SS置き場トップに戻る
 
 
主二人
幕間「八神はやてという生贄」
 
 
 訪問先で通された部屋は可もなく不可もなく、ごくごく普通の客間だった。
 男を案内した女が、窓を開けながら尋ねる。
「旅行ですか?」
「短い休暇ですよ」
 それが、男が彼女にかけた最初の言葉だった。
「それではその間だけでも、しっかりお世話させてもらいます」
「いや、それほど手間をかけさせるつもりはない」
 一人が性に合ってます。と男は笑い、彼女は頷いた。
「しかし、お客さんを放っておいたら、私が怒られてしまいます」
「なに、俺からも言っておく。だから、構わないでくれる方がありがたい」
 確かに、構おうとするのはわかる。自分は、この辺りでは珍しい存在なのだろうから。
 なにしろ、英国人だ。一見でも地元の人間ではないとわかってしまう。
 そのうえ、実は地球在住でもないと来ている。
 しかし日本は初めてではないのだ。その証拠にこれだけ日本語をはっきりと話している。
「日本語、お上手ですね」
「この街は初めてだが、日本には何度も来ているよ」
 日本語は充分に話せる。それは通訳魔法のおかげではない。ギル・グレアムは、元々日本語に堪能なのだ。
 それでも、女は執拗だった。
「せめて、案内だけでも」
「案内も結構だ。必要なら自分でなんとかする」
 一応、グレアムは言葉を継いだ。
「必要なら助けを借りるが、それまでは一人にしておいてくれ」
 そこまで言うと、ようやく女は下がろうとする。
「何をしている?」
 女の後ろ、ふすまの向こう、グレアムには見えていない位置から声が聞こえた。
 グレアムには聞き覚えのある声。
「信司さん?」
「何をしているのかと聞いているんだよ」
 姿を見せたのは、グレアムがこの街を訪れた理由の一つ。地元に代々続く名家の一人息子だった。
「あの、お客さんが……」
「世話をしろって言ったはずだよな」
「は、はい、でも……」
「言い訳かい? 無能なやつほど言い訳をするって言うけど、お前がそれだな」
 次の瞬間、グレアムは手を伸ばして女を引き寄せた。
「おいっ」
 信司がグレアムを睨みつける。その足は、さっきまで女の身体があった空間を虚しく通り過ぎていた。
 グレアムが手を出さなければ、女は正面から蹴り飛ばされていただろう。
「余計な真似は止めてくれないか? それは、ここの女だ」
「それ?」
 一瞬、グレアムは自分の日本語の語彙力の問題かと思ったが、違う。念のために密かに発動させているデバイスが、ニュアンスまで正確な翻訳内容を伝えているのだ。
 確実に、この男はこの女性を物扱いしている。
「それ、とは聞き捨てならないな。彼女は物ではない」
「ああ、そういうことか」
 信司はグレアムに目を向けると、大仰に手を振った。
「おい、燕、教えてやれ。お前は誰の物だ?」
 彼女の名前は燕というのだと、グレアムはそのとき初めて知った。
「私は信司様の持ち物です」
「ほら。本人が認めている」
「初耳だな。この国に未だ奴隷制度があるとは」
「知らないよ、そんなことは。だけど、燕が僕の物だということだけは確実だ」
 グレアムは無言で信司を見ている。いや、睨みつけている。
 信司はその瞬間、足下が揺れるような感覚を覚えた。
 確実にグレアムの視線は真正面から向けられている。それなのに、この感覚は……。
 まるで、上下が逆転して、遥か高みから見下ろされているような感覚は。
 そうだ。見下されているのだ。嘲られているのとは違う。ただ、存在として自分より下だと判断されているのだ。
「……お前」
「私はただの客だ。お前たちの関係をどうこう言うつもりはない」
 グレアムはゆっくりと立ち上がる。
 その言葉に嘘はない。現地の人間関係に気まぐれに介入する自由など今の彼にはないのだ。
 この家……佐久良家に代々伝わる家宝。それを調査回収するのが彼の今回の任務であり、久しぶりに日本へやってきた理由だ。
 この世界だけではない。管理外世界に、それと知られぬまま放置されているロストロギアの数は決して少なくはない。そのほとんどはその正体すら明かされることもなく、ただの古代遺物として各世界では認識されている。
 佐久良家に家宝として伝えられている物も例外ではない。
 一族にとってはそれはロストロギアという代物ではなく、ただ古くから伝えられている工芸品に過ぎない。勿論、家宝としての価値は別だ。
 グレアムはできるだけそれを合法的に入手しなければならない。
 害がないとわかれば放置していても構わないだろう。しかし、害を為す可能性があるならば処理しなければならないのだ。
 次元航海中に次元嵐に巻き込まれ、分散した積荷が様々な次元世界に漂着するというのはそれほど珍しい話ではない。
そしてその一つが何も知らない現地民にとって希少品として扱われることもあり得ない話ではないのだ。
 数百年単位で放置されていた品である。最近になってようやく所在が突き止められたのだ。ロストロギアと認定するほどの力が残っているとは限らない。というより、力を失っていると見た方が自然だろう。だからこそ、グレアムは単独でこの地にやってきたのだ。
「しかし、俺が滞在している間は止めてもらいたい。はっきり言って、不愉快だ」
「知った事じゃないね。佐久良家の次期当主は僕なんだから」
「言葉でわからないなら、別の方法を考えるまでだが?」
「はっ。言葉で駄目なら暴力かい。英国紳士の名前が泣くね」
 信司は、手を伸ばし、まるで犬でも呼ぶかのように燕を招く。
「さあ、来いよ、燕」
「黙れ」
 グレアムは信司に対し、拳で応えたのだった。
 
