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彼方の少女
(2)
 
 
 
 その日、薔薇の館のサロン兼会議室で、松平瞳子は二条乃梨子から相談を受けた。
 
「瞳子は、紅薔薇さまについてどう思う?」
「どう……とおっしゃられても」
 
 瞳子は意味がわからない、といった風に言葉を濁した。
 彼女は山百合会のメンバーではなかったが、二学期に入ってからよく手伝いを頼まれることが多い。
 実際すでに、花寺の文化祭などで山百合会のアシスタントを務め、その真面目な仕事ぶりで信頼を得ていた。
 今日、薔薇の館に顔を出していたのもそのためだ。二学期最大の行事ともいえる学園祭を控えて、山百合会は常ならぬ激務を抱えており、瞳子は演劇部の支障にならぬていどにという条件付きながらできうる限り薔薇の館へ手伝いに来ていた。この日は一年だけが五時間目までしか授業がなかったため、上級生たちはまだ来ていない。
 
「祥子お姉さまは、真面目で聡明でお優しくて、素晴らしい方よ。それ以外にいえることなんて……」
「私がいってるのはそんなことじゃないよ。わかってるでしょ?」
 
 断言されて、瞳子は沈黙した。
 乃梨子はたたみかけるように、
 
「私はしょせん、この半年ていどの付き合いだから、偉そうなことはいえない。でも瞳子は、紅薔薇さまとは子供の頃からのお付き合いなんでしょ?」
「…………」
「夏頃から、紅薔薇さま、何だかおかしいよ。いつもぼんやりしてて、時々こっちの話を聞いてないんじゃないかと思える。心ここにあらずっていうのが一番ぴったり」
「…………」
 
 瞳子は相変わらず無言だったが、内心では乃梨子の表現に全面的に首肯していた。
 小笠原祥子は、たしかに変わった。
 あの、いつも凛として完璧だった彼女が、現在ではまさに「心ここにあらず」といった風で日々を過ごしている。魂が抜けたような、と評してもいいかも知れない。あるいは――魂を抜かれたような、というべきか。
 
「……考え過ぎじゃないかしら? 別に、それで学校の授業や山百合会の仕事を疎かにしているわけでもなし……」
 
 瞳子は小さな声で抗弁する。
 実際、それはたしかな事実ではあった。いかにぼんやりとしているようではあっても、祥子の聡明さにはいささかの陰りもなく、勉学にせよ山百合会の業務にせよ、批判の入る余地なく完全にこなしている。周囲の話を聞いていないように見えることもあるが、話しかけられれば返事はするし、冗談を口にして笑いもする。
 ただ、以前までは山百合会でも率先してリーダーシップを取っていたのに、今ではまったくといっていいほど積極的な発言をしようとしないのが、唯一の相違だった。そのため現在の山百合会は、万事支倉令が主導する形になっている。
 
「……それに、そうしたお姿が親しみやすいと評判になってもいるそうだし。少し前までの祥子お姉さまは、たしかに近寄り難いところもおありだったから……」
 
 それも事実ではあった。
 紅薔薇さま・小笠原祥子といえば、完璧であるが故に敬して遠ざけられ、生真面目過ぎるがためにその前ではうっかり冗談も口にできない雰囲気があった。例外といえば、付き合いの長い令くらいのものだったろう。
 最近の祥子からは、そうしたある種の張り詰めた空気が薄らいでいる。それは、決して悪いことでもなかった。
 もともと別に人嫌いというわけではなく、偏屈でもなかったため、話しかけられれば祥子は普通に応対した。結果として、紅薔薇さまは意外に親しみやすい方だという風評が、下級生の間にも浸透しかけている。
 
「純粋に態度が軟化して親しみやすくなったというなら、私だってこんなことはいわないわよ」
 
 乃梨子は冷静にそう指摘した。
 
「そうでないから、変だなって思えるんでしょ。祥子さまのあれは、柔和になったんじゃなくて……」
 
 声を高めかけてから、危うく口を噤む。
 それ以上は、いってはいけないことだと自戒したようだった。
 瞳子にはそれがわかった。
 いわれるまでもなくはっきりと理解できていた。彼女自身、かなり前から気づいていたことだからだ。
 小笠原祥子の物腰の変化は、軟化だの柔和だのという表現で飾られるものではない。
 あれは単に――無関心なだけだ。
 その場の空気に場当たり的に対応しているからこそ、話を合わせられる。
 手を抜くような理由もないからこそ、卒なくこなす。
 ……眼中にないからこそ、優しくできる。
 
