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 あの人は。
 勝気な光を瞳に宿らせ、自信に満ちた声で。
 この場所において重要な意味をもつ金属片を差し出し。
 きっと生涯忘れられない言葉を、私に言ったのだ。
「私の妹になりなさい松平瞳子。 ――そう。私たちはどんな姉妹よりも合う二人なのだから」
 
 
―――育てる準備をはじめましょう―――
 
 
 人に寄せる感情は、星の数ほど様々で。
 好意か、嫌悪か。それだけで表せるなら、人間関係はもっとシンプルになるだろう。
 その二つで表せない感情が、自分の中に生まれたとき。
 それの処置の仕方を、私は知らなかった。
 
<1. 瞳の中に映る、その――。>
 
 右手には、温もりが残っている。
 実際には残ってはいないだろうが、瞳子の心の中に残り続けている。
 その感触を、その温度を、そして、その手の持ち主を。
 思い出すたびに、心がさわさわとざわめく。
 窓の外を見ても、落ち着かない。空に、あの人の顔が浮かんでしまう。
 また、右手に視線を落としてしまう。
 ため息。もう、数えるのすら億劫になるほどの。
「…あー、いい加減声掛けるけど。瞳子、あんたさっきから面白すぎるよ」
 と。乃梨子さんが声をかけてきたから、先ほどまでのルーチンワークにようやく気がついた。
「な、な、な、な、何を言ってらっしゃるの乃梨子さん。私はなにもしていなくてよ」
「何もしてないのが問題なんでしょうが。ったく、気がついてないだろうなと思ってはいたけど、これ以上は本当に馬鹿の所業だよ? 言いたいことは言って、ケリをつけることはきちんとなさい。いつもキャンキャン五月蝿いアンタが静かだと、調子狂っていけないわ」
 言いたいこと。それが何で、誰に言いたいのか、なんて。
言葉にしないのはきっと、瞳子よりも深く深く想いを理解しているだろうから。
「それは失礼ですわね。瞳子はキャンキャンなどしてなくてよ」
 だから、どうでもいいところにしか反論できないのだ。
「してるっつーの。いや、今言うんならしてた、かな。アンタ学園祭からしぼんでるでしょ。その、あれだ。気になって仕方が無いからね、ちと忠告してみたの」
 感謝の言葉の一つも贈るべきだろうか。
 だけど、それは口から出ることはなくって。だって、既に自分でも知っているから。
 判っているのだ。原因はあの時。そしていつからか想いを募らせてしまったときからだってことくらい。
 想い。それは――。
「好きの一言くらいが何でいえないの?」
 好き? それは、きっと違う。
「ではどうして乃梨子さんは言えるのですか」
「好きだからに決まっているでしょ。そりゃ恥ずかしいけどね」
 恥ずかしいから、言えない。それは正しいけど少し違う。
 だって、瞳子の、この気持ちは。
 
 好きとか、嫌いとか、そんなのとは違う。違うのだ。
 あの人に。祐巳さまに向けるこの想いは。
 
 主語を廃して会話をしていても成立するということは、乃梨子さんもきっと瞳子の想っている相手がわかっているのだろう。
 でも、その想いの方向性を、彼女は読み違えているのだ。
 嫌いではないことは確かだ。むしろ、嫌いになったことなんて、たった一度だけですぐに上方修正された。
 だけれど、好きだといえばそれは絶対に違う。
 なんだろう。
 この気持ちは、本当に、なんなのだろう。
「乃梨子さん。勘違いしてらっしゃるようですけれど、私は好きとかそういう気持ちを抱えているわけではなくてよ」
「あ、そうなの? ならどんな気持ちなんだろうね、瞳子のソレは」
「……それが判れば、先ほどのような醜態はさらしませんわ」
「そっか。そうだね、それは失礼した」
「いえ、ありがとうございます乃梨子さん。自分で考えられるくらいの余裕は取り戻せましたし」
「ん。なら良かった」
 余韻も何も無く、さっとその場から去っていく乃梨子さんのその背中を見て。
 もう一度だけ、感謝の言葉を心の中で呟いた。
 薔薇の館を、遠巻きに見る。
 放課後。今日は、演劇部の活動もなく、久しぶりの自由行動が許されていた。
 もう、あそこに足を踏み入れることはないのだと思うと、どこかで風が吹くような気さえするけれど。それは当然なのだと我慢しなければいけない。
 部外者は立ち入れない、なんてことはないくらい承知している。
 そも、部外者なんてこの高等部の生徒であるならばありえないことだとも。
 しかし、こんな不安定な気持ちのままであの人に会う事が出来るとは、瞳子には到底思えなかった。
 そんな時だ。
「……ちょっと、いいかしら」
 振り向くと、そこには黄薔薇のつぼみの――。
「由乃さま? …私に御用でしょうか?」
「まあね。時間はとらせないから、少し付き合ってくれる?」
「…はい。わかりました」
 先を行く由乃さまについていく。
 もともと放課後ということもあって、人は少ない。
 だが、歩けば歩くほど、そのただでさえ少ない人がますます遠のいていく。
 由乃さまが立ち止まったそこは、校舎の裏で。そこは誰も人の気配が無い場所だった。
「…ここで、何の話ですか」
「ふうん、察しがいいわね。私が何か話しをしたい、って気付いてたんだ?」
「別に…。ここまで人気の無い場所まで連れてこられては、誰でも気付きますわ」
 相当に鈍い人間でさえなければ、そのことくらいはすぐに気付く。それに会っては軽い口げんかをするような相手が声をかけてきたのだ、何か用があるに決まっている。
「そ。なら単刀直入に言うわ。 …言っておくけど、驚かないでね」
「大丈夫ですわ。相当のことでなければ取り乱すことなんてありえません」
「ふーん。なら、はいコレ」
 しゃらん、と金属がこすれあう音がする。
 由乃さまが取り出したソレは、太陽の光を反射して鈍く輝いていた。
 それは、この場所における、大切な――。
 
