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よ・し・の
 
 
 
「いっそ、貴方達の内どちらかが黄薔薇のつぼみの妹になればいいのに」
 乃梨子の言葉に表情を変える可南子。
 瞳子は、真っ青になって乃梨子を見つめていた。
「乃梨子さん。いくらなんでも、言ってよろしいことといけないことがありますわ」
 乃梨子も自分の発言に気付き、頭を下げる。
「ごめん、言い過ぎた」
「ええ。黄薔薇のつぼみの妹なんて、冗談じゃありません」
 可南子もそう続ける。
「うん。わかったよ。本当に御免。冗談にしてもきつすぎたね」
 
 
 帰り道。久しぶりに令と祥子が二人で歩いている。
 令は機嫌良く祥子に話しかけ、祥子も同じように微笑みながら答を返していた。
「ところで、祥子。今日は祐巳ちゃんは一緒でなくていいの?」
「祐巳は、クラスの用事で遅くなると言っていたわ。私が今日は早く帰らなくちゃならないから」
「そうなんだ。あれ?」
 令が立ち止まる。
「どうしたの、令」
「それじゃあ由乃も手伝っているのかな」
「…そうかもね」
「そうそう。そう言えば昨日由乃がさぁ…」
「令」
 やや厳しい口調の祥子に、令は言葉を止める。
「どうしたの、祥子」
「令、貴方、口を開けば由乃ちゃんの話ばかり。いい加減、その癖は直した方がいいのではなくて?」
「え?」
「令が由乃ちゃんのことを大事に思っているのはいいことだと思うけれども、会話にはTPOというものがあってよ?」
「そうかな…」
「ええ。そうよ」
 令の口調が微妙に変わる。それに気付かない祥子ではなかった。けれども、ここで会話を止めるわけにはいかない。
「由乃ちゃんのことばかりお話しするのは、すこし控えた方がいいのではなくて?」
「祥子、それはちょっと…」
 やや俯きかけていた令の顔が持ち上がる。
「…ひどいんじゃ…」
 二人に突然かけられる第三者の声。
「令、それに祥子」
 二人の肩を後から叩いたのは、江利子さま。
「久しぶりね。学校の帰り?」
「江利子さま」
「お姉さま」
 にこにこと微笑みながら、江利子はやや強引に二人の間に入る。
「時に、令。由乃ちゃんの様子はどうなの?」
「どう…と仰いますと?」
 にやり、と笑ってみせる江利子。その手は祥子の手を、何も言うなとでもいうように握りしめている。
「この時期でしょう? 当然妹のことに決まっているじゃないの」
「妹…ですか」
「そう。令、貴方まさか、由乃ちゃんを必要以上に甘やかしている訳じゃないわよね? それとも、私には見せられないような妹なのかしら?」
「あ、いや、それは…」
 令は冷や汗をかく調子で応えている。第一、由乃の妹選びに令はほとんど干渉していない。いや、それを言うならそもそも、今の由乃の妹選びに干渉できる者などいないのだが。
「とにかく、ひ孫の顔を見るのが楽しみだって、由乃ちゃんには伝えておいてちょうだい」
「は、はい」
 その間に、祥子と令が別れる角にたどり着く。
「それじゃあね、令。私は蓉子からの頼まれ事があるから、こっちに行くわ」
 江利子は祥子の方を手のひらで示すと、令に手を振る。
「はい。江利子さま。こきげんよう」
「ええ、ごきげんよう」
 江利子が現れてからペースを取られたままの祥子も、令に挨拶をすると歩き出す。
「江利子さま…」
「言いたいことはわかるわよ」
 江利子は祥子の顔を見ずに話し続けた。
「だけどね、私は令のお姉さまなの。逆の立場なら、蓉子は貴方に同じことをしたと思う。勿論、聖と志摩子だって」
「ですけれども、今の令は…」
 立ち止まる江利子。その表情は、声を挙げようとした祥子が絶句するほど、ゾッとして、冷たいものだった。
「なに? 今の令が何だと言いたいの? 祥子」
「それは……」
 言葉を失う祥子に、江利子はややトーンを落として続ける。
「令のことを一番見ていたのは私。それだけは間違いないのよ」
「それはわかっているつもりです」
「そう、それなら口は出さないで」
 
