天使の歌声
歌が聞こえる。
奈緒は目を閉じて賛美歌に聞き入っていた。
こんなもの、今までは聞く趣味なんて持っていなかった。ただ、教会でシスターなどをやっていると、嫌でも耳に入ってくる。
そんなある日、気が付くと、これはこれで悪くないと思っている自分がいる。
そう。悪くない。
だからといって自分で歌うつもりまではない。
映画みたいに、ウーピー・ゴールドバーグの率いる聖歌隊なら悪くないかも知れない。あんな聖歌隊なら参加してみたいと思う。
だけど、幸か不幸かここにいるシスターは自分と深優だけ。シスター紫子は産休真っ直中だ。ウーピーなんていない。歌っているのは女優とは似ても似つかない、愛らしい小学生。
賛美歌というよりも、アリッサが歌っているというのが重要なのかも知れない。
しばらく目を閉じて聞き入っていると、歌声が止んだ。今日の歌はおしまいだろうか。
アリッサの歌のおかげか、最近の賛美歌の時間には説教や清書朗読よりも人が集まる。その中には舞衣や命、なつきや静留の姿もある。
どうも、あのメンバーの前では気恥ずかしい。この自分が、賛美歌に、アリッサの歌声に聞き惚れている姿を見せてしまうのは気恥ずかしい。
だから奈緒は何かと理由を付けては、賛美歌の時間に教会に近寄らないことにしている。とはいっても、本当に近づかないでいると肝心の歌が聞こえない。だからこうやって、教会の裏手に回っているのだ。
裏手には割と木が多く、奈緒のちょっとした秘密の憩い場所にもなっている。
密かに置いてある椅子に腰掛けていた奈緒は、立ち上がると伸びをした。
そろそろ戻らないといけない。あまり姿を見せないままでいると、アリッサが心配して深優に探させるのだ。アリッサにとっては、自分も教会の一部であるらしい。
そう考えると、何となくくすぐったい想いがする。
そんな自分に苦笑しながら、奈緒は憩いの場所から出ようとする。
「あれ?」
思わず声が出た。
それほど離れていない所に見慣れた姿が見える。何故か木の幹に半身を隠してはいるが、それは紛れもない深優だ。
「何してるの、深優?」
深優が奈緒を見た。
「……結城奈緒?」
「珍しいじゃない、アンタがこの時間にアリッサの傍にいないなんて」
一歩踏み出した奈緒を制する冷たい声。
「それ以上近づくな」
「は?」
「結城奈緒、それ以上私に近づくな」
「アンタ、何言ってるの?」
奈緒には、深優が何か荷物を持ち直したように見えた。そして、深優はそのまま背後に跳び下がっていく。
「なんなのよ、あいつ」
鼻白みながら、それでも奈緒は深優の立っていた位置まで駆け寄る。
足元に妙な物が落ちていた。いや、これは落ちているという形容でいいのだろうか。
地面に広がっているのは、見ようによっては真新しい血痕にも見える。ただ、所々黄色や白の粘液が混ざっている。
気味の悪さに、奈緒は一歩引いた。
妙に見覚えがある。
ああ……。
傷口だ。傷口が化膿したときの皮膚表面。
嫌な連想に顔をしかめ、奈緒はその場を後にした。
「あれ? 深優?」
自分でもおかしな表情をしているに違いない、と奈緒は思った。
「どうかしたのか?」
「あ、いや…別に」
深優が当たり前のようにアリッサの隣に立っている。
「…深優、ずっとここにいたのか?」
「ええ」
答えたのはアリッサだった。
「深優はずっと、アリッサが歌っている間、見ていてくれた」
「そう……」
奈緒はそれ以上聞かなかった。
裏手で見たのが深優に間違いないという確信はある。そもそも、あの跳躍力はHiMEでなければ深優しかいない。そして、HiMEの力は自分を含めて皆失っているはずだった。
少なくとも、アリッサのいる前では質問は控えよう。奈緒はそう考えていた。
アリッサに余計な心配を与えたくはない。どんな理由があるにしろ、どんな過去があるにしろ、目の前にいるのはこの歳で父も母も失った少女だ。保護されるべき存在だ。例え、かつての自分がそうでなかったとしても…いや、だからこそ、この少女は保護されるべきだろう。少なくとも、傍にいる者は気を配らなくてはならない。
誰にも言わない、ほんのちょっとした決意。それを奈緒は心に秘めていた。
「シスター奈緒、話がある」
逆に深優がそう言ったとき、奈緒は即座に頷いた。何か奇妙なことがこの辺りで起こっているとして、深優がそれに気付いているのは当然だろう。アリッサの周囲で起こること全てに、深優は気を配っているのだ。
