添い寝
「やっぱり、不公平やわ」
夕食中突然呟いた主のセリフに、騎士一同は顔を見合わせる。
「どうかなされたのですか? 主」
シグナムが箸を置いて尋ねた。いやしくも騎士である。箸を持ったまま主に物を尋ねるなどと言う無礼な真似はしない。
はやてはシグナムの言葉に頷く。
「寝るときのことやけどな…」
はやてはほとんどの場合、ヴィータと一緒に寝ている。ヴィータの部屋もちゃんと準備されてはいるのだが、少なくともその部屋の寝具はほとんど使われたことがない。
「も…もしかして、はやてはもう私と寝るのが嫌なのか?」
早くも目を潤ませて、心配そうにはやてを見上げるヴィータ。
「寝相直すよ! それから、夜中にトイレに行くとき起こしたりしないし、はやてが起きたら一緒に起きるから!」
必死で言いつのる小柄な愛らしい少女のこの姿に、誰があの「白い悪魔」と互角の戦いを繰り広げた戦士を思うだろう。もっとも、「白い悪魔」の方も外見上は可愛らしい少女なのだけれど。
「そんなんとちゃうよ、ヴィータ。そんな悲しそうな顔しとったらあかん」
ホッと胸を撫で下ろしたヴィータは、しかし首を傾げる。
「それじゃあ、一体…?」
「うん。そのことやけど、ヴィータとだけ一緒に寝るやなんて、不公平とちゃう?」
「別に構わないと思いますが」
シグナムが言うと、シャマルも頷く。
「ヴィータちゃんは、はやてちゃんのことが大好きだし」
一瞬、沈黙が辺りを覆った。
「………」
「おい」
ヴィータに呼ばれ、テーブルの下で狼になって座っていたザフィーラが顔を上げる。
「ザフィーラはどうなんだよ」
テーブルの下に顔を入れて、ヴィータは尋ねた。
「聞くまでもあるまい。楯の守護獣としての分を弁えぬ行動など…」
ん。と答えて姿勢を戻すヴィータ。
「ザフィーラも一緒に寝たいって」
「待て、ヴィータ!」
「あはは、あたしは別にかまへんよぉ」
「主まで…」
「本当にいいのですか?」
シグナムの何度目かの問いに、流石にはやては苦笑した。
「くどいで、シグナム」
「申し訳ありません。しかし…」
「そんなに緊張せんでもええのに」
「主のお気持ちはよくわかりますし、嬉しいのですが…、これはやはり…」
「ええんよ。あたしが言うてることなんやから」
「そうそう、はやての言うとおり。シグナムは頭堅すぎるんだよ」
しみじみと、しかし馬鹿にしたようにヴィータが笑って言う。
勿論、それに容易く挑発されるようなシグナムではない。
「…ヴィータは簡単すぎると思うがな」
が、やはりチクリ、と言ってしまう。
「せやけど、こればっかりはヴィータの言う通りや。シグナムは頭堅すぎるで?」
はやての言葉で、シグナムは白旗を揚げた。
「わかりました、では、謹んで添い寝役を務めさせていただきます」
「せやから、それが堅いんやって」
しかしそれ以上は何も言わず、はやては布団の中に入る。
シグナムも、ちょっとばかり頬を染めてその隣に。
「やっぱり、ヴィータと違うて、シグナムは大きなぁ」
「やはりある程度の上背がないと、剣を振るうにも困りますので」
「ちゃうよ? あたしが言っているのは、胸」
「む、胸?」
「そうや。シグナムの胸はやっぱり大きいなぁ」
「あ、主?」
思わず身を逸らしそうになるシグナムだが、今の体勢を思い出して留まる。ここで身を動かせば、さして広くはないベッドから主はやてを蹴落としてしまいかねない。
「緊張したらあかんよ。別に無理に触るつもりはないさかい」
「あ、主なら私は一向に構わないのですが」
「ええよ? 無理せんでも。シグナム、そういうの好きやないやろ?」
「え、ええ。まぁ……」
好きじゃないというより、触られることが好きだという主張がシグナムには理解できない。