 令は家に戻ると、すぐに着替えて由乃の部屋へ向かう。いつの間に追い抜かされたのか、由乃が先に家に戻ってきていたのだ。
 勝手知ったる由乃の家。入り込んで二階へ上がる。
 そして由乃の部屋。
「入るよ、由乃」
「あ、令ちゃん」
「早かったんだね」
「うん。思ったより、早く終わったから。令ちゃんは祥子さまと一緒に帰ったの?」
「そう。あ、そうだ。途中で江利子さまにお会いしたよ」
「江利子さまに?」
 由乃の表情が少し剣呑なものにかわるけれど、令は由乃のこの表情も大好きだった。
「由乃の妹の顔が早く見たいって…由乃、何か怒ってるの?」
「う、ううん。別に怒ってないよ。江利子さまは令ちゃんのお姉さまじゃないの。別に私、怒ってないよ」
「そう? なんだか由乃…嫉妬してるかな、なんて…」
「もお、令ちゃんのバカっ」
「あはは、ごめん、ごめんよ、由乃」
「もう。…美味しいケーキ焼いてくれたら許してあげる」
「それじゃあ…次の日曜日、腕によりをかけて作ってあげる」
「本当?」
「勿論」
「大好き」
「私が? それともケーキが?」
「…令ちゃんのバカ」
 
 
 乗りかかった舟、というにはこの乗船券の値段は高すぎる。
 瞳子ちゃんと可南子ちゃん、二人は祐巳に惹かれて薔薇の館を訪れている。
 それ自体は別に憂慮するべきことではない。しかし、二人と令の…そして由乃との関係は、微妙な緊張を孕んでいる。
 幸い、二人はその点に関しては物わかりが良かった、けれども、それがいつまでも続くかどうか。二人が現状を続けていたとしても、令がそれに甘んじたままでいられるのか。
 祥子は、いずれ来るはずの破局を思い描いては打ち消し、打ち消しては思い描き、歩いていた。
「紅薔薇さま…」
 そのため、声をかけられるまでは自分の隣を歩いている存在に気付かなかったのだ。普段は神経質な祥子らしくないと言えばらしくないのだけれど、今はそれほど神経を消耗することが多い日々が続いているから。
「貴方…田沼…ちさとさん?」
「はい。ごきげんよう、紅薔薇さま」
「ごきげんよう。ごめんなさい、考え事をしていて聞いていなかったみたい。何か御用?」
「用と言うほどでもないんですが…」
 そこで祥子は思い出した。そうだ、確かバレンタインの新聞部の企画で令の隠したカードを見つけた二年生。
「ああ、貴方、ウァレンティヌス祭の企画で令とデートした」
「はい。その節は色々とご足労をおかけしました」
「構わなくてよ。誰よりも、令のためでしたもの」
「はい。私も黄薔薇さまのためなら……」
 ちさとの足が止まる。
「どうかして?」
「紅薔薇さま…私じゃ、由乃さんの代わりはできないんでしょうか?」
 祥子もつられるように足を止め、それからちさとの言葉を耳にする。
「無理に決まっているわ」
 一言。そして、ちさとの涙を目にしながら、
「由乃ちゃん以外の誰も、由乃ちゃんにはなれない。代わりにだってなれない。貴方であろうと、私であろうと、江利子さまであろうと……」
「はい」
「でも、諦めないで欲しいの」
「え?」
 俯き気味だった顔を上げるちさと。その正面には、しっかりと視線を合わせてくる祥子の顔があった。
 自らの言葉の意味を十分に知りながらも、敢えて放つ。その言葉の重みを知りながら、敢えて渡す。
 その痛みも重みもつらさも、十二分にわかっているから。
 それだけのことを祥子の表情はちさとに告げていた。
「でもそれって…重いですね」
「ごめんなさい。貴方になんの責任があるわけでもないのね」
「…覚悟はできているつもりでした。でも、本当は由乃さんの代わりじゃ嫌なんです。田沼ちさととして見て欲しい。だけど、そんなこと無理だって自分でわかってます。だけど…だけど…」
「貴方は悪くない。貴方は絶対に悪くないのよ」
「わかってます、そんなこと、わかって……」
 ちさとの頭を支える祥子。
「ごめんなさい」
 かたくなに、ちさとは頭を祥子の手から離そうとしている。
「謝らないでください。紅薔薇さま」
「違うの。これは紅薔薇さまじゃないわ。令の友人として、小笠原祥子として、貴方に言っているの…」
 ちさとの身体から力が抜けていく。
「はい、ロサ…祥子さま…」
「ごめんなさい…」
 