アリッサを部屋に送り届けると、深優は奈緒を懺悔室へ招いた。
「シスター二人で懺悔室とは、趣味のいいジョークだね」
「私はジョークなど…」
「なんでもないよ。それで、話って?」
「お嬢様が歌ってらっしゃる間、お前はどこにいた?」
やはり。深優は何か知っている。あそこにいたのが深優本人なのか、あるいは別の者なのか。
「教会の裏手にいたよ」
言うと、奈緒は懺悔室の扉を開いた。
「着いてくるんだね、見せたいものがある」
「遠いのか? あまり時間がない。もうすぐ、お嬢様のおやつの時間だ」
「……。時間はかからないと思うよ?」
事実、裏手に回るのにそれほどの時間はいらない。
「アタシはここにいた。そのとき…」
深優を見かけた位置を示す。
「ここに、アンタのそっくりさんがいたんだけどね」
「私に似ている者がいたのか」
「そう。…それで、一つ思いついたんだけど…」
深優は何も言わず、辺りを調べていた。奈緒は、そんな深優にそのまま話しかけている。
「ジョセフ・グリーアの作ったアンドロイドが、アンタ一人とは限らない訳よね?」
「そういうことになるな。だが、シスター奈緒、一つ忠告しておく」
「まさか、この期に及んで口止め?」
「この場所には二度と近づくな。少なくとも、お嬢様が歌っている間は絶対に近づくな」
「はぁ?」
「それだけだ」
「ちょっと、深優」
「私の用件は終わった。戻らせて貰う。お嬢様のおやつの準備をしなければならない」
アリッサのために戻るという深優を止められるわけもなかった。
「聞きたいことがあるのよ」
単刀直入にまず、そう言った。
深優はこちらを見ている。いや、これは深優ではない。深優と同じ姿をした別のものだ。
「最初に言っておくけれど、アタシは深優の正体を取っている。シアーズに作られたアンドロイドだということはもう知っている。だから、同じタイプのアンドロイドがもう一体あったとしても不思議でも何でないのは理解できる」
深優は動かない。動けないのか、それとも漏れ聞こえてくるアリッサの歌声に聞き入っているのか。表情からは何もわからない。
「アタシが知りたいのは一つだけ。貴方の目的」
深優は答えなかった。奈緒を完全に無視しているようにも見える。
「貴方がなにも物騒なことを考えていないっていうんなら、アタシにも別に他意はない。ただ、安心したいだけよ」
「今の私に、目的などない」
「…じゃあ、どうしてここにいるの? 隠れてアリッサの声を聞きに来たとでも言うわけ? アリッサだって深優の正体は知っている。同型のアンタが現れたって、気にするような子じゃないと思うけど?」
「私が聞いているわけではない」
「じゃあ…」
風が吹いた拍子に、木の実が落ちる。深優は手元に抱く何かを護るように姿勢を変えた。
木の実は深優の肩に当たり、地に落ちる。
奈緒は絶句した。
二つのもの。
一つは、今まで木陰に隠れていた深優の身体の一部。
外装が無く、内部の機械が剥き出しになっている。
「私はシアーズから逃げた身だ」
その言葉は奈緒には届かなかった。
奈緒は、目の前に見たものに震えていた。
そして、それがわかってしまう自分を恨んだ。
目端の利く自分を。それに気付いてしまう自分を。
もっと自分が鈍ければいいのに。もっと、気が付かなければいいのに。
二つ目のものは当分脳裏から消えないだろう。
それは……生きていた。
紛れもなく、生きていた。
奈緒の知る、ある一人を醜悪に戯画化したような姿で、それは深優に抱かれていた。
奈緒は知っている。
遺伝子操作で無理矢理にHiMEの力を持たされた少女を。
アンドロイドが複数台あってもいい。予備は必要なのかも知れない。
だから、同じなのだ。
遺伝子操作を受けた少女にも、予備は必要だったのだ。でも、人工のHiMEとなるのはただ一人でいい。チャイルドのアルテミスとなった人工衛星はただ一つなのだから。
「違うよね…」
奈緒は呟いていた。
「そんなわけ、ないよね」
悪い冗談だ、と理性が告げていた。
仮に予想が全て当たっていたとしても、この状況はない。
邪魔なら、殺せばいい。消せばいい。排除すればいい。
こんなのは違う。無惨すぎる。
それでも、語り始めていた深優の物語から、奈緒は耳を閉じることができなかった。
シアーズから逃げた。
