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祐巳さんと可南子ちゃん
「魔法の言葉」
 
 
 
 薔薇の館の中、お姉さまが洗い物をしている。
 本当は可南子の役割なのだけれど、可南子にはお姉さまから直々に別の仕事が与えられていた。そちらは可南子にしかできないことなので、洗い物をお姉さまが引き受けているのだ。
「両方とも私がやりますよ」
「いいよ。二人でやれば早く終わるんだから。それに、可南子にお願いするほうが、本来なら私の仕事なんだから」
「それだと、妹の立場がありません」
「手間仕事をさせるために妹にした訳じゃないよ?」
 お姉さまは怒ったような調子で言う。
「好きだから、妹にしたわけだし」
 こういうことを、さらっと言ってしまう人なんだ。
 可南子は目の前に自分の姉の性格を再認識すると、赤くなった頬のままで書類棚を物色する。
 高い位置の奥の方に入ってしまった消しゴム。お姉さまでは椅子に乗ってもギリギリ届かないと言うのだ。可南子なら、椅子に乗れば充分届く。
 消しゴムくらいなら別に放っておいても甲斐はないのだけれど、もったいないとお姉さまが言うのだから、妹としては可能な限りそれを取るのが努めというものだ。 
 結局、それほどの苦労もなしに消しゴムはとれた。ついでに、奥の方に転がったまま忘れられていたいくつかの文具も取り出した。よく見ると、「島津」とか「佐藤」とか書かれたものもあって、持ち主の性格がよくわかる。
 ついでに雑巾で棚の中を拭いておく。この辺りは手が届きにくいも事もあって掃除が行き届かないのだ。
 雑巾がけを終えて振り向くと、洗い物はまだ終わっていない。
 これは手伝うべきだと、可南子は洗い場へと移動した。
「こっちももう終わるよ」
「そうなんですか?」
 中途半端な位置で止まると、お姉さまが一歩下がった。
 振り向かずに、お姉さまは洗い終わったコップを布巾で拭いている。
 可南子は一瞬ためらったが、そのままの姿勢で作業が終わるのを待つことにした。
 そしてすぐに、今の自分の体勢に意味に気付く。
 お姉さまの頭がすぐ目の前にある。手を伸ばせば届く位置にはお姉さまの身体が。
 可南子の顔前には、シャンプーの匂いと混ざったいい香りが立ち上ってくる。鼻腔をくすぐる香りに可南子は一瞬、陶然とするに近い感情を覚えていた。
 これが劣情と呼ばれる感情なのだろうか。だとすれば、これはいけないことなのだ。
 可南子は自分の想いが自分の望みと一致していないことに戸惑っていた。
 抱きしめたい。ぎゅっと抱きしめて、いつまでもそのままでいたい。
 封じ込めるようにして、このまま一緒にいたい。
 だけどそれはいけないこと。
 あの日あの時、温室の中での出来事をもう一度招くこと。祥子さまの哀しい顔、あの人の期待を裏切ってしまう自分。そんなものはもう二度と見たくない。
 このままだと、手の届く位置に確かに存在する温もりがそんな想いを今にも、この瞬間にも粉々に打ち砕いてしまいそうで。
 ……この人はなんて罪な人なんだろう
 これほど愛おしいのに。これほど想っているのに。
 愛している、と言葉にするのはたやすいけれど。きっとそんな言葉では表せないほどに“愛している”のだから。
 言葉があるからもどかしい。
 人間が言葉を持っていることが恨めしい。
 言葉のない世界なら、人々が言葉というツールを持っていない世界なら。
 ただ、抱きしめれば事は済む。抱きしめて想いを伝えれば全てが通じるだろうに。
 なんて虚しいのだろう。言葉なんて。
 だから可南子は、お姉さまの肩に置かれた手に力を込めていた。
「可南子?」
 訝しげな声も耳に入れないようにして、ただ、力を込めて引き寄せる。
 わずかな抵抗も感じず、その身体は可南子に重なる。いや、引かれあう引力すら感じたのは、自ら倒れ込む気配すら感じたのは可南子の勘違いだろうか。
 身体に感じる暖かみと重みをしっかりと抱きしめるのは、この状況では至極自然な行動だと信じたかった。
 今抱きしめなければ、この安らかな温もりは消えてしまう。この両腕に力を込めなければこの優しい重みは消えてしまう。そうやって想像するだけで泣きたくなるような喪失感が襲って来るというのに、実際に手放すことなどできるわけがない。
 だから、この手は離さない。いや、離せない。
 そっと、抱きしめていた。
 
 そのまま、何時間もいたのだろうか。
 それとも数分、いや、数秒の出来事だったのだろうか。
「可南子」
 静かなお姉さまの声。
「駄目だよ。可南子」
 あくまでも優しく諭す声。
「困っちゃうから、ね」
 ごめんなさい、と言う言葉すら、発してしまえば全てが抜けていきそうで。可南子はただ無言で抱きしめている。
「離して、可南子」
 逆らうことのなど、理の外だった。だから情を押し込めて、可南子は両の手から力を抜いた。
「うん、それでいい」
 口を開けば嗚咽になる。それが悔しさか、悲しさか、それとも情けなさか。どれであれ、可南子は無言でうなだれるだけ。
 こうして暴走する自分は浅ましい。
 浅ましいが故、切ない。
 ただ一瞬の甘美な時間の誘惑に耐えかねて、二人の関係を壊さずにはおかない自分の浅ましさ。その浅ましさすら、笑って許すであろう姉、その笑顔が切ない。
「違うよ」
 そう言われて初めて、可南子は自分に気付いた。
 目端から流れかけている涙。それを悟られまいときつく噛みしめている唇。
「背中から抱きしめられたら、抱きしめ返せないよ」
 言葉が終わるともう一度可南子の懐に帰ってくる、暖かさ、温もり、香り。
 だけど、暖かさも重みも香りも、ただ一言の前には何ほどもない。
 お姉さまの言葉は魔法の言葉。
 可南子はそれを、知っている。
 
 
あとがき
 
 
 
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