翠星石は知らない
波の音が激しい。
…海って、こんなに荒々しかったですか? 話に聞いてたのとは、ずいぶん違うです。
翠星石は波打つ際で独り、呟いている。
気がつくと、誰かにネジを巻かれていた。ネジを巻いた人間に何か挨拶をしたような気もする。
うっすらと覚えているのは、誰か大切な人と別れてカバンの中に入ったところまで。あれは、その当時の翠星石のミーディアムだったのだろうか?
今回、自分のネジを巻いたのは一体誰だったのだろう?
目を開くと、何もない砂浜にいた。
足下には、粉々になった鞄の破片。それについては極力考えないようにしている。最悪の場合、蒼星石を探して一緒に眠るしかない。
それでも、何故か鞄が必要ないような気がしている。大切な物、必要なものだと頭では理解しているのに。心のどこかで不必要だと誰かが言う。
「誰もいやがらねぇですか?」
返事はない。
「この翠星石のネジを巻いたのはどこのどいつですか!」
気配に気づき、翠星石は振り向く。
「そこです!」
勢い込んで振り向いたものの、そこに人間はいない。そこには一匹の野良犬。
傷だらけの飢えた野良犬。弱々しい瞳が、静かに翠星石を見つめている。
「お前も独りですか?」
そっと手を伸ばすと、野良犬は甘えるように頭をこすりつける。
「食べる物は持ってないですよ?」
野良犬は、翠星石の横に座り込んだ。座る場所を選んだと言うよりも、疲れ切って座り込んでしまったようにも見える。
翠星石も、その隣に座る。
「お前も翠星石も、独りぼっちです」
くぅん、と野良犬は鳴いた。
「寂しくはないですよ。翠星石がいてやるです」
翠星石は、犬に頭を預けるようにしてもたれかかった。
「しばらく、こうしていやがるです」
波の音。犬の鼓動と呼吸音。
後は何も聞こえない。
翠星石はただ、陽が落ちるのを眺めていた。
何もせず、ただ眺めているだけ。時間だけがゆっくりと過ぎていく。
「夜になってしまいそうです。お前はどうするですか?」
翠星石は犬の背を撫でた。反応はない。
「どうしたです? 駄目ですよ、翠星石を一人にするんじゃねえですっ!」
大きな息を苦しそうに一つ吐くと、犬はガクンと頭を垂れた。
「何のつもりですか! こら、犬! まだ名前も知らねーですよ!」
犬は答えない。
「馬鹿! 名前くらい…名前くらい翠星石がつけてやるです! お前は……ジュン! ジュンです! 聞こえてやがるんですか、ジュン!」
微かに目を開く犬。
「ジュン、目を開けるです!」
陽が昇り、そして陽が落ちる。
浜の回りを歩いてみても、どこにもたどり着かない。
その翌日、翠星石は一日がかりで砂浜に穴を掘った。犬の亡骸を埋め、鞄の破片を墓碑にする。
そして、翠星石は海辺に背を向け、歩き始めた。
「どこかに、翠星石のネジを巻いた人間がいやがるはずですぅ」
瓦礫と化した街に、動く者の気配はなかった。人間だけでなく、動物ですら。
「あんなに沢山いやがった人間たちは、いったいどこに行きやがったんです?」
答える者はいない。
翠星石は知らない。
独りぼっちの人間が人形を見つけたことなど。
独りぼっちの人間がついネジを巻いたことなど。
立ち上がり何か言いかけた翠星石を見たとき、独りぼっちの人間はこう思った。
…狂ってしまった
独りぼっちの人間は振り返りもせず走った。
海へと。
狂った我が身に絶望して。
翠星石は知らない。
独りぼっちの人間が、地上最後の人間だったことなど。
翠星石は知らない。
今、地上に動いているものは……