 
  ――その三日後の夜
 
「馬鹿だろ、お前。何のために知り合いの手紙偽装したんだ。これからどうやって内部に入る気だ」
 同僚からのデバイス通信に、グレアムは拳をつきつける。
「あそこで黙っているような男はもっと馬鹿だ」
「……いやいや、他にも方法あるだろが」
「思い浮かばなかったな」
「嘘付け! お前が腹立って殴りたくなっただけだろ!」
「任務は果たした。言われる筋合いはない」
「結果オーライかよっ!」
 結局、調査の結果、家宝となっていた物は放置したとしても実害はないということはわかった。
 ちなみに、次期当主を殴ったグレアムだったが、現当主には却って感謝され、家宝を調べる許しは得られたのだ。
 ただし、さすがに宿泊は断られた。
「……お前な。自分が執務官長だって忘れてないか? 手順はあっさり無視するわ……」
「給与明細を見るたびに思い出してるよ。ちゃんと役職手当が付いてるかどうか確認しているからな」
「副官としてフォローする身にもなれ」
「それは謝るよ。ところで、友人としては?」
 グレアムが問うた。
 デバイス通信の向こうから、含み笑いが聞こえてくる。
「よくやった。あんな男はぶん殴って当然だ」
「さすがは我が友だ、スレイ・ハラオウン執務官」
「俺じゃなきゃとっくに見限ってるよ、ギル・グレアム執務官長殿」
「感謝の印に、クライドにおみやげ買っていってやるよ」
「そいつはうれしいが、急ぐ必要はないぞ、そのまま休暇に突入しろ」
「大きなお世話だ」
「はっ。そうでもしなけりゃ、休暇とらないだろ。上司が休まないと部下だって休めないんだ、少しは考えろ」
「わかった。感謝する」
 グレアムは通信を終えると、すでに敷かれてある布団の上に寝転がる。
 休暇というのはあながち嘘ではない。今回の任務そのものはごくごく簡単な物だったのだ。そして、完了すればそのまま現地で休暇という手筈になっている。
 だからこそ、地球出身の詳しいグレアムがやってきたわけだ。さらには、無理矢理休暇を取らせようという副官の企みもある。
 グレアムは、その行為を素直に受け取ることに決めた。
 