 可南子は、時間を自分が勘違いしていたことに気付いた。
 薔薇の館にいるのは、令さまだけ。
 けれども、扉を開けてしまった以上、いきなり引き返すわけにもいかない。
「ご、ごきげんよう。黄薔薇さま」
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
 挨拶をそそくさと済ませると、可南子は流し台に向かった。幸い、洗い物がいくつか残っている。
「洗い物を済ませてしまいますね」
 これで祐巳さま、せめて瞳子さんが来るまでは間が持つはずだった。
 背後に視線を感じながら、可南子は洗い物を続けていた。
 緊張が続き、カップを棚に戻そうとした手が滑る。
 一つのカップは床に。
 ガチャン
 しまった、と思い後始末をしようとした可南子の視界の隅に、誰かの足が映る。
 何かを思う間もなく、屈んだ腰に衝撃。
 ひっくり返った可南子が見上げたのは、令さまの能面のように無表情な顔。
「可南子ちゃん…貴方…何をしたの?」
 可南子は、自分が割ったのが由乃のカップであると悟った。
 今は亡き、島津由乃の。
 
 瞳子は、薔薇の館へ急いでいた。可南子が先に行ってしまったかも知れない。
 今は、薔薇の館に入る前に誰かと落ち合うことにしている。薔薇の館に一人で入ることは絶対に避けるように言われている。入るとすれば、令が休んでいるときだけ。
「瞳子ちゃん?」
 祐巳が祥子と並んでいる。
 嫌な予想は当たっていた。
「可南子さんが、一人で薔薇の館に行ってしまったかも知れませんの」
「…令がいるはずよ」
 祥子の言葉に二人は顔色を変える。
「急ぎましょう。せめて、志摩子と乃梨子ちゃんがいればいいのだけれど…」
 一階の扉を開けた所で、乃梨子の悲鳴のような声が聞こえてくる。
「やめて! 止めてください! 黄薔薇さま!」
 走り出す三人。
 先頭になった瞳子は扉を開けようとして、嫌な音に一瞬躊躇する。
 何かが何かに何度もぶつかっている音。
 まるで…誰かが誰かを殴りつけているような音。
「黄薔薇さま!」
「駄目! 志摩子さん! 立っちゃ駄目!」 
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「…… カップを! 割ったの! 貴方は! カップを! 割ったの! 貴方は! カップを! ……」
「瞳子ちゃん!」
 躊躇を見かねた祥子が、逃避の後から手を伸ばして扉を開ける。
 そこには…
 頭を抑えて座り込む志摩子。
 志摩子を支えるように跪いて、叫んでいる乃梨子。
 うずくまり、両手で自分を庇いながらひたすら許しを乞うている可南子。
 そして、可南子の前に立ちはだかり、ひたすら蹴り続けている令。
 声にならない悲鳴を上げ、祐巳は令と可南子の間に入った。
 祥子は、令を背後から羽交い締めにしようとする。
「邪魔しないで!」
 予想外の力で振り払われた祥子を支える乃梨子。
「…志摩子さんが、さっき同じ目にあって頭を…」
 乃梨子の目は悔し涙に滲んでいる。何もできない無力感を乃梨子は全身で感じていた。
 そして令は、可南子を庇う祐巳に声を荒げる。
「退きなさい! 祐巳ちゃん! その子が何をしたか、教えてあげるの! その子は由乃を壊したのよ! だから、壊れなきゃいけないのよ! 同じように!」
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
 可南子はうわごとのようにそれだけを繰り返していた。
「令さま、もう許してあげてください、可南子ちゃん、こんなに謝っているじゃありませんか」
 自らを守っていた腕の所々には青あざが、そして顔にも傷。痕を残すほどの大きな傷はないようだが、唇を切ったらしく血を流している。
「…ごめんなさい。黄薔薇さま。ごめんなさい…」
「退きなさい、祐巳ちゃん」
 乃梨子と祥子は祐巳に目配せして、左右から令を抑え付けようとする。
 そのとき…
「嫌ですわ、由乃さまったら」
 瞳子が笑い始めた。
 首を振り、さも呆れた人ですわ、というよう肩をすくめると、に歩き出す。
「由乃さま。昨日、ご自分でカップを落としたのを隠してらしたんですわね。瞳子はきちんと見ていましたわ。おかげで、可南子さんが黄薔薇さまに疑われてしまったではありませんの」
 言い終えると、瞳子はゆっくりとカップの破片を拾い始める。
「さあ、瞳子がお手伝いするのですから、由乃さまもさっさと拾ってくださいませんこと?」
 令が、瞳子を見る。
「由乃が割った…?」
「そうですわ。瞳子が見ていたのですもの。間違いありませんわ」
「由乃が…」
 令は突然ニッコリと笑った。悪戯が見つかった子供のように。
「あら、見てたの。瞳子ちゃん…」
 その口調は、紛れもない由乃のもの。けれど、声は令。
「ごめんね。可南子ちゃんに罪を被せたみたいになっちゃって…。お姉さまの早とちり」
「ああ、ごめんよ、由乃」
「何言ってんのよ。謝るのは私じゃなくて可南子ちゃんにでしょう!」
「うん。本当だ。ごめんね、可南子ちゃん」
 ひとりで喋り続ける令に、可南子は頷いた。
「い、いえ…私が悪いんですから…」
 祥子が瞳子のほうを見ると、頷く。
(よくやったわ、瞳子ちゃん)
 瞳子もうなずき返す。
 祐巳は、可南子に肩を貸すと歩き始める。志摩子も、乃梨子が付き添って保健室へ行くという。
 祥子と瞳子、そして令と由乃がその場に残る。
 扉が閉まった向こうから、可南子の怯えきった泣き声が聞こえてきた。
 
