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ワタシノ傷痕
(1)
 
 
 
 廊下をいつものように歩いている遥。その後に従う雪之。
 執行部長の定例の巡検だった。
 そしてこれもまたいつものように、校則違反の生徒達と一悶着起こしたあげく、二人は執行部室に戻ってきた。
「ホンットに、一度徹底的な綱紀粛正の必要があるわね、これというのもあのぶぶ漬け女が甘いせいよっ!」
「遥ちゃん…」
「どうしたの? 雪之」
 声が重い。
 声を聞くのがとても重い。
 遥の声なのに。大好きな、遥ちゃんの声なのに。
 どうしてこんなに。
「ううん、なんでもない」
「雪之? もしどこか調子が悪いのなら…」
「大丈夫!」
「雪之?」
 失敗だった。遥はより怪訝な顔になっている。
 それはそうだろう。雪之に触れようとした瞬間、素っ頓狂な声を上げられてしまったのだから。
「大丈夫。本当になんでもないの、遥ちゃん」
「本当に? 雪之、あまり無理しないでね」
 遥が肩に手を置いた。
「貴方がいないと、困るんだから」
「うん。判ってるよ、遥ちゃん」
 とりあえずの仕事が終わると、それぞれの教室へと二人は戻っていく。
 本当に大丈夫なのかと心配する遥を安心させると、雪之は教室に向かって歩き始めた。
 クラスへ入ろうとすると、隣のクラスへ入ろうとした玖我なつきとすれ違う。
 見てはダメ。
 雪之は自分に言い聞かせる。
 それが無駄だと知りつつ。
 なつきに向けられた自分の視線を、雪之は想像したくなかった。それは、ひどくおぞましいものだっただろうから。
 
 
「なあ、舞衣」
 お弁当を抱えた命を連れた舞衣を、なつきは引き留めた。
「どうしたの? なつき」
「ちょっと聞きたいんだが」
「なに?」
「…雪之のことなんだが、最近おかしくないか?」
「菊川さん? そうかなぁ。別に? 私は気付かないけど?」
「さっき、休み時間にすれ違ったときなんだが…、ものすごい顔で睨まれたぞ。何かあったのかと思ってな」
「それは……会長さんのせいじゃないかなぁ」
「静留の? なんで雪之が静留の…」
「だって、会長さんと珠洲城さんの諍いは有名じゃない」
 諍い、というよりも遥が一方的にチャレンジして一方的に負けているようにしか見えないが。
「珠洲城さんと仲良しの菊川さんは、そりゃあ面白くないんじゃない?」
「私は静留ではないぞ」
「会長さんと一番仲がいいのはなつきじゃない」
「う…それはそうだが…」
「まあ、菊川さん、理由も無しに他人を睨みつけるような人じゃないと思うけどね」
「だから、何かあったのかと思って聞いたんだ」
「さあ。少なくとも、教室では何もなかったわよ」
「そうか…。引き留めて悪かったな、舞衣」
 