「……お祖母さまが亡くなられたのが、それほど堪えたのかも」
 
 瞳子は、ようやくのことでそう答え、乃梨子も沈黙する。
 夏休み前の六月、祥子は祖母を亡くしている。瞳子も柏木優などから話を聞いただけなので、詳しいことは知らないが、そのときの祥子の落ち込みようは尋常なものではなかったという。祖母を慕っていたのはもちろんだが、亡くなる直前まで精一杯肩肘を張って介護に当たっていたため、いざ葬儀が終わると一気に張り詰めていたものが切れてしまったらしい。
 最終的には、何とか自力で立ち直ったらしいのだが……
 
「でもさ、七月頃には、普通だったじゃない? それが何で、八月九月になってから様子がおかしくなるわけ?」
「……それは……私だって、妙だな、とは思うわ。別荘でお会いしたときは、何もおかしなところなんてなかったのに――」
 
 瞳子は思い出す。両親とのカナダ旅行を蹴ってまで顔を出した、小笠原家の別荘。祥子はごくそれまで通りの、祖母の死から完全に立ち直った普段通りの態度で自分を迎え、京極家の別荘で行われたパーティーでもピアノを披露していたというのに。
 
「やはり、祥子お姉さまは立ち直られたように見えても、やはりどこかで気落ちなされていたのではないかと思うわ。一時期は持ち直したように見えても……」
「心の奥底では無理をしてたって? まあ、たしかにそれはあるかもね」
 
 うなずきながらも合点が行かない表情で、乃梨子はため息をつく。
 瞳子も同様だった。
 高校生ともなれば、肉親とはいかずとも親戚の葬儀に出席した経験はあるし、あるいは近親を失った知人に接したこともある。
 悲哀と衝撃で虚脱したようになるのにも、実体験はないにせよあるていど推察はできるつもりだ。
 しかし、それにしては、小笠原祥子にはあまりに陰りがなかった。痛々しい、という形容詞が、どうにも当てはまらない。
 ただ、目の前にいるはずなのにどこか遠くを見つめているような、そんな距離感がある。
 しばし、二人して沈黙した後、乃梨子がそんな空気を振り払うように口を開いた。
 
「……まあ、何にせよ、親しみやすくなったのは悪いことじゃないよね」
「……ええ」
「今の――その、話しかけやすい雰囲気を保ったまま、元気を取り戻してくれれば、それが多分理想的なんだろうけど」
「……そうね」
 
 うなずきを返しながら、なおも引っかかるものがある。
 親しみやすい。
 祥子の現在の姿とは別の所で、その表現に何か引っかかるものがある。
 手を伸ばせば融けてしまう、淡い、儚い、不確かな輪郭。
 松平瞳子が松平瞳子のままで、素顔のままで受け入れられた場所があったような――そんな、あるはずもない記憶。
 とてつもなくいい夢を見ていたような、そんな感触。
 思考に沈みかけた瞳子を、目ざとく見咎めた乃梨子が、「何か思い当たることでも?」と訊ねた。
 瞳子はしかし、無言で頭を振った。
 
 
 
 
 
 自分が近しい友人や後輩たちから気遣われているという事実に、むろん祥子は気付いていた。
 令、由乃、志摩子、乃梨子はいうまでもなく、瞳子もあれで聡い娘だ。自分が無関心に日々を過ごしていることは、とうの昔に気付いているだろう。
 彼女たちを心配させるのは、祥子としても本意ではない。
 けれども、だからといって自らを改める気分にはなれなかった。
 自分の大切な妹のことを忘却してしまったのは彼女たちの方なのだ、という気分もあった。
 おそらく、彼女たちには何の責任もないこともわかってはいる。
 だが祥子としては、妹のことを覚えていない彼女たちと、同じ目線で話し合う気にはなれなかった。空の鳥と海の魚との間には、通じ合う何事もない。
 世界をパズルに例えるならば――自分の妹というピースを失いながらも完成されてしまっている目の前の世界は、祥子の知るそれとはまったく別の、まがい物に見えた。そこに生きる人々も同様だ。
 だとすれば、本物の――小笠原祥子が生きるべき世界は、妹のいた過去の思い出の中にしか、ない。
 無関心に、ただ無関心に。
 己の中に埋没する日々。
 とうに過ぎ去った幸せの記憶をより深く、より詳細に思い起こし、再認する。
 そうしている間だけ、祥子は妹の存在を感じ取れた。
 彼女だけが、感じ取れたのだ。
 それは奇妙に、心が躍る事実だった。
 そして、学園祭を数日後に控えた一日。
 祥子は一人、並木道を歩いていた。
 緑深きリリアン女学園の敷地は、場所によってはちょっとした森にも見える。
 それは、かつて祥子が妹を殺したあの森に、少しだけ雰囲気が似ていた。
 だから彼女は、一人でこの並木道を歩くのが好きだった。
 マリア像の前に差しかかる。
 足を止め、目を閉じて、いつものお祈りを――今や完全な形式となったお祈りを済ませたとき。
 息のかかるほどすぐ傍らで、誰かの囁くような声が聞こえた。
 
