デートじゃないよ
乃梨子は手元の紙をじっと見つめていた。
「どうしよう、これ」
つい独り言が出てしまう。
映画のチケットである。
インターネットの懸賞で当たった試写会の招待状なので、日付は指定されている。その日付というのが、志摩子さんの絶対外せない用事の日なのだ。
せっかくなのだから志摩子さんを誘おうと思った乃梨子の目論見は見事に外れてしまったことになる。
お昼ごはんを食べて。
映画を見て。
ウィンドウショッピングでも楽しんで。
夕食を食べて。
もしかしたら……なんてことはさすがに考えない、うん、考えない、絶対に考えない、考えるわけがない、うん……でも、ほんのちょっとだけ、ほら、例えばきれいな夜景を見るとか、志摩子さんの家にお泊まり、あるいは自分の家に志摩子さんがお泊まりとか。
それくらいなら考えたってマリア様は怒らないだろう。
だけど、そういう空想ももう無意味。その日の志摩子さんは家を出られないのだ。
映画のチケットも無駄になる。
ついでに、必死で考えたその日の予定も無駄になる。
志摩子さんの代わりに誰かを誘おうか。
誰と言ってもあまり選択肢は多くない。クラスで孤立しているとは言わないけれど、校外までつきあっている友達の数は少ない。そもそも、公立中学と違って高校、しかも私立ともなれば各自の自宅はてんでばらばら、気軽に遊びに行ける距離ではない者のほうが多いのだ。現に小寓寺はリリアンからかなり遠い。
こうなると、乃梨子の誘える相手は限られてくる。
休みの日に、わざわざ待ち合わせて街へ出る相手。
「瞳子?」
翌日の教室で、自分でも定番だなと思いながら、乃梨子は瞳子に声をかけた。
「映画の試写会に当たったんだけど、二名様ご招待なんだ」
瞳子は一瞬首をかしげながら口を開く。しかし、すぐに閉じた。
乃梨子は、瞳子の唇が「ろ」の形に開いたことを見逃さない。
(白薔薇さまはどうなされましたの?)
おおかたその辺りだろう。
確かに、志摩子さんを置いて自分が瞳子を誘うというのはかなり珍しい話だろう。それも、志摩子さんを誘えない類のものではないのに。
瞳子の逡巡を見て、乃梨子は言う。
「志摩子さんは、お寺の用事があって無理なんだ」
なるほど、と口には出さないが瞳子は納得した表情になる。
「それで、どうかな? 今度の土曜日になんだけど」
「土曜日?」
瞳子が考える目つきになっていた。
「土曜日は……ちょっと先約が」
「土曜日がどうかしたの?」
可南子が二人の間に入ろうとして、距離の近さに気づいて止まる。その瞬間、瞳子の表情がやや変わった。
ああ、と乃梨子は気づく。
瞳子の先約は可南子だったというわけで。
なんとなく、意地悪な気分になって、乃梨子は言を続ける。
「土曜日、先約があるの?」
「え、ええ」
「残念ね、せっかくのチケットなのに」
可南子もようやく二人の間の話題に気づいたようで、今度はやや無理矢理に二人の間に入り込む。
「どうしたの? 乃梨子さん」
「映画のチケットがあるから、瞳子さんを誘ってみたのだけど。土曜日は先約があるみたいで」
「そう。先約があるのなら、無理な誘いはいけないわね」
「うん。その通り。それじゃあ、可南子さんはどう?」
「え?」
「今週の土曜日なんだけど、試写会だから他の日というわけにはいかないのよ」
「あ、私も、土曜日には先約が…」
「可南子さんも? ふーん、残念ね」
わざとらしく、乃梨子は可南子と瞳子を見比べる。
「そっか、二人とも先約があるんだ」