 
 その頃、遥と雪之は執行部室で差し向かいでお弁当を食べていた。
「なにかいい方法はないかしら……」
 食べながら、遥は綱紀粛正の方法を考えているらしい。
「遥ちゃん、食べながら喋るとご飯粒が…」
「よく言うじゃない、口角飯を飛ばすって」
「口角泡を飛ばすだよ…」
 ハンカチを出すと、そっと遥に手渡す。
 受け取った遥は、それで口の回りを拭っていた。
「とにかく、食べ終わったら巡検よ。ぶぶ漬け女が手ぬるい分は、私たちがしっかりしないとダメなのよ」
「うん。遥ちゃん」
「手を洗ってくるわ。雪之、さっさと食べちゃいなさい」
「うん」
 手早く自分のお弁当箱を片づけると、遥はさっさと部屋を出て行ってしまう。
 残った雪之も、三分の一ほど残ったお弁当をそのままにして片づけ始める。そして、机の上に置かれたままの、遥の使ったハンカチに目をやる。
「遥ちゃん…」
 開いたハンカチに、こびりついたご飯粒。
 小指を伸ばし、金箔をはぎ取るような繊細さでに刮げ取る。
「遥ちゃん…」
 一粒を、まるで仙人の丸薬を授けられたかのように大事に、そして愛おしく、唇へと運ぶ。
 粒を口内に収めると、広げたハンカチをまるでまるでマスクのように口元へ。
 雪之の舌が、くすぐるようにハンカチを舐めていた。遥の唇の感触を、少しでも味わおうというように。
「失礼しますえ」
 聞き覚えのある声と共に扉が開く。
 雪之は咄嗟にハンカチをポケットに押し込んだ。
 遥ではない。それなら足音で遥だと判る。いや、誰であろうと、この部屋に入ろうとすれば足音で判るのだ。
 元々、足音を忍ばせようとしない限り。まさか、いくら静留が人間離れした才媛だとは言っても、足音を全く消すことなどできない。
 気が散っていたのだろう。こんな瞬間を、よりによって彼女に踏み込まれるなんて。
 雪之は自分の迂闊さに溜息をつく。
「あら、菊川はんどしたか」
 藤乃静留。生徒会の会長。
「珠洲城はんもここにいはると思うたんやけど、菊川はん一人みたいどすなぁ。なあ、菊川はん? 珠洲城はんは、ここに来ますんやろか?」
「は、はい。もうすぐ戻ってくると思います」
「そしたら、ここで待たせてもろても、ええやろか」
「え、ええ。あ、椅子は…」
「ええよ。そないに気ぃ使わんでも。自分の座る椅子ぐらい、自分で出しますよってに」
 部屋の隅の椅子を選ぶと、静留は其処に座り込む。
「ウチのことは気にせんと、続けてくれてもええんよ?」
「続けて…?」
 雪之は喉がからからに渇いたような錯覚に陥った。
 まさか……。
「うふふふ。菊川はんも、ウチに負けず劣らず、情の恐い人やね」
 見られていたのか。
「ハンカチには、そんな使い方もあるんやね。おおきに勉強になったわ」
「……貴方には、そんな風に言われたくありません…」
「あら、なんでやろか?」
「想い人を騙して、辱めて、それでも結局は自分の思うままにしてしまったような貴方には」
「……そう言われてみれば、そやね」
 静留は、立ち上がると椅子の位置を変えた。
 雪之に向かい合うように座り直す。
「そやけど意外やわぁ。ウチがなつきとしているようなこと、菊川はんにはそないに羨ましゅう見えたんやろか?」
「…していること……」
「菊川はんが、珠洲城はんとしたいと思うてるようなことどす」
「なっ……」
「ほら、想像してはる。ふふっ、雪之はんって呼んでもええやろか? 赤うなった雪之はんもかいらしなぁ」
「からかわないでくださいっ、私は貴方とは違います!」
「何が違うのん?」
「私は貴方みたいなことはしていません!」
「したくない、とは言いませんのやなぁ」
 ニッコリと微笑む静留。
「せやったら、自分も珠洲城はんに、ウチがなつきにしたようなことと同じこと、しはったらどないですのん?」
 雪之の手元で何かが壊れる音。
 無意識に握りしめていた割り箸が折れた音だった。
「そんなこと…」
「恐いんどすか? 珠洲城はんに嫌われるんがそんなに恐いんどすか? ウチも、あの頃は同じようなことが恐かったけどな、それでもなつきは、ウチを受け入れてくれました。珠洲城はんは、同じように雪之はんを受け入れてくれるんやろか?」
「やめて!」
「それは構いませんけど……」
 椅子から立ち上がると、静留は呆れたように雪之を見下ろす。その視線は雪之から、ポケットからはみ出ているハンカチへと。
「あ…」
 視線の先にあるものに気付いた雪之は、慌ててハンカチを押し込む。
「そないしていつまでも、浅ましいことを続けはるつもりどすか?」
「浅ましいなんて……私は…」
「よう言いますなぁ。好きなおなごの口を吸う甲斐性もあらへんのに、口を拭うたハンカチを隠れて吸うてるやなんて、それが浅ましゅうなかったら、一体なにが浅ましいんやろか?」
「…私は……」
 雪之は口ごもった。
 もう、雪之に何も言うことはない。静留の言葉は真実だった。静留の言うとおりなのだ。
 自分はただ、想いを打ち明けることもできずに……
 ……ハンカチを吸っている
「私は…」
「聞こえへんなぁ。しっかり口に出してくれへんと、ウチには聞こえへんえ?」
「どうして……」
 どうして、どうして、どうして。
 玖我なつきは藤乃静留を受け入れることができたのだろうか。
 嫌悪をあれほど示しておきながら。
 辱められたことに震えておきながら。
 どうして。
 どうして。
 どうして、玖我なつきは……
 珠洲城遥は、菊川雪之を拒んだのに。
 
 静留の姿はいつの間にか、消えていた。
 目の前から忽然と消えた静留の姿に、しかし雪之は気にも止めていなかった。雪之の目は、何も見ていない。
 雪之は誰もいない空間に向かって呟いている。
「どうして? ねえ、遥ちゃん。遥ちゃん……私…」
 あの日、雪之は遥に拒まれた――
「遥ちゃん……」
 
 
「さあ、雪之、行くわよ」
 意気揚々と戻ってきた遥は、人気のない部室を見回す。
「あれ? 雪之? いないの?」
 机の横に置かれていたはずのカバンすらない。
「雪之?」
 雪之の姿は、消えていた。
 
 
   −-続-−
 
 
 
 
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