「――――さま」
 
 ふわりとした、陽だまりのような空気。
 忘れようのない、暖かな温度と匂い。
 驚いて見開いた、その視界の端に――、
 かつて毎日のように見つめたツインテールの髪が、見えた気がした。
 
「――――!」
 
 
 声にならない声でその名を叫び、周囲を見渡す。
 誰もいない並木道。冬支度を始めた木々だけが、ひっそりと佇んでいた。
 どこか遠くで、鴉が鳴いている。
 たしかにいたはずの誰かの気配は、微塵も感じられない。
 ――幻影。錯覚。あるいは狂気。
 いや、そのどれでもない。
 祥子は確信していた。
 今さっき、たしかにあの娘がいた。
 殺してしまったあの娘、あの森の奥に置いてきたはずの妹が、たった今自分の傍にいた。
 自分の、傍に。
 小笠原祥子は幸せそうに微笑むと、迷いのない足取りで校門へ続く並木道を歩いて行った。
 
 
 
 
 
 今年度の学園祭における山百合会の演目は「竹取物語」となった。
 昨年が中世欧州風の「シンデレラ」だったので、今年は和風、というわけだ。発案者は令だったが、賛成多数というより反対者なしで承認され、そのままつつがなく配役も脚本も決定された。
 主役のかぐや姫には当然の如く小笠原祥子が選ばれた。長く艶やかな黒髪を持つ彼女がもっとも適任だというわけで、これについては本人もあっさりと受け入れたようだ。
 帝役には支倉令、竹取の翁夫妻は福沢祐麒と藤堂志摩子、月からの使者には花寺生徒会の薬師寺兄弟が、それぞれ扮した。
 瞳子は、島津由乃や二条乃梨子らとともに、かぐや姫に求婚する貴族を演じた。
 ――企画は完全に成功したといえよう。
 原作を若干アレンジし、月に住まう天上人・かぐや姫の超然たる視点に重心を置いたシナリオは、小笠原祥子の美しさを見事に引き出し、観客は老若男女の別なくその姿に魅入られた。
 同じ舞台に立った瞳子たちですら、例外ではない。
 見果てぬ月へと想いを馳せる姫の姿は幽玄そのもので、あまりに遠く、儚く、美しく――特に演技に素養のない共演者たちまでも知らぬ間に物語へと引き込んだのだ。いつしか誰もが役に没頭し、現実を忘れていた。
 劇が終わり、幕が下ろされても、満場に鳴り響く拍手はしばらく止まなかった。
 舞台裏の楽屋で、皆で祝杯を上げた。といっても、もちろんジュースではあったが。
 その後は着替えを済ませてから、各々の予定に従って三々五々散らばって行く。
 祥子の姿が真っ先に楽屋から消えたのに、瞳子はもちろん気付いていた。呼び止めて、よければ一緒に学園祭を回ってもらえないかと提案しようとしたのだが、その暇すらなかったのだ。
 他のメンバーに別れを告げてから、瞳子も楽屋を出た。
 生徒や教師に加えて無数の一般客で賑わう校内を、ぼんやりと歩く。
 何かが引っかかっていた。
 何かが掴めそうな気がしていた。
 小笠原祥子。幼い頃から敬愛していた年長の親族。三年の今になっても妹を作らず、孤高のままに振る舞う紅の薔薇。
 だがその傍らに、いつも寄り添っていた誰かがいたような――
 ちょっと妬ましくて、だけれども微笑ましくて、納得できた。そんな光景を、いつか見たような気がしていた。
 二年藤組・松組が共同で催している「フジマツ縁日村」の前を通りかかったとき、人込みの向こうに祥子の後姿を見た気がした。
 呼びかけようとしたとき――
 不意に、祥子の横に誰かの輪郭が見えたような気がした。
 すらりとした長身の祥子とは対極な、高校女子の平均に比しても少し小柄なシルエット。リボンで纏められたツインテール。
 何から何まで祥子とは異なっているのに、その後姿はまったくの違和感なく、小笠原祥子のすぐ傍らに在った。
 
