ご飯を食べたら
日が高くなってから目を覚ますと、財布が無くなっていた。
慌てて探すと携帯すらない。
携帯にはロックを掛けているので悪用される心配はないけれど、財布は困る。
しかし、心当たりは全くない。
ふと、思った。
命なら匂いで探せるかも知れない。いや、命なら本気でやりかねないような気がする。命の鼻は犬並みだ。
早速命と鴇羽の部屋へ行ってみると留守だった。仕方なく自分の部屋に戻る。
そこでようやく、机に置いてあるメモに気付いた。
「奈緒ちゃんへ。実家に戻るのでしばらく帰りません。あと、よろしく」
どうやらあおいはしばらくいないらしい。
一人か。
奈緒は大きく息を吸った。
以前に比べると、一人でいることにあまり意味がないような気がしている。今までの自分なら、あおいの不在をそれなりに喜んでいただろうに。
今は、何となく寂しいような気もする。ほんの、少しだけ。
「別にいいけど」
母親に会いに行くにしても、まだ面会時間は限られている。面会時間というものが存在するだけでも喜ぶべきなのだ。贅沢は言わない。面会時間が指定されているということは意識があるということなのだから。
とにかく何か食べよう。
そう思って奈緒は冷蔵庫をあけた。
見事に何もない。
訂正。マヨネーズがある。
……あたしは玖我じゃないんだ。マヨネーズだけあっても困る。
戸棚を探ってみても、インスタントラーメンの一つも出てこない。
外へ出たとしても、財布はない。
たかれる相手……。
まず、鴇羽はいない。
すると、深優か。深優なら教会にいる。
「お断りします」
「なにそれ」
「現金の貸与は校則で禁止されています」
ああ。確かにそんな校則があったような無かったような。
「じゃあ、何か奢ってよ」
「貴方に与える食料はありません」
「どケチ!」
「そう言われても、食料そのものがありません。私は基本的には食物の摂取を必要としませんので」
「アンタはそうかもしれないけれど、アリッサがいるじゃない」
「お嬢様は、初等部のお泊まり遠足に出かけておられます」
理事長は留守だった。菊川も日暮もいない。HiME関係者の在学生は皆いない。
背に腹は替えられない、と訪れた玖我もいなかった。
空腹を抱えて、こうなったら久し振りに美人局でもやってやるかと思ったけれど、エレメントもチャイルドもない身で失敗すればそれこそ大変なのでやめておく。
どうしたものかと空腹を抱えながら歩いているところで、藤乃に出会ったのだ。
静留と向かい合って夕食。
なんでこんなことに。
奈緒は悩むけれど、悔しいことにご飯が美味しい。かって男達に奢らせていた高い店など足元にも及ばない。
恐るべし、藤乃静留。冷蔵庫の中にあった食材(静留談)で適当に作ったおかず(静留によれば「おばんさい」)のはずなのに。
「おいしおすか?」
「う、うん。ま、まあ、食べられないこともないわよね」
憎まれ口を叩いては見ても、食べっぷりでわかってしまうのであろうことがとっても悔しい。かといって、食べずに我慢したり、少量で済ませるには美味しすぎる。
なつきはこれを毎日食べているのか。
……太るわよ、玖我。
だけど、静留のことだから絶対にカロリーとかその辺りのことはバッチリと計算しているのだろう。
いや、食後の運動をきっと二人でごにょごにょ…
……何考えてんのよ、あたしってば!!