ええ、とほっとした顔で言う二人に毒気を抜かれ、乃梨子はとりあえず追求しないことにした。
勿体ない。かといって自分一人で行くのもつまらない。
だったら、ペアチケットごと誰かに使ってもらえばいい。
紅薔薇さまや黄薔薇さまなら、それぞれ何とか使えるだろう。
乃梨子はそう考えて薔薇の館へ向かった。
「あー、嬉しいけれど、土曜日は部活だわ」
あっさりと断る黄薔薇さま。最近は剣道部でも熱心だから、仕方ないと言えば仕方ない。
「へ、いいの?」
紅薔薇さまの驚いた顔に、乃梨子は正直にうなずいた。
「一人で行くのもつまらないですし」
志摩子さんが行かないのだから、とはわざわざ言わない。可南子や瞳子だってすぐに気づくことなのだから、この人たちが気づかないと言うことはないだろう。
「これ、見たかったんだ」
確かに、原作を映画化のニュースが報じられたときから注目を集めていた今期最大の話題作である。試写の段階ですでに「前から見たかった」という人がいても不思議ではない。
「凄いねえ、乃梨子ちゃん。本当にいいの?」
「ええ。もちろんです」
「えっと、何時からかな」
「試写は二時からですよ」
「それじゃあ、……少し遅めのお昼ごはんを食べて、それから映画かな。集合は十二時過ぎくらいで」
もう予定を組んでいる。
ここまで喜んでもらえると、譲った身の乃梨子としても嬉しい。
しかし、祥子さまは映画館というところに行くのだろうか。
なんとなく、どこかの特別室で特別上映されているものを見ている、というイメージがある。普通の映画館で普通に座って見ている姿というのは想像できない。
「じゃあ、集合時間はそれで。場所は駅前でいいよね」
「いいんじゃないですか?」
いつの間にかアドバイザーになっている自分に気づいたけれど、それはそれで構わない。招待状を有効に使ってもらえるのならよいことだ。
「じゃあ土曜日にね、乃梨子ちゃん」
「はい」
と返事してから乃梨子は気づいた。
「え? 私、ですか?」
「乃梨子ちゃんが誘ってくれたんだよ?」
「えっ」
いや、違う。祐巳さま祥子さまで行くようにと考えて招待状を渡したのだ。別に祐巳さまを誘ったわけではない。
それがいつの間にか、自分が祐巳さまを誘った形になっている。
「あの、祥子さまは?」
「お姉さまは土曜日は家の用事があるから」
そんなの知りませんでしたよ。と言いたいのを乃梨子は堪えた。
「ということは、私と紅薔薇さまで、映画を見に行く、と?」
「そうでしょ?」
不思議そうな顔の祐巳さま。乃梨子は言うべき言葉を失ってしまった。
その翌日の教室で、乃梨子はちくちくとした痛みを授業の間、ずっと背中に感じる羽目となっていた。
背後からの瞳子の視線が痛い。
今日は朝からずっとこの視線を浴びせられているのだ。
「あ、あの、瞳子? 何か私に言いたいこと…」
休み時間に何とか気力を振り絞って声をかけると、
「なんにもありませんわ!」
顔に大きく「大ありです」と書いてある。
「あのね、瞳子」
「別に乃梨子さんとお話しする用事はありません」
ああー、と思って席に戻ろうとすると、可南子さん。
「それにしても、びっくりですよ。まさか乃梨子さんが略奪愛に走るなんて」
こちらの顔はどう見ても笑っている。わかってて言っているのだ。
「可南子さん、あのねぇ…」
「ご安心ください。瞳子さんは私が慰めておきますから。お気遣いなく」
略奪愛はどっちだぁ! と叫びたいのを堪えて乃梨子は席に戻る。
どうしようかなあ、と考えながら首をふりふり考える。
ん?