「……――――ま」
 
 ――自分の口から発されたその呼び名が、自分で認識できない。
 気が付くと、瞳子は呆然と立ち尽くしていた。廊下の中央で足を止めた彼女の周囲を、一般の客が訝しげな顔をして通り過ぎて行く。
 祥子の姿は、もうどこにも見えない。
 少し迷ってから、瞳子は早足でその姿を探し始めた。
 
 
 
 
 
 取り立てて目的もなしに歩いているうちに、いつしか祭は終わっていた。
 雑踏の中、幾人かの下級生や顔見知りから声をかけられたような気もするが、祥子は覚えていない。
 グラウンドでは、恒例のファイアーストームが始まったようだ。
 並木道から見晴るかすその向こうで赤い炎がうねり、秋の夜空を焦がしている。
 音楽系の部活が次々と楽の音を奏で、生徒たちが炎の周囲で踊り始める。
 楽しそうだな、と祥子は素直に思った。加わる気など微塵もないが、それを微笑ましく思う感性が擦り切れているわけではない。
 視線を転じると、満月の下に佇むマリア像が目に入った。
 一年前の今日、小笠原祥子が妹を得たこの場所。
 神聖な契約が交わされた、かけがえのない想い出。
 目を閉じるまでもなく、鮮明に思い出せる。
 あのとき、彼女は妹を得て、妹は彼女を得た。
 祥子の差し出したロザリオを、妹は受け取ってくれて。
 月とマリア様だけが見守る中を、二人で踊った。
 
「祐巳――」
 
 その名はまるでこの身に刻まれた祈りのような響きで。
 
「――お姉さま」
 
 当たり前のようにして、それに応える声が聞こえてくる。
 祥子はもはや驚くこともなく、振り返った。
 不思議なことなど何もない。奇妙なことなど何もない。
 何故なら、あの娘は自分の妹なのだから。
 殺してしまったはずの妹は、森の奥に置いてきてしまったはずの妹は、しかしずっと自分のすぐ傍にいてくれた。
 そう、福沢祐巳が、小笠原祥子から離れることなど、ありうるはずもない。
 彼女はかつていつもそうしていたように、祥子の目の前で、無垢な笑顔を見せていた。
 
「お姉さま……」
 
 祐巳が手を差し伸べる。
 グラウンドから聞こえる音楽は、いつしかあの思い出の曲を――「マリア様の心」を奏でていた。
 祥子はうなずいて、妹の手を取る。
 どちらからともなくリズムを取り、ワルツのステップを踏んで。
 月明かりの下で、小笠原祥子は福沢祐巳と踊り始めた。
 
 
 
 
 
 松平瞳子は駆け続けていた。
 結局、祭の最中、祥子を再び見つけ出すことはできなかった。
 グラウンドではファイアーストームが始まったようだが、悠長に加わっている暇はない。
 自分が何故こうも祥子を探し求めるのか、瞳子にはわからなかった。
 たしかに、祥子を慕ってはいる。学園祭を一緒に回りたかったし、ファイアーストームについても同様だ。
 だが、それだけでは今の焦燥の説明がつかない。
 敬愛しているから。様子が変だったから。心配だから。
 ――多分、どれも違う。
 それはおそらく、あのとき祥子の傍らに垣間見えた、あの誰かの後姿のせいだ。
 名前もわからぬあの後姿が、何故か瞳子を急き立てる。
 並木道の半ばで、彼女は木の幹に手をつき、乱れた呼吸を整えた。
 秋の夜風は火照った肌に心地よいが、さすがに汗をかいてもいる。
 心当たりの場所はすべて探した。たまたま鉢合わせた幾人かの知り合いに聞き込んでも、大した成果はなかった。
 だが、この並木道の先にもう一ヶ所、小笠原祥子が行きそうな場所がある。
 瞳子はゆっくりと歩を進めた。これで見つからないようならきっぱりと諦めようと、そう思っている。
 並木道の二又に分かれる場所、マリア様の庭先。
 薄闇の中、その空間に、小さな影が踊っている。
 ――予感は当たった。
 瞳子は再び駆け足になっていた。
 人影は二つ。
 うち一方は、見間違えようのない長い黒髪をたなびかせていた。
 そしてもう一方は――
 あのときに見た、小柄な体に、ツインテールの髪型。
 瞳子はその顔を見た。
 月明かりとグラウンドからの炎とに、わずかに照らされたその顔を見た。
 あどけない、そう評して構わないだろう、無垢な顔。
 
