笑顔の価値
小笠原祥子のもとを松平瞳子が訪れるのは、本当に久しぶりのことだった。
「お久しぶりですわ、祥子お姉さま」
静かに頭を下げる瞳子に、祥子は優しく微笑みかける。
「そうね、家に来るなんてどれくらいぶりかしら?」
「まさかこんなにご無沙汰するなんて、思いもしてませんでしたわ」
「そうね。卒業する前は学校でも会えていたから、余計久しぶりに思えるわ」
瞳子が二年生になってから半年。今では瞳子も立派な紅薔薇のつぼみだ。
瞳子は昔そうしていたように、自然と祥子の部屋へ案内される。
今日は家の用事を言いつかってきた訪問であり、個人的に遊びに来たわけではない。それでも、これだけ久しぶりに会えば積もる話もあるだろう。祥子の母清子も、古くからの使用人たちも、皆そう思っていた。
二人きりにしてやろうという暗黙の了解が一同に伝わったのも仕方のないことだろう。
祥子の部屋に二人分のお茶とお菓子を運ぶ。それが、最後の干渉になったのだった。
「変わりませんね、お姉さまの部屋」
「そうかしら。自分では細かいところに手を入れたつもりだったけれど」
「私が覚えていた部屋と、ほとんど変わりませんわ」
そう言いながら、瞳子の視線が固定されていることに祥子は気付いていた。
その視線の先には、写真立てが一つ。
祐巳と祥子の二人の写真だ。
今更、瞳子がそれを見てどうこうと言うわけもないだろう。と祥子は思う。
祥子が祐巳のお姉さまであったことは、瞳子にとっては常識である。そのうえ、二人の仲の良さも瞳子自身が誰よりも深く知っているのだから。
「その写真がどうかして?」
だから、祥子のその問いにも他意はなかった。ただの純粋な疑問だった。
「別に、なんでもありませんわ」
瞳子は、視線を祥子に向けた。
一瞬、祥子の表情が険のあるものに替わり、瞳子の視線が逸らされる。
瞳子は祥子の表情に、いや、祥子にその表情をさせた自分の視線の意味に気付いたのだ。
「……瞳子ちゃん?」
俯いたままの瞳子に、祥子は声をかける。
瞳子は顔を上げられない。今顔を上げれば、きっと同じ視線を、祥子の表情を変えさせてしまうような視線をぶつけてしまう。それは瞳子の本意ではないのだから。
「何を考えているか、当ててみましょうか?」
瞳子は静かに頭を振った。しかしそれに構わず、祥子は言を続ける。
「今更、嫉妬なんて困ってしまうけれど、そういうわけではないのね」
「嫉妬なんて……」
「いいの。だけど嫉妬するなら、私が瞳子ちゃんにするべきなのよ? 今、祐巳と一緒にいるのは瞳子ちゃんなんだから。私がそれをどれだけ羨ましがっていると思う?」
瞳子に想像できるわけもなかった。どれほど望んでも、祥子さまはお姉さまのお姉さまなのだ。お姉さまの妹候補として、瞳子と争うことなんてできやしない。ましてや、妹になることなんて。
「可南子ちゃんにすら、私は羨んでいるのよ。情が強いと、自分でも呆れるくらいに、自分でも怖いくらいに」
可南子は一種特別な立ち位地だと、瞳子は理解している。
それは妹でもなくて、ただの後輩でもなくて、勿論親友なんかでもなくて。
ある意味、瞳子も羨んでしまう位地。それが今の可南子だ。
「祐巳の姉でも妹でも、親友でも後輩でも先輩でも、いろんな祐巳を見たいと思うから」
同じだ、と瞳子は思った。
瞳子はもう一度、写真立てに目を向ける。
瞳子のお姉さまは優しい。それは誰もが認めるだろう。妹としては鼻は高いのだけれど、だからといって手放しで喜べる話でもない。
お姉さまは誰にでも優しいのだ。
誰に対しても、分け隔てなく。皆に、同じように親切なのだ。
それに嫉妬しているわけではない。嫉妬とは違う。似ているかも知れないけれど微妙に違うのだ。
哀しい。という言葉が一番近いだろうか。
身勝手だとはわかっているから、余計に哀しくて、言い出せなくて。
誰かに優しくする分だけ、その誰かにお姉さまが奪われていくようで。
なんて贅沢な、そして身勝手な、だけど切実な。
だから誰にも言えなくて。一人で悲しんで。
取らないで。奪わないで。と言いたくても。
お姉さまは私のお姉さまなのだから。そう口に出せば終わってしまうような気がして。
そんな狭量な子だとは思われたくなくて。
それでも、自分一人で秘めておくには大きすぎて。
どうすればいいんだろうかと考えているうちに、グルグル回った想いだけが膨らんで、自分の首を絞めている。
だから瞳子は救いを求める。
お姉さまのお姉さまに。祥子さまに。かつては同じように自分の首を絞めていたであろう人に。自分の首に巻き付いた真綿の解き方を知っているだろう人に。
「貴方なら、とうに気付いていると思っていたのだけれど」
その答えには、どこか面白がっているような響き。
「私よりも、もっと早く気付いていても良かったと思うのよ。貴方は私と違って、祐巳の妹なんだから。私よりもよく見えていたものがあるはずよ」
「見えていたもの……」
呟いた瞳子は、微笑む祥子の視線を追う。
そこにはこの部屋で何度も見たものが。写真立ての中で微笑むお姉さまが。
そのとき、瞳子は突然思い出した。この写真は、武嶋蔦子によって撮られたものだと。
数枚が焼き増しされて、新聞部にも一枚同じものが届けられたはずだった。焼き増しの配布にもきちんと許可を求める蔦子のやり方は、山百合会にはすでにお馴染みのものだ。
「写真を焼き増せば、そこに写っている笑顔の価値は減るのかしら?」
瞳子は写真の中のお姉さまを見る。お姉さまは、いつもと同じ微笑みでそこにいた。
「減りませんわ」
「そう。そういうことよ」
祥子の言葉でも、瞳子の感情は落ち着かなかった。しっくりとこない。何かが違う。何かが違うと瞳子には思えるのだ。
「可南子ちゃん、久しぶりだね」
瞳子の目の前で、別の誰かに微笑むお姉さま。
「うん。由乃さんの言うとおりだと思う」
親しく語りかけ、
「やっぱり乃梨子ちゃんは優秀なんだ」
素直に気持ちを伝えて、
「蔦子さんの写真なら、信用できるからね」
誰からも気持ちを返される。
「お姉さま」
だから、瞳子はそこに自分を放り込みたくなる。
「お茶が入りましたわ」
「ありがとう、瞳子」
ようやく瞳子を見るお姉さま。
――あ
そして、瞳子はようやく気付いた。
祥子お姉さまの言いたかったこと。間違っていたこと。
写真の中の微笑みは、焼き増したところでその価値は消えない。
だけど、お姉さまの微笑みは違っている。
誰かに向ければ向けるほど。その相手が多ければ多いほど。
二人なら二倍、三人なら三倍。
その価値は上がっていく。
「どうしたの? 瞳子」
「え?」
「今、私のこと見てた?」
不思議そうな顔のお姉さまに、瞳子は慌てて首を振る。
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
言いかけて瞳子は、口を閉じた。
「なんでもありません」
首を傾げるお姉さま。
瞳子は、その仕草に思わず微笑んでいた。