慌てて妄想を振り払うと、ご飯に神経を向ける。
「やっぱり、しっかり食べてくれはると作った甲斐がありますわ」
「そりゃ、どうも」
奈緒は、言いながら箸を止めない。正直なところ、昨日から何も食べていないのだ。そこにこの食事である。正常な育ち盛りの食欲が止まるわけもない。
「なつきのマヨにも困ったもんどす」
愚痴をこぼす静留というのも珍しい。
「そやけど、無闇に止めるだけというのも芸があらしませんし」
これだけのものが毎食用意されているというのにマヨラーを止めない玖我は、それはそれですごいかもしれない、と奈緒は思う。
「結城さん。よかったら、これからもたまにはご飯食べに来よし?」
「誘いは……。いや、ご飯の誘いは嬉しいけれど」
奈緒はじっと静留を見る。
「下心は御免だからね」
「ない、言うたら嘘になりますけど」
にっこり笑ってのとんでもない発言に、思わず奈緒は椅子を引いた。
「ふ、藤乃! アンタやっぱり!」
「落ち着きよし。うちは無理矢理なんて好きやないから。結城はんさえその気にならへんかったら慌てることはありませんえ?」
「……え?」
奈緒の表情が苦笑と嘲笑を混ぜたような微妙なものになる。
「なんか?」
「アンタねぇ、玖我を無理矢理……」
「あれは、HiMEの力に当てられとったときです。あのときは、ウチだけやのうて雪之はんも結城はんも、皆どこかおかしかったんと違いますやろか?」
胡瓜の漬物を小気味いい音を立てて囓りながら、奈緒は考えた。
確かに、静留の言うことにも一理ある。皆、あのときはどこかおかしかったのだ。
「今のウチは、そんな風にして誰かをモノにしようなんて、少しも思うてません」
そやけど、と続けて言うと、静留は怪しく微笑んだ。
「かいらしすぎるおなごはんは、話が別どすけど」
「藤乃ッ!!」
思わず叫んだ奈緒の口から胡瓜の欠片が飛ぶ。とってもはしたない。
しかし一瞬の間を空けて、静留は声を立てて笑った。
「冗談どす。そないなことしたら、なつきに本気で怒られてしまいますわ」
「……アンタがそういうこと言うと、シャレになんないから。自覚してよね、ホンットに」
「本気にしてくれても、ウチは一向に構いませんけれど」
「だから、アンタのそういうところが…!」
立ち上がりかねない奈緒に、あくまで静留は微笑んだまま。
「なんやろ? ウチのそういうところが、なんですの?」
奈緒はそのまま静留を睨みつけていたけれど、やがてあっさりと椅子に座り直す。
そして小さな声で、
「……藤乃の馬鹿」
「なんか、言いました?」
「なんでもない。それより、お代わり」
「はいはい」
食べ終わると、これまた絶妙のタイミングでお茶が出る。
「結城はん?」
「なに?」
「お風呂入ります?」
「は?」
「良かったら、泊まっていきはる?」
「えーと。あたしは今、身の危険を感じているんだけど」
ずずーっと、静留は自分のお茶を飲み干した。
「その本能は、正解どす」
「は、入らないッ! 泊まらないっ!」
「あら、残念」
確かに無理矢理ではないけれど、これはこれで恐い。
藤乃の微笑みがたまらなく恐い。と奈緒は心の底から思った。
そして数日後――
それなのに、どうしてまた自分はここでご飯を食べているんだろう。
奈緒は心の中で頭を抱えていた。
……しょーがないじゃない。藤乃のご飯、マジで美味しいんだから。
……玖我がいないときに来るのは、たまたまというか…玖我がいると互いに気を使うからだし。
……別に、ご飯以外のことなんて考えてないし。うん、絶対に考えてない。
チラッと静留のほうを見て、視線に気付いた静留がこっちを見ると慌ててご飯に視線を向ける。
……別に、意識なんてしてないし。
……違うし。
……誘われてもお風呂なんて入らないし。
……入ったとしても、お泊まりなんてしないし。
……泊まっても、変なことなんてしないし。
……あれ?
奈緒は顔を上げ、静留と視線があった瞬間、真っ赤になってご飯を掻き込み始める。
「うふふふふ。奈緒はん、ホンマにかいらしな」
すとん、と何かが堕ちたような気がした。