 少しして身を起こす。
 宿屋の主人に、今夜は祭りだと教えてもらったことを思い出したのだ。
 せっかくの休暇である。宿屋で夜を過ごすのもつまらない。グレアムは簡単に身支度を整えて、宿屋を後にした。
 そして、再び燕と信司に出会った。
 あくまでも、燕を所有物として辱める信司の姿にグレアムは本気で怒っていた。
 信司は、人の怒りのわからない男だった。いや、彼に対して本気で怒る者はいても、怒りを継続させて立ち向かった者はいなかったのだろう。
 立ち向かうグレアムを信司は、最初は不思議そうに眺めていた。ついで、燕を救おうとする姿を嘲笑した。その後、取り巻きが全て倒された時に初めて恐怖した。
「な、なんなんだよ、お前。僕に関係ないだろ! 燕に関係ないだろ! なんなんだよ、お前!」
「言っただろ? 俺がここにいる間は自嘲しろって。不愉快なんだよ」
「だから、お前は関係な…」
 それ以上言わせず、殴り倒す。信司は悲鳴すら上げず、倒れてしまった。
「……燕さんとか言ったな。一緒に来い」
 半ば無理矢理、グレアムは燕の手を引いて宿屋に戻った。
 スレイがいれば目を剥いただろうが、構うことはない。現地に干渉はしたが、魔力は使ってないのだ。いや、そもそも自分は地球の出身だ。干渉して何が悪い!
 話は簡単な物だった。
 燕の実家……中島家は、この辺りでは佐久良と並ぶ旧家だという。しかし、中島は没落寸前で、佐久良の援助でようやく名を保っているに過ぎないというのだ。
「名を保たなければならないような、たいした家系でもないんですけどね」
 元々、絶えていたはずの家系だった。幕末の頃、一家の跡取りが神隠しにあって忽然と消えたのだ。
 言い伝えでは、姿を消す少し前に天狗に出会ったと言われているが、そんな言い伝えはどこにでもある。ただ、消えたことに間違いはない。
 そのとき、一人残った娘に佐久良から養子を迎え、家名は残った。それ以来、中島は佐久良には逆らえない。
 そんな家でも、自分の代で絶やすわけにはいかないと燕は寂しく笑う。祖父母や父母の涙は見たくないと。
「一人娘を奴隷として扱われる方がよほど屈辱ではないのか」
 燕はただ、首を振るだけだった。グレアムには何も言えない。
 自分の出自を考えれば、家名を残す意味というのもわからないではないのだ。
「貴方はどう思うんだ。そこまでして名を……自分の家の名を残したいのか」
「そういう風に、育てられたんです」
 自分だけではない、周りもそんな風に自分を見ていた。
 佐久良の家に連れて行かれる中島の娘。ものごころついた時から、それが自分の人生だと教えられてきた。
 時代錯誤だと思ったこともある。反発したいと思ったこともある。逃げようとしたこともある。
 だが……
 自分が中島の娘であるということだけは変えられなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
 それがグレアムの正直な感想だった。
 しかし、と考える自分もいる。
 自分が地球という世界から離れた存在だということはわかっている。
 これは、ミッドチルダにいるからこその言葉ではないのか。燕の軛を外すようなことが自分にできるのか。それとも、安全なところから好き勝手を言うだけなのか。
「少し、一緒にいてくれないか」
 そもそも、どうして自分は彼女を助けようとしたのだろう。
 信司の言葉に反発したから。それだけなのか?
 それとも……
 二人は三日を共に過ごした。
 どうとでもなる。とグレアムは高をくくっていた。
 最悪でも、イギリスへ連れて行くことができる。ミッドチルダが駄目だとしても、イギリスまで信司の手は伸びないだろう。
 燕さえ、家を捨てられるなら。
 
「すぐに戻ってくれ」
 三日ぶりのスレイからの通信に、グレアムは首を振る。
「休暇はあと三日ある。きっちり消化していくぞ」
「緊急事態だ。本部に詰めてくれ」
「君なら対処できる」
「“闇の書”でもか?」
「なに?」
「それでも俺に任せるか? 執務官長殿」
「なんで、そんなものが……」
「それを調べるために呼んでいる。迎えがいるか?」
「必要ない。現地協力者に連絡して転送準備を頼む」
「わかった」
 グレアムは燕に、状況――正体を明かさない程度にぼかした物――を伝える。
「俺は必ず戻ってくる。だから、待っていてくれ」
「……はい」
 