追求は受けたが、逃げるだけなら何とかなるはずだった。
行く先など無かった。希望はただ一つあった。
アリッサ・シアーズなら判ってくれる。自分の状況を判ってくれる。
その想いで逃げた。ただ、アリッサの元へと。
追求が何故か弱くなった隙に、風華学園にたどり着いた。だが、そこで見たのはシアーズの敗北だった。シアーズ軍はHiMEに敗れたのだ。
そして、アリッサの死と深優の自壊。
全てが終わったかに見えた。
シアーズから連れ出した“それ”を抱きしめたまま呆然としていたところに、彼女が現れたのだ。
「貴方のお力をお借りしたいのです」
もう、力などない。ましてや、他人に貸す力など。
「失礼いたしました。正確に言い直しましょう。貴方の身体の部品をいただきたいのです」
追求されている間に、外装の半分ほどは破壊されている。今さら無傷の外装など無い。ならば必要とされているのは内部か。
「グリーアのテクノロジーが欲しいなら、既に一体は手中に収めているだろう」
「はい。ですから、貴方の部品をいただきたいのです。彼女を…深優さんを修理するために」
「無意味です」
「いえ。深優さんは再び、アリッサを護ることができます」
「お嬢様は…」
「深優さんと共に引き上げ、治療中です。時間はかかるかも知れませんが、命は取り留めるでしょう」
「お嬢様は…」
「怪我や病気は治せますが……」
無情。アンドロイドすら、そう感じる言葉があったのだ。
「元々の寿命が短く設定された者を救うことは、不可能です」
選択肢など、最初から無かったのだろう。長らえる者の傍に侍る者こそ、長らえるべきなのだ。
儚い者の傍には、儚い者がいればいい。儚くなればいい。
「悪いようにはいたしません」
そう言って、風花真白は微笑んだ。
ノックもせずに、乱暴にドアを開ける。
書き物をしていた深優が、顔を上げてこちらを見た。その顔が少し驚いているようにも見える。
「シスター奈緒、顔色が悪いようです」
自分の顔色が蒼白ななっているだろうことは、簡単に推測できた。
「シスター奈緒…」
皆まで言わせず、奈緒は手をあげる。
「お願い……深優。私の質問に答えて。全て、YESと答えて」
「そんなことは無意味です。ですが、聞くだけは聞きましょう」
「…アンタは一番最初に作られた深優・グリーアではない」
「YES」
「アンタの前には、他の深優・グリーアがいた」
「YES」
「深優・グリーアは、シアーズによって複数作られた」
「YES」
「でも……アリッサはただ一人だった」
間髪入れず返ってきていた答が止まる。
「アリッサの姉妹なんていない」
答えて。奈緒は心の中で叫んでいた。
YESと答えて! 深優!
「アリッサと同時に作られた子なんていない!」
返事はない。深優は沈黙を守っている。
「遺伝子操作を受けた子は、HiMEとして選ばれた子だけが延命処置を受ける!」
深優の返事はない。
「答えなさいよ! YESって答えなさいよ! アリッサの姉妹なんていないって! アリッサはただ一人だったって! アリッサと一緒に作られた子なんていないって! 延命処置を受けられずに細胞から壊れて死んでいく子なんていないって!」
いつの間にか、深優の姿は消えていた。奈緒は一人で部屋に取り残されている。
それでも奈緒は感謝していた。深優がYESとは答えなかったことに。
あるところに、アンドロイドと少女がいました。
少女は、その命を短く全うするように定められました。
アンドロイドは悲しみ、少女を連れて逃げました。
だけど、少女の命は長らえません。
少女が生きる限り、アンドロイドは共にいると約束しました。
二人は今も、共にいます。
奈緒は、祈っていた。
ただ祈ることしかできない。
アリッサの歌を二人がいつまでも聴き続けられるように。
もし、本当に神様がいるのなら。
もし、神様がいないとしたら…
それでも、祈ることしかできない。
「シスター奈緒?」
アリッサの声。
「祈っているの?」
「ああ…」
振り向けなかった。奈緒はアリッサをまともに見ることができなかった。
「アリッサは、祈らない」
そう言いながらもアリッサが近づいてくる気配を、奈緒は背中で感じていた。
「その代わりに歌うの」
静かに、声が響く。
賛美歌が響いた。
…この子は知っているんだ。
何故か、奈緒は確信した。
涙が止まらなかった。