方は幸せになっていいの」
 想い出は想い出として。
 想い出を抱いたまま、幸せになればいい。
 何も恐れなくていい。
 幸せを感じる場面で尻込みをしなくてもいい。
 単純な幸せを感じればいい。
 友人と食事をすること。
 後輩とお茶を飲むこと。
 そのたびに、喪うことを恐れなくてもいい。
「でも私は、きっと……また、思い出すよ」
「そのときは、また同じ事を言うわよ」
「そんなの、蓉子だって……」
「いつまででも言ってあげるわよ」
「そんなの」
「私が約束を破ったことがある?」
「今までは……ない」
「これからもないのよ」
 自分は今、すがりつきたい目をしているのだろうな、と聖は思った。
 そして蓉子は頷く。
「私は約束は破らない。これまでも、これからも。信用できないのなら、一生かけても証明してあげるわよ」
 聖は突然立ち上がった。
「行こう、蓉子」
「聖?」
「こんなところで元白薔薇さまが泣いていたなんて、スキャンダルになっちゃうよ?」
「……しかも隣にいたのが元紅薔薇さまか……それは勘弁ね」
 二人は小走りのようにして歩き始めた。
 
 
 
 
 
 
 ――翌週
 
「ところでさ、蓉子?」
「なに?」
「先週のことなんだけど」
「どうかした?」
「あれって、もしかしてプロポーズ? 一生かけるって……」
「……馬鹿」
 
 
 
 
 
あとがき
 
 
 
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