 結果として、“闇の書”はとある管理外世界で消滅した。
 グレアムの帰還は無意味に終わったのだ。
 しかし分析の結果、次に“闇の書”が現れた場合の対処法が確立されることとなる。
 もっとも……それすら無駄だとグレアムは痛感することになるのだが……
 
 ようやくグレアムが地球に戻った時、燕の姿はなかった。
 佐久良家にも、中島家にも。
「中島燕? ……ああ、佐久良の坊ちゃんを裏切ったんだ。仕方ない」
 大同小異。細かい部分は違っていても、町の誰に聞こうとも答えは同じだった。
 グレアムが町を離れてわずか数ヶ月。
 その数ヶ月で燕の痕跡は何も残されていないのだ。それどころか、中島家の者も誰も知らないと言う。
「酷なこと、しなさんな」
 細い糸をたぐった先に出会った一人の老人は言う。
「あんたが嗅ぎ回れば嗅ぎ回るほど、中島の残った者が困ることになる。困らせたくないからこそ、燕ちゃんは消えたんじゃろうに」
 一つだけ、とグレアムは問う。燕の裏切りとは何かと。
 問うた顔を厳しく睨みつけ、老人は答えた。
「腹が大きくなったんでな。捨てられたんじゃよ」
 それは信司の子ではないのか。信司は燕と関係があったはずではないのか。
 少なくとも、グレアムは燕にそう聞いている。
「坊ちゃんには許嫁がいてな。来年結婚する予定じゃった」
 妾になるはずの女が、本妻ができるよりも先に子を産む。
 普通なら、後先を考えない男が馬鹿だ。
 だが……
「……どこかの馬鹿が、抜け道を与えちまった。できた子は、坊ちゃんでなく余所者との間にできた子じゃと」
「……俺は……」
「身に覚えがないとか、あるとか、そういう問題じゃねえ。そう言わせてしまうようなことをしたどうしようもない馬鹿がいた。それだけじゃ」
 老人の目に射すくめられたかのように、グレアムは固まっていた。
 一つ一つの言葉が鈍い刃のようなもので内臓を貫く錯覚。緩慢な、しかし確実な損傷が己の体内に存在すると錯覚するまでに精神に刻まれる。
「そのうえ、その女を捨てて自分一人で出て行った大馬鹿。最低の男じゃ。後始末もできんのに、かき回すだけかき回した大たわけじゃ」
 言い訳など、できるわけもなかった。
 任務。闇の書。管理外世界。
 それが、どうしたというのか。
 中島燕という女の人生に、それがどう関わっていたというのか。
 関わらせたのは自分ではないか。
 状況を悪くしてその場を逐電したと言われてもなんの申し開きもできない。自分は、本当に大馬鹿だ。
 だから、ただ一つだけ。
 ただ一つだけの問いに、グレアムは気力を振り絞る。
「今からでも間に合うのなら、その馬鹿は彼女を救いたいと思うでしょう」
 しかし、老人の言葉はグレアムを打ちのめす。
「迷惑、じゃな。燕にも、儂にも」
 目の前から消えてくれ。
 老人の言外の責めにグレアムはただ、顔を背けるだけだった。
 
