猫知恵
瞳子を呼ぶ声がする。
「瞳子ちゃん、ちょっとこっちに来てくれる?」
「瞳子、この書類なんだけど」
「瞳子さま、教えていただけますか?」
上から、由乃さま、乃梨子、菜々ちゃん。
最近、薔薇の館での一番人気は瞳子である。引く手あまたと言うべきか、モテモテと言うべきか。
瞳子自身のお姉さまは当然として、それ以外からのメンバーからも何かと声をかけられる。あまつさえ、接近される。そしてスキンシップされる。
普段通りに接してくるのは今では志摩子さまだけ。
由乃さまなど、瞳子の隣にピッタリと密着して座ろうとするし、下手すると膝に乗せようとしかねない気がする。菜々ちゃんに至っては、油断すると抱きついてきそうな雰囲気がある。乃梨子だってやたらとべたべたしてくるのだ。
「ああ」
愚痴のような話を聞いていた可南子は頷いた。
「そういうことね」
瞳子は言葉を止めると、まじまじと可南子を見た。
「なにか、可南子さんには思い当たる節でも?」
「ええ。ないこともないけれど」
瞳子がにじり寄る。
「教えてくださいます?」
「どうしようかしら?」
ヨーグルト飲料を飲み終えた可南子は、紙パックを器用に遠くのゴミ箱へと放る。ナイスシュート。
「さすが、バスケット部のエースですこと」
「ありがとう」
礼を言って、可南子は言葉を続ける。
「お世辞を言っても、教えるとは限りませんよ?」
「意地悪」
「知らなかったんですか?」
「知ってました、再確認しただけですわ」
「それはそれは。瞳子さんの私に対する認識を正確に調整することができて鼻が高いです」
「高いのは背だけではなかったのですね」
可南子の動きが止まった。ゆっくりと、瞳子の方へ首を回して顔を向ける。
「なにか、言いました?」
「いえ。別に」
「髪型だけかと思ったら、心まで捻れているとは」
「何か仰いました?」
「いえ。別に」
むう、と睨み合う二人。
少しして殆ど同時に溜息。そして視線を外す。
「とりあえず休戦しましょう」
「ええ。本題はこれではありませんわ」
と、言いながらも瞳子は気付いた。
もしかして、可南子も同じ穴の狢ではないだろうか。
そういえば、今日はいつも以上に接近してきているような気がする。
ここは放課後の空き教室。二人きりの空き教室。
可南子との距離はなんだか近い。
「あの、可南子さん?」
「なんですか? 瞳子さん」
「可南子さんが近づいてきているような気がします」
「近づいているんです」
「どうして!」
「多分、黄薔薇さまや乃梨子さん、菜々ちゃんと同じ理由かと」
「その理由が知りたいんですけれど」
「教えません」
「ちょっと待ちなさい!」
「待ちません。私と瞳子さんの仲じゃないですか」
「知らない知らない。いつの間にそんな仲になったのよ」
「まだでしたっけ?」
「まだどころか、欠片もありませんでしたわ!」
「あら」
「あら、じゃなくて」
飛び退く瞳子。可南子は開いた空間を詰めるように一歩進む。
さらに飛び退く瞳子。さらに進む可南子。
「近づかないでくださいますか?」
「逃げないでくれるのなら」
「近づくから逃げるんです」
「逃げるから近づくんです」
これでは埒があかない。話も進まない。なにより、瞳子の疑問は全く解消されていない。
「可南子さん、私の質問に全然答えてないじゃありませんか」
「答えたら近づいても良いのね?」
「答えによります」
「その条件じゃ教えられないわ」
さらに近寄る可南子。
「うん。黄薔薇さまや乃梨子さんの気持ちもわかります」
「なにがですか!」
「だって」
可南子の手が瞬時に伸びて瞳子の手を取る。
「冬は寒いんですよ」
「……黄薔薇さまには菜々ちゃんがいますし、乃梨子さんには白薔薇さまが」
そして自分にはお姉さまが、といいかけて瞳子は口を閉じる。
可南子が奇妙な顔で自分を見ているのだ。
「何の話?」
「何の話って、今、可南子さんが言ったこと」
「……冬は、寒い?」
「だから、人肌が恋しいって言うんでしょう?」
少し間を空けて、ああと呟き、可南子はポンと手を叩く。
「なるほど、そういう解釈ですか」
さらに頷いて、
「確かに、当たらずとも遠からじという感じはしますね」
「違うなら違うと言ってくれれば良いんです」
「人肌とはちょっと違います」
瞳子は首を傾げる。
「瞳子さんは気付いていないんでしょうけれど、瞳子さんはとっても温かいんですよ?」
「は?」
「瞳子さんは、とっても、温かい、んです」
一語一語をはっきりとわざとらしく区切って可南子は言った。
「瞳子さんはきっと、お子様だから体温が高いんです」
聞き捨てならない言葉。
「黄薔薇さまも乃梨子さんも菜々ちゃんも、みんなそれに気付いているんですね。本能的に温かい物に気がついたんです」
「猫じゃないんですから」
黄薔薇さまは年上だ。乃梨子は同じ歳だけど、多少の差はあるだろう。しかし、菜々はどう考えても年下である。
一年生にお子様扱いされる二年生。それも、寄りによって紅薔薇のつぼみである。時期紅薔薇さま候補筆頭である。例え相手が黄薔薇のつぼみであろうとも、これはまずいのではないだろうか。
「実際年齢はこの際あまり関係ないでしょう。瞳子さんより菜々ちゃんの方が大人ですし」
「それは断固抗議いたします」
「黄薔薇さまのいなし方は大人の対応以外の何者でもないと思うけれど」
「う……確かに、それは……」
やや怯んだ隙をつき、可南子は瞳子の手を取った。
「ではそういうことで」
「どういうことですか」
「寒いんです。寒いときには温かい物に触れたいのが天然自然の理です」
「ちょっと、可南子さん!」
「抵抗は無意味です」
力を込めた可南子の腕がしっかりと瞳子の身体を捕らえ……ようとして。
「可南子ちゃん、何してるのかな?」
「……祐巳さま?」
「お姉さま!」
その翌日――
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
「ごき……!? 瞳子ちゃん?」
「ごきげんよう、乃梨子」
「ごきげ……と、瞳子?」
「ごきげんよう、菜々ちゃん」
「……瞳子さま?」
現れた瞳子の姿に、三人はそれぞれ目を丸くしていた。
「ごきげんよう、由乃さん、乃梨子ちゃん、菜々ちゃん」
瞳子の背中にぴたりとついた姿は、他でもない福沢祐巳。
「最近寒くなってきたね」
その一言で、三人は祐巳が全てを知ったことに気付く。
この日から、薔薇の館最強暖房器具は福沢祐巳専属になったのであった。