「――――――巳さま」
 
 瞳子はその名を呼んだ。
 最初は無意識に。
 次に、完全な確信と、自覚をこめて。
 
「――祐巳さま!!」
 
 
 
 
 
 聞き覚えのあるその声に、祥子は体を硬直させた。
 凍りついた表情で、視線を転じる。彼女の年下の親族にして、かつては妹のように可愛がっていた少女が、こちらに駆け寄ってくる。
 いや、そんなことは問題ではない。今、あの少女、瞳子は何と叫んだ?
 祐巳さま、と――誰もが忘れてしまったはずの、小笠原祥子の妹の名を呼んだ。
 脳髄が灼熱した。臓腑がざわめいた。肌が粟立った。
 小笠原祥子の全身の細胞が、不快感を騒ぎ立てる。
 許されない。許されない。
 貴方が。貴方たちが。
 その名を呼ぶことは許されない。
 そう、そうなのだ――
 小笠原祥子は完全に思い出し、理解していた。
 あの夏の日。
 彼女が妹を殺してしまった理由。森の奥に置き捨ててきた、その理由。
 憎かったはずなどなく、嫌っていたからなどであるはずもない。そのような不快な感情を、彼女が妹に抱くはずもない。
 祥子はただ、妹を外に出したくなかったのだ。
 人目に触れるところへ、戻したくなかった。
 誰の目に触れない場所へ、閉じ込めてしまいたかった。
 彼女と二人きりで、永遠に過ごしたかった。
 ――誰からも愛される妹を、小笠原祥子ただ一人のものに、してしまいたかった。
 駆け寄ってくる瞳子から目を逸らし、祥子は祐巳の顔を確認した。
 彼女の妹は一瞬だけ瞳子を見つめて眼を細めると、次に祥子を見上げて柔らかく微笑んだ。
 こくん、と。小さく、しかしたしかにうなずく。
 
「祐巳――」
 
 すがるようにその名を叫んで、彼女の小さな体を抱き締める。
 暖かい、優しい、祥子の大好きな空気が胸を満たした。
 その次の瞬間――
 膨らみ続けた風船が破裂するように、小笠原祥子の中の何かが弾け、彼女は満腔の幸福の内にその意識を閉じた。
 
 
 
 
 
「――――!!」
 
 瞳子がそこにたどり着いたとき、すべては終わってしまっていた。
 遠くから響く「マリア様の御心」は終節を迎えて、次に何か瞳子の知らない賑やかな曲を奏で始める。
 誰もいない。何もない。
 がらんとした空間だけが、薄闇の中に横たわっていた。
 小笠原祥子も福沢祐巳も、最初からそこにいなかったように消えてしまっていた。
 いや、きっと。そんな人たちは、「この世界」には「最初から」「いなかった」のだろう。
 驚愕よりも悲哀よりも、置いていかれた、という寂しさがあった。
 瞳子は顔を上げる。
 月とマリア様だけが、彼女を見下ろしていた。
 数瞬の間、祈るように目を閉じて。
 やがて瞼を開き、視線を落としたとき、彼女は気づいた。
 いつの間に植えられたのだろう、マリア像の足下に、二輪の薔薇が咲いていた。
 季節外れの大気に大輪の華を開かせた、ロサ・キネンシス。
 それはつがいのように寄り添って、マリア像の見下ろす場所に咲き誇る。
 瞳子はしばしその輝きに魅入ってから、やがて踵を返した。
 グラウンドに燃える炎にはもう目もくれず、並木道を歩き始める。
 月明かりと遠い炎に照らされた木々の道は、何処までも続いているような気がした。
 
「ごきげんよう、――――さま」
 
 
 
 
 
 いずれそう遠くない将来、あのマリア像の見下ろす場所に咲く薔薇は、もう一輪増えているであろう気がした。
 それは予感よりもなおたしかな確信だ。
 置いていかれたのなら、追いかける。
 何処までも何処までも。世界の果ての、その果てまでも。
 きっと自分は、そのていどには、あの人たちに魅かれていたはずだから。
 末の妹として、二人の姉を愛するだろうし、愛されて見せる。
 そのことを思って、瞳子は一人微笑した。
 
 ――ごきげんよう、お姉さまたち。
 
 
 
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