 
 そして刻は過ぎる。
 
 
 生協食堂の隅。窓際の席につくと、希美は唐揚げ定食の食券をポケットから取り出した。
 自分の席は確保。後はカウンターまで取りに行くだけなのだが、それが億劫だった。
 カウンター周りの人の多さには未だに慣れない。
 それでも、早く食べなければ午後の講義には間に合わない。
 そして、食券の期限は今日まで。食券を無駄にすることは苦学生の身としては考えられない。そもそもこの食券自体、自費で購入したものではない。
 学生新聞への投稿謝礼としてもらった五枚綴りの食券。その最後の一枚なのだ。徒や疎かにはできない。
 下手をすると、今週の肉類はこれが最後かも知れないのだ。
 心の中で覚悟を決め、人混みに突入しようと……
 突然目の前を横切った白衣の男にぶつかる。
「あ」
「ん?」
 男の疑問とともに、食券が希美の手から離れ、窓へと。
「ウチの唐揚げ!」
「は?」
 男の第二の疑問とともに、食券は窓の外へ。
「鶏肉!」
 窓の外、建物横には勢いよく水の流れる溝が。
 そして、流される食券。
 あまり食堂を利用しない希美は知らないが、この生協食堂では割とよくある事故である。だから、窓際の席は空いていることが多いのだ。 
「あ? やってもた?」
 事情を知る男は頭を掻きながら、笑って希美に向き直る。
「ごめん」
「……ウチの唐揚げ……」
「あの、もしもし?」
「最後の食券……」
「だから、ごめんて」
「……最後のお肉」
「あの、僕、八神光言います」
「……ご飯……」
「奢るわ」
「うん。今のはスペシャルステーキ定食デザートコーヒー付きの食券やった」
「唐揚げちゃうんかいっ! っていうか、そんな食券あるかいっ!」
「ちなみにデザートはモンブランとプティングやよ」
「人の話聞かんかい」
「なに?」
「今、唐揚げ、言うたやろ」
「ふーむ。言うたかもしれへんね」
 希美はニッコリと笑った。
「せやけど、それはただの夢や」
 それが、中島希美と八神光の出会いだった。
 
 
 ウチは、母一人子一人やった。
 お母さんは、いつも言うてた。
「希美。お前のお父さんは、外国の人なんだよ。私が本気で好きになったただ一人の人」
 ロマンティックな話やと思ってたら、
「一回しか会ったことないけど」
「え」
「一回だけ、三日間だけ。その間だけだったけれど、一生忘れられない人だった。初めて、私を人間として扱ってくれた人だから」
 見たこともないお父さんを私は恨んだ。だって、お母さんを捨てた人やから。
 生活が苦しいとか、そんなことはどうでもええの。ただ、お母さんを捨てたことだけは絶対に許さへん。
 お母さんが死ぬ時、一つの貯金通帳を渡された。
 ウチの名義で作ってある通帳には、結構な金額が入っている。それは、母の稼ぎではあり得ない金額だった。
「何年か前から、お金を送ってくれる人がいたの。きっと、お前のお父さんだよ」
 だったら、なんで姿を見せへんの。そんなん、ただの卑怯者やないの。
 ウチはこんなお金、絶対に使わへん。そんな男の送ってきたお金なんか、死んでも使ったらへん。
「駄目だよ。あの人には、あの人の都合があるんだから」
 なんやの、都合って。女に子供まで産ませて、それで放っといて、思い出したようにお金だけ送ってくるんが、なんの都合やの。
 そんなん、ただの身勝手やん。なんて、そんな男好きになったんよ、お母さん。
 三日て……三日てなんやの。そんなんで、何がわかるんよ。
「関係ないんだよ」
 お母さんは静かに言うた。
「何年いたって、私には信司さんの心なんてわからなかった。だけど、あの人の心はすぐにわかったもの」
 あの人ってお父さんやの? 信司って誰やの?
 そんなん、ウチにはわからへん。わかりとうもない。
 そやから、ウチにはお父さんなんかおらへん。ウチにはお母さんだけなんや。
 お母さんがいなくなっても、お金は届けられていた。
 ウチは考えた末、そのお金を使うことにした。使い道は一つ。お父さんの正体を知るため。
 そして、お母さんの故郷の話、中島家と佐久良家の話をウチは知った。
 当時の状況を聞き出して、ようやくわかったことがある。いや、わからなくなったことがある。
 ウチは、本当は誰の子なんやろ? ウチのお父さんは誰なんやろ?
 お母さんを酷く扱った佐久良信司。
 そのお母さんの前に現れて、数日で消えたギル・グレアム。
 状況だけを見れば、ウチの実の父親はどっちでもあり得る。
 ただ、一つ。佐久良信司よりはギル・グレアムの方が、お母さんにはましに見えたんやろということは想像できた。
 だから、お母さんは信じたかったのかも知れない。ウチの父親がグレアムやと。
 佐久良はただ、お母さんを捨てただけなんやと。
 ウチは、お母さんに教えてもらった住所に手紙を書いた。それはイギリスの私書箱。それだけでは相手がどんな人間かはわからへん。もしかすると、イギリスていうのもフェイクかもしれへん。
 返事の代わりにやってきたのは、ウチと同じくらいの歳の綺麗な女の人やった。
 名前は、リーゼアリア。多分、グレアムの娘。
「父様は仕事の都合でこちらに長期間滞在できないので、私が代理にやってきました」
 リーゼアリアは日本語を達者に話す、どこか猫を思わせる美人やった。
「もしかすると、貴方は私の姉妹かも知れません。もし遺伝子検査などをして調べたいのなら、否はない。調査には最大限協力する。そう父様は言ってます」
 きっと、お母さんはそれを求めてない。とウチにはわかってた。そして、ウチにとってもそれはどうでもええことやった。
「ウチには、お母さんがいますから」
 だから、お父さんはいりません。ウチには、必要ない人や。
「そうですか」
 そして、リーゼアリアは笑った。
「私たちにも、母様はいないんです」
 だったら、と言いかけてウチは口を閉じる。あの人にはあの人の都合がある。それがお母さんの言葉やった。
 そやから、そういうことなんや。ウチが干渉する事なんて、何もない。そして、干渉されることも。
 ウチは、これ以上のお金は必要ないと宣言した。
 リーゼアリアは、これまでのお金の返却は必要ないと言う。それに関しては素直に受け取ることにした。それで縁が切れるのなら、別にええと思ったから。 
「それでは、失礼します」
 もう、会うことはないやろね。
 ウチは、リーゼアリアに別れの言葉を告げる。
 