 心臓の手術は成功した。少なくとも、医者はそう言った。
 そして、その年が終わり、春の前。二年に上がることなく学校を、いや、この世を去った由乃。
 由乃は、医療過誤隠蔽の犠牲者だった。
 葬式当日、令は自分の部屋から一歩も出てこなかった。
 そして令にとって、由乃の死はなかったことになった。
 令の悲しみを理解した周囲は、令の話に調子を合わせるようにした。
 由乃は祐巳と同じクラスで元気に授業を受けている。
 乃梨子、瞳子、可南子もそれぞれ事情を聞くと納得した。
 だが、それは間違っていた。未だに、令にとって由乃は生きている。そしてそれを否定する者を真っ向から排除しようとする。
 今、島津由乃は支倉令の中で生きている。少なくとも、令にとっては生きているに等しい。
 
 
「ありがとう、瞳子ちゃん」
「あれくらいの演技、瞳子にはどうってことありませんわ。祥子お姉さま。でも…」
「ええ。わかっていてよ。二度やって欲しいとは言わないわ」
 その言葉通り、二度と瞳子は由乃に話しかけようとしなかった。いや、その必要はなかった。誰も何も言わなければ、由乃が自分から姿を見せることはないのだから。
 そしてその日から、可南子は薔薇の館に姿を見せなくなった。
 祐巳は祥子と相談して、可南子がもう一度薔薇の館に姿を見せる日まで、祐巳の妹を決めないことにした。祐巳の妹が瞳子であろうと可南子であろうと、或いはそれ以外の誰かであろうとも。
 
 
 蓉子に呼び出されることは覚悟していた。ただ、それが今で良かった。
 まず、江利子はそう言った。
 どういうことかと詰め寄る蓉子に江利子は答える。
 …山辺さんが、この春休みに化石の発掘で海外へ行くのよ、娘さんと。
 そして私は、それを追いかけて海外に行くの。春休み中の由乃ちゃんを誘ってね。
 そこで、由乃ちゃんは令にメールを送るの。
「江利子さまの様子がおかしい。殺されるかも」って。
 帰ってくるのは私一人。由乃ちゃんは、事故に巻き込まれて亡くなったと、令に伝えるわ。
 蓉子は親友の表情を見た。冗談で済まされる話ではなく、親友の表情にも冗談の欠片もない。
「江利子、貴方…」
「令は、私が由乃ちゃんを殺したか、見捨てたか、とにかく由乃ちゃんの死に関わっていると思うでしょうね」
「でも、そんなこと、うまくいくと…」
「私が関わっているから…。私は令に嘘をつかない。だから、私は今度こそ令に告げるの。由乃ちゃんが死んでしまったと。前の私には、その勇気がなかったから。なかったから、祐巳ちゃんや祥子、志摩子達に迷惑をかけている」
「江利子、貴方…令に一生恨まれるのよ」
「覚悟はしているわ。令の恨みや憎しみ、由乃ちゃんの死。私は全部背負っていくつもりよ。これだけが、私の令にしてあげられることだから」
「…令の卒業を待つのね」
「ええ。だから、それまでは令のワガママを許して欲しい…。貴方から、祥子達に伝えてもらえないかしら」
 蓉子には、ただ頷くしかなかった。
 
 
 瞳子は一人で薔薇の館に向かっていた。
 今では、瞳子は祐巳の妹。それを薦めたのは他でもない可南子だった。
 そして、可南子は…。
 
 瞳子が扉を開けると、可南子が先着して談笑していた。
「あ、瞳子さん。ごきげんよう」
 可南子の前にはカップが二つ。
「…ごきげんよう、可南子さん」
 そういえば、乃梨子と志摩子さまの姿を最近見ない。乃梨子さんは、クラスが変わってからここに来ることが少なくなったような気がする。
 挨拶を終えると、可南子は今まで談笑していた相手に向き直る。
「ええ。その通りですわ、黄薔薇さま」
 そう言うと、可南子は由乃に向かって笑うのだった。
 
 
 
あとがき
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