視界の隅に怪しい影が。
アレはどう見ても、高知日出実さん。
きょろきょろせずにまっすぐこっちへ歩いてくる。
目があった。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
クラスは違えど、知らない仲ではない。
「取材、いいですか?」
白薔薇のつぼみに用事なのだろうか。
乃梨子は姿勢を正して向き直る。
「紅薔薇さまのことなんですけれど」
ぞわっ、と背筋に冷たいものがはしる。すでに話は新聞部にまで伝わっているんだろうか。
伝わっているのはいいとしても、いったいどんな形で伝わっているのやら……
『スクープ! 紅薔薇様と白薔薇のつぼみが不倫!?』
『白薔薇革命勃発!?』
『紅薔薇のつぼみの行動は!?』
『紅薔薇のつぼみの影に見え隠れするバスケット部員Kさん(仮名)とは!?』
頭の中に浮かぶのは大きな輪転機がぐるぐる回る絵と、それをバックに飛んでくる新聞の見出し。菫子さんにつきあって古めの映画ばかりを見ているので、乃梨子の頭の中はそんなレトロなイメージが結構多い。
日出実さんの好奇心たっぷりのまなざしに、乃梨子はその場を逃げ出したくなったけれどもう遅い。ここで逃げたら余計に怪しまれてしまう。
「次のお休みの日、紅薔薇様とデートなされるって本当ですか?」
ギン、と異音が聞こえたような気がした。またもや背後からの鋭い視線。そしてもう一つは生暖かな視線。
振り向くまでもない。瞳子と可南子さんだ。
乃梨子は慎重に答えることにした。嘘はよくない。そもそも、デートというのが勘違いなのだ。真実を話せば何の問題もない。
試写会のチケットが余ったから一枚譲った。ただ、それだけのことなのだ。
ゆっくりとはっきりと、入試の時の面接よりも緊張して乃梨子は取材に答えた。
「あ、いた」
答え終わると同時に、また別の声。
「日出実、何やってるの」
真美さまが怒ったような困ったような顔で教室の入り口に立っていた。
その後ろには紅薔薇さまと黄薔薇さま。二人とも、真美さまと同じようにして笑っている。
いきなり二人の薔薇さまを迎えた教室が騒然となるけれど、乃梨子はとにかく日出実さんの手を強引に引いて教室を出た。後ろをついてくる気配が二つあるけれど、とりあえずは無視。
「変な噂が立っちゃって」
階段の下、人通りのないところまで行くと、黄薔薇さまが呆れたように言う。
「それで、真美さんに詳しいところを聞かれたんだけど、詳しいも何も、祐巳さんが言う通りじゃない」
「私もおかしいとは思ったんけれど。確認はしたくなるでしょ? 薔薇さまの事となれば一番の話題なんだから」
「それはそうだけど…、乃梨子ちゃんのところにいきなり取材に行くのは…」
祐巳さまが困ったように日出実さんを見る。すると真美さまが日出実さんを軽く引き寄せていった。
「でも日出実はちょっと勇み足ね。これに関してはごめんなさい。私がよく言っておくから」
どうやら、日出実さんは自分のお姉様にも無断の取材だったらしい。
「もちろん、スールは関係なし。かわら版編集長として注意しますからね」
「え、お姉さま…」
日出実さんが目を丸くしている。その様子からすると、編集長としての真美さまは相当厳しいらしい。
「突っ走った取材は絶対に駄目。いつも言ってるでしょう? 特に個人のプライバシーに関わることは、慎重になりすぎるって事はないのよ」
「はい…。お姉さま」
日出実さんと真美さんに姉妹揃って頭を下げられると、乃梨子もそれ以上何も言えない。
ただ、妙な噂だけは否定してほしいとお願いする。事情を知っているはずの瞳子ですら、あんな風なのだ。事情を知らない他の人がどう思うか。
もっとも、瞳子の場合は自分でもどうしようもない嫉妬心に苛まれているような気もするけれど。
「噂を否定する真相をかわら版に書くのも却って変だしね。噂を聞くたびに否定するしかないか」