 
 
 その事実を自宅の居間で伝えられた時、リンディは静かに答えた。
「覚悟はしていました」
 提督とは、部下を働かせて自分はデスクに陣取っている。というものではない。上に立つ者が前線にて出こそ、部下を率いることができるのだと。
 それが、亡くなった夫のやり方であることを彼女はよく知っていた。
 だから、覚悟をしていなかったと言えば嘘になる。
 だから平気だと言えば、これも嘘になる。
 それでも、ある意味ではリンディはまだマシだったのかも知れない。そこには、クロノという息子がいたから。
「私が言えることではないかもしれん。だが、何かあればいつでも言って欲しい」
「ありがとうございます」
 責められると思っていた。
 いや、責めて欲しいと思っていたのかも知れない。責めてもらえたのなら、もっと楽な気持ちになっていたのだろう。
 グレアムは、かつて親友だった男の息子の死を、自らその遺族に伝えていた。
 自宅に戻ったグレアムを、リーゼ姉妹が出迎える。
「父様……お休みになった方が」
「父様、休んだ方が良いよ」
 グレアムは何も言わず、ソファに横たわるように座り込んだ。
 リーゼアリアの運んだ紅茶には目もくれず、天井を眺めている。
「私は、何をしているんだろうな」
「父様?」
「結局、大切な者は誰も救えない」
 生涯ただ一人、もしかすると愛していた女。自分の息子のようにも感じていた、親友の息子。
 皆、いなくなってしまった。
「父様は、管理局の歴戦の勇士だよ」
「たくさんの人を護って、救ってきました」
「……見ず知らずの人たちをな」
 グレアムは大きく沈み込むように伸びをした。
「手の届かないところにいる人を、顔も知らない人を救って……自分の知る人は誰も救えない……滑稽だな」
「滑稽なんかじゃありません」
「では、私は弱いんだ」
「父様が弱いわけない!」
「ロッテの言うとおりです!」
 姉妹の剣幕に、グレアムは顔を上げた。
 父様を悪く言う者は例え父様自身でも許さない。
 その、どこかおかしいような剣幕に、ついグレアムは微笑んでしまう。
「そうか。私は弱くないか」
「そうだよ」
「そうです」
「……そうだな……」
 スレイがいなくなり、クライドがいなくなっても、クロノがいる。彼を助けることはできる。
 そして、燕がいなくなっても希美はいる。
 世代は続いているのだ。
「もう一度地球へ行ってくれないか。あの子の様子が直接知りたい」
 名前は出なくても、リーゼたちにはわかる。それが、中島希美の消息であることが。
「次元渡航許可が取れ次第、行ってきます」
「それからもう一つ。これは確定ではないが、君たちに魔法と体術の教師になって欲しい」
 二人は顔を見合わせる。そして、リーゼアリアが頷いた。
「クロノ・ハラオウンですね」
「ああ、クロスケか」
「多分彼は、クライドの後を追うだろう。リンディも止めないだろうからね」
 二人は力強く、頷いた。
 