まあ、相手によっては、というか、主なら……別に、構わないというか……決して歓迎ではないのだけれど……やはり主は特別なわけで…
「ほな、おやすみ」
「あ、おやすみなさい。主はやて」
めずらしくシグナムは、しばらくの間眠れずにいたという。
シャマルは目を開けた。
あくまでも静かな目覚め。
過去には決してなかった目覚め。
覚えているのは、もう目覚めたくないとの思いだけ。
目を閉じるたびに、次の目覚めを恐れていた。目覚めなければいいと心のどこかで願っていた。闇の書に飲み込まれてしまいたいと願っていた。それが永遠の眠りでも構わないとさえ、思っていた。
目覚めの後に待っているのは苛烈な戦いか、酷薄な仕打ちか、あるいは魂すら削り取る屈辱か。しかし、そんなものはここにはない。ただ、ゆっくりと流れる暖かな時間だけ。
今のシャマルはこの時間が大好きだった。
半睡半覚状態で目を閉じて耳を澄ます。
聞こえるのは鳥の声、新聞配達のバイクの音。そしてつい寝過ごしたときに聞こえる音は、台所での朝食準備。
豊かで静かな平穏。こんな時間を手に入れるためだったのなら、今までの修羅道もただの悪夢だと思うことができる。
唇に自然な笑みが浮かんだとき、突然その唇が強く引き締められる。
違和感があった。何かが自分の上に乗っている。
殺気や嫌な気配は一切感じない。というより暖かい雰囲気。
正体はわかっていたけれど、それでもシャマルはゆっくりと首を持ち上げた。
身体を動かさないように、乗っている者を起こさないように。
そして再び唇は微笑みの形になる。
はやてが眠っていた。シャマルの胸元に甘えるように。
そしてはやてと対になるように反対側にはヴィータが。
確か昨夜ははやてと二人きりになっていたはずなのだけれど。いつの間にかヴィータも来ていたらしい。夜中にトイレにでも行って、つい普段の調子でこちらに入ってきてしまったのだろうか。
自分は闇の書によって人格プログラムを与えられた存在であり、あくまでも擬似的な生命体に過ぎない。その自分に母性本能のようなものがあるのだろうか。しかし今感じているものはそれだ、とシャマルは確信していた。
気の遠くなるような時の流れの中で戦友として、あるいは冷徹な参謀として捨て駒に利用した戦士。そのヴィータに対して、今のような感情を持ったことはない。
戦士としての頼もしさ、勇敢さ獰猛さ、そのどれもが今感じているものとは違う。
これが、愛おしさなのだろうか。
はやてとヴィータの寝顔を見ている自分に、シャマルは心から満足していた。
とは言っても、朝である。そうしたいのはやまやまでも、このままじっとしたままというわけにもいかない。目が覚めれば、朝食を食べるのだ。少なくとも、はやての朝食は絶対に必要なのだ。
(ヴィータちゃん?)
念話で話しかけながら、シャマルはヴィータの頭を軽く揺らす。
「ん……」
(ヴィータちゃん、起きてる?)
「んあ……」
意識はあるけれど起きたくない。そんな状態のヴィータが返事する。
(なんだよ……シャマル)
それでも流石にヴォルケンリッターであった。寝起きであっても念話にはすかさず念話で返事をする。つい声を出してしまうという失態はない。
(シグナムやザフィーラを起こして、朝御飯の準備をお願い)
(え? どうして?)
朝御飯ははやて、百歩譲ってもシャマルが用意するもの、とヴィータは信じている。
(はやてちゃんにもたまには朝寝坊させてあげなきゃ)
(そっか……待て。シャマルは?)
(よく見なさい)
そこでようやくヴィータは目を開ける。そして気持ちよさそうにシャマルの胸を枕にしている主に気付いた。
(あ……はやて。気持ちよさそう)
(ヴィータちゃんは、こんなはやてちゃんを起こせるの?)