わざわざかわら版の記事にしてしまうと余計な注目まで浴びてしまう。真美さまの言う方法が一番無難だろうと乃梨子は思った。噂は噂。それ以上のものではない。
「それじゃあ、そう言うことで。行きましょう、日出実」
真美さまと日出実さんが行ってしまうと、由乃さまが大きく伸びをした。
「ま、白薔薇さんちの浮気なんて、乃梨子ちゃんと志摩子さん知っている人だったら絶対想像できないだろうけどね」
「由乃さん? それじゃあ、私と瞳子なら想像できるのかなぁ…」
「あ、そう言う意味じゃないよ。祐巳さん、顔が怖いよ」
「……つまり、由乃さんと菜々ちゃんでも想像できるって事だよね」
「祐巳さん、なんか怖いから。ごめん。ああっ、ごめんってば!」
乃梨子は仲良くけんかし始めた上級生をおいて、教室に戻った。
瞳子さんの視線が相変わらず痛い。しまった、これをどうにかするように祐巳さまにお願いすればよかった。と思ったけれどもう遅い。
次の授業が始まってしまうのだった。
そしてさらに翌日。試写会前日。
「ごめんなさい」
いきなり祐巳さまに頭を下げられ、乃梨子は当惑していた。
「どうしたんですか、祐巳さま?」
いきなり用事ができて、試写会には行けなくなったと言う祐巳さま。
乃梨子の頭には、卒業した元紅薔薇さまが浮かんだけれど、その辺りは追求しないことにした。
瞳子にしろ祥子さまにしろ、どうも悋気がきつすぎるような気がする。
祐巳さまも大変だな、と乃梨子は心から同情していた。
「仕方ないですよ、急用なんですから。試写会は一人で行って来ます」
「あ、そのことなんだけど」
実は、偶然その映画を見たいという人を見つけた、と祐巳さま。
「乃梨子ちゃんも知っている相手だから、もしよかったら、一緒に行かない?」
「どなたですか?」
一瞬、乃梨子の頭に浮かんだのは福沢祐麒。リリアンでの乃梨子の知り合いはすでに直接当たっているのだ。それ以外で祐巳さまとの共通の知り合いというと、どうしても弟さんが最初に浮かんでくる。
「祐麒じゃないよ」
それじゃあ本当にデートになっちゃうし。と祐巳さま。
ではいったい? と言う乃梨子に、祐巳さまは一人の名前を出した。
「あ、それなら」
日出実は駅前で待っていた。
福沢祐巳に急用ができて、代理の人が二条乃梨子と一緒に試写会へ行くという情報を得たのだ。しかも、それはリリアン生ではないという。
リリアン生でなく、福沢祐巳の知り合いといえば、最初に思うつくのが福沢祐麒だ。本人たちは意識していないが、福沢祐麒はリリアンでは(男の割には)ちょっとした有名人なのだ。
もし、福沢祐麒と二条乃梨子のデートになれば、これはスクープの価値がある。
何しろ、リリアン時期生徒会長確当の白薔薇のつぼみと、花寺の現生徒会長である。ビッグカップルである。
(ごめんなさい、お姉さま。だけど、これはビッグスクープなんです)
すでに乃梨子さんは把握している。後は待ち合わせの相手を……
来たっ!
……あれ?
日出実はカメラから目線を外して首をかしげる。
アレはどう見ても女の子。見覚えがあるような気がすると言うことはリリアン生だろうか。
こんなの、スクープにも何にもならない。白薔薇さまが所用で乃梨子さんとつきあえないことはわかっているのだ。その代わりに友達と行くなんて、何のニュースにもなりはしない。
「諦めついた?」
「はい。……え?」
驚いて振り向いた先にはお姉さま。
「どうして…?」
「日出実のやりそうなことくらい想像つくわよ。どれ?」
日出実の見ていた方向に目をやって、納得するお姉さま。
「ああ、あの子か」
「知っているんですか? お姉さま」
「まあね。知る人ぞ知る有名人よ」
「そうなんですか…」
「さ、行きましょうか」
「どこにですか?」
「デート。せっかくの休みの日なんだし、せっかくだからこのまま遊びに行きましょう」
「はいっ!」
そして乃梨子は、有栖川金太郎とともに試写会へ向かうのだった。