 
 
 ……こんなのって有りなのか……
 リーゼロッテは心の中で呟いていた。
 これでまた、父様の護りたい人が一人いなくなってしまった。
 彼女の視線の先には、墓が一つ。
 八神(旧姓中島)希美の墓が。
 残されたのは、夫と娘。
 希美の命を奪った事故によって、残された娘は両足が動かせない身体となっている。
 酷い話だ、とリーゼロッテは思う。
 この世界はいつだって、こんなはずじゃないと言いたくなることばかりなのだ。
 護られてしかるべき人に限って、すぐにいなくなる。
 心底から信じているわけではないが、呪われているのかと毒づきたくもなるだろう。
 良い偶然は本当に偶然だが、悪い偶然は常に重なるものなのだ。
 八神はやての成長過程を報告。そのために来たはずなのに、今回の報告は陰鬱なものになってしまう。
 小さく溜息をつきつつ、リーゼロッテは猫の姿になって八神家へと近づいた。
 そして、窓の外からそれを見つけたのだ。
 ……なんで?
 ……なんであんなところに……
 ……なんであんなものが……
 ……どうして……
 ……どうして八神家に闇の書が!?
 戻ったリーゼロッテの報告を聞いたグレアムは、放心したように虚空を見つめている。
「父様……」
 姉妹の呟きも聞こえていないかのように、グレアムの視線は虚空に固定されていた。
「……そうか……」
 ゆっくりとグレアムは立ち上がる。
「理解した」
「父様?」
「理解したよ。リーゼ」
 一度目の邂逅で、私は燕を失った。
 二度目の邂逅で、私はクライドを失った。
 三度目の邂逅で、私は希美を失った。
 何故か。
 それは私の失策だ。私が間違っていたから。
 私は今度こそ、闇の書を始末しなければならない。
 それが、私の運命なのだから。
「一人の人生において三度、闇の書と邂逅する。過去にそんな例があったと思うか?」
 リーゼは答えられない。
「これは復讐だ。燕が私にその機会を与えてくれた。しかし、私は失敗した。だから、クライドはその罪によって失われたのだ」
 燕は娘の死によって私に二度目の機会を与えてくれた。だから、この機会は生かさなければならない。
 たとえ、どれだけの犠牲を払おうとも。
 これが、私に科せられた使命なのだ。
 闇の書は、滅びなければならない。
 何を生贄としようとも。
 そう。
 だからこそ、燕は残してくれたのだろう。主となる者を。
 
 八神はやて。
 
 それは、闇の書を破壊する兵器なのだ。
 だから、私はその兵器を使う。
 燕のため、クライドのため、希美のため。
 グレアムはふと、疑問に感じた。それは、理性と呼ばれるものの仕業なのかも知れない。
 はたして、自分は正しいのだろうか?
「私は間違っているか? リーゼ」
 グレアムは間違っていた。
 魔道師が自分の行動の是非を、何故使い魔に尋ねるのだろう。
 使い魔の答えは決まっているというのに。
 魔道師の意志が固ければ固いほど、使い魔の答えもまた固まっていくというのに。
「いいえ、父様は正しい」
 グレアムは、考えるのを止めた。
 
 闇の書は、滅びなければならない。
 八神はやてという生贄を得ることによって。
 ギル・グレアムの手によって。
 
 
 
 
 
 
感想はこちらに(メールフォームが開きます)
 
 
FRONT         NEXT
SS置き場トップに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送