(無理)
即答にニッコリとシャマルは微笑んだ。
(それじゃあお願い。この体勢だと、私も動けないし)
(でも、朝御飯なんて作れない)
(この時間なら、パン屋さんが空いてるわ。焼きたてのパンを買ってきて。ついでにコンビニでオレンジジュースでも)
(パン屋さんなんて知らないよ)
(ザフィーラかシグナムが知っているから)
(わかった)
もそもそと起き出すヴィータ。
(行ってきます)
(行ってらっしゃい)
彼の名誉のために一つ付け加えておこう。
ザフィーラは最後まで抵抗したのだ。
「私は主を守護するための騎士です。寝所の護衛ということなら喜んでその任を受けます。しかし、添い寝など……」
「……ザフィーラもしかして、照れてる?」
「ヴィータ! 何を」
「違うの?」
「そういう問題ではない」
「ザフィーラ…そんなに、嫌なん?」
困ったように笑うはやて。
「ですから主」
言いかけてザフィーラは絶句した。
泣き顔。が見えたような気がしたのだ。
「……わかりました、主はやて」
「あ、狼は無しやで」
一瞬、ザフィーラの息が詰まったような音がした。
さすがは主、とザフィーラは心から思ったのである。
「流石におっきいなぁ」
夜、はやては嬉しそうな顔で、きちんとパジャマを着せられたザフィーラの横に寝そべっている。
「主を護るために作られた身体です」
「うん。頼もしいで」
「ありがとうございます」
どうしても、会話は堅い。というより、ザフィーラは必要以上に緊張している。
単なる添い寝など、長年の転生の中でも初めてのことなのだ。どうすればいいのかなど全くわからない。
「あのな」
「なんでしょうか」
「今からのこと、皆に秘密にしてくれへん?」
「皆…というと、アルフたちですか?」
因みにこれがシグナムだと「テスタロッサたち」、ヴィータだと「なのはたち」となる。
「うん。シグナムにも、シャマルにも、ヴィータにも」
「主の命とあれば」
「おおきにな」
「何をなさるのですか?」
ザフィーラには想像がつかないと言えば半分嘘になる。かつての時代にも、その時の主が女性であれば……いや、男性であっても……何度もあったことだ。とはいえ、それを今の主が望むとはとうてい思えない。
その意味で、ザフィーラにはこれから何が起こるのか予想が付かなかった。
はやてはザフィーラの問いには答えず、無言で頭をザフィーラの厚い胸板に乗せる。
「うん……」
「主?」
「動いたらあかんよ」
「は、はい」
しばらくの間、二人とも何も言わず、ピクリとも動かず。ただ、時間だけが過ぎる。
はやてはいつの間にか眠っていた。
それに気付いたとき、同時にザフィーラは異変に気付く。
胸元が濡れている。正確には、はやての頭の乗っている辺りが。
身体を動かすことなく首だけを動かして視線を向けると、目を閉じたはやての顔が見えた。
「!?」
はやての頬に涙が流れているのが見える。
声をあげかけた瞬間、はやての寝言がザフィーラの動きを止めた。
「…お父さん…」
ザフィーラは頭の姿勢を戻し、天井を見上げた。
父、という存在など知らない。自分だけではない、ヴォルケンリッターとはそういう存在なのだ。
だが、はやては違う。父がいて母がいて、生まれてきたのだ。
そして、今のはやての歳ならば、この世界ではまだ父母から離れていないはずなのだ。しかし、事実としてはやてはもっと小さな時に父母を失っている。自分たちに会うまで、はやては独りぼっちだった。
……主よ、無礼をお許し下さい。
心の中でそう呟くと、ザフィーラは空いた手をはやての頭に置いた。
「おやすみ、はやて」
頭を不器用に、しかし優しく撫でると、はやてが笑ったようにザフィーラには思えた。
翌朝、ダイニングルームに入ろうとしてシグナムは固まった。
「はい、パン焼けたで」
「主、せめて食器を運ぶのは私が」
「ええからええから、ザフィーラは座っとき」
「し、しかし」
「ええって、はい、コーヒー」
「あ、ありがとうございます」
珍しく人型で座っているザフィーラと、かいがいしく世話を焼いている主。
いや、食事の用意をしている主の姿は珍しくはない。しかし、何かが違う。何かが決定的に違うのだ。
これは、主として騎士の面倒を見る、という雰囲気では断じてない。
「まぁ」
「ありゃ?」
遅れてきたシャマルとヴィータも目を丸くしている。
この状況に一番近いのは、「単身赴任でしばらく顔を見てなかったお父さんが久し振りに帰ってきて喜んでいる、お父さん大好きッ娘」なのだが、当然その辺りの機敏がシグナム達にわかるはずもなく。
(ザフィーラ、何があった)
シグナムの念話に、ザフィーラは即座に答えた。
(すまん。秘密だ)
(なにっ!?)
(主に、秘密にするように言われている)
(まさか、ザフィーラ、貴方……)
シャマルの静かな念話。
(……シャマル。妙な勘違いをしていないだろうな)
その後、三人の妙な視線にザフィーラは辟易したという。