「私の妹になってみない? コレ、受け取って」
 
 目が点になる、という言葉を体感するとは思っていなかった。
 それくらい、目の前にいる人物の言葉が意外だったのだ。
「……何の、冗談ですの」
 声を絞り出して、ようやくそれだけを発音する。
 そんな行為に、これほどの労力を消費するなんて想像したことがあったろうか?
 身体から力が抜けていくような感覚すら覚えてしまう。
 しかし、そんな苦労を知らずに、目の前の人物は言葉を続ける。
「こんな冗談なんて言わない。私は私なりに、考えて行動したのよ。 …それとも何? 私じゃなく、他の『誰かさん』なら一も二もなく受け取ったのかしら?」
 その言葉は。
 きっと瞳子の中に燻っていた何かを刺激した。
 そう、名前を出していなくとも、誰を指しているかなんてすぐ判る。
 目が、そう言っていたのだ。
 爆発する。抑えが、利かなくなってしまう。
「違う――」
「何が、違うの?」
「違う、違う違う違うっ! 私は、私は、あの人のことなんて、ちっともっ、なんともっ、思っていませんわっ! 皆、皆勘違いなさっているのですっ! 私があの人のことを好きだなんて――」
 そう。好き、なんて、思うはずが無い。
 なのに。どうしてあの姿が、声が、忘れられないのか。
「そ。ならいいの。問題はそれじゃない、私のロザリオを受け取るかどうかよ。どうするの?」
 その態度が癪に障る。
 どうして、こちらの気持ちを揺さぶっておいて放置してしまうのだ。
 そんなもの、受け取れるはずがないことくらい判るだろうに。
「受け取れませんっ! どうして、私にそれを差し出したのかすらも理解できませんわっ」
「…ま、どうせそうくるだろうとは思っていたからいいけどね。 …今は、諦めるわ」
 そう言って、由乃さまはくるりと背を向けて去っていく。
 その背中を睨み付けている自分が判る。
 それは、きっと敵を見る視線に近い。瞳子の中で、今まで何となくでしかなかった彼女の位置が敵にカテゴライズされたと思う。
 そんなことを考えていると、突然由乃さまが振り向いて、こう言った。
「一つたとえ話。祐巳さんといるときのある人はね、周りに被っている猫を全部脱ぎ捨てられるのよ。それが、心地良いか悪いか、それすらも判らず苛々するかは、まぁその人次第ね」
 見透かされた、と思った。
 自分すらも理解できない深い所を言い当てられた、そんな居心地の悪さがする。
「その話がどうしたの、ですか」
「別に。ただまあそんな人もいるよね、って話」
 そう言い残して、今度こそ由乃さまは去っていった。
 瞳子の心に、何かの痕を残して。
 その日から、ことある事に由乃さまは瞳子に対してアプローチするようになった。
 どんなに激しい言葉を用いて断っても、次にはそ知らぬ顔でロザリオを差し出すのだ。
 それはとてもしつこく、人目を憚らず行われるものだから。
「いい加減にしてくださいませんか由乃さま。噂になっていることくらい判っているでしょう? そのことで私は大変な迷惑をこうむっているのですが」
「まあまあ、そう言わずに。どう? 気持ち、変わった?」
「毎日聞かれて変わる方もどうかと思いますが」
「ま、それもそうね」
 話が進んだかと思えば、巧みにはぐらかされたり、話そのものがすぐに終了してしまったりと、まるで要領を得ないやりとりをしているのだ。
「ふーん、やっぱりアンタの踏ん切りをつけさせないと駄目かもね」
「踏ん切り、ですって?」
「そう、踏ん切り」
 何に対して、どんな踏ん切りだというのか。
 そう、そんな風に進展を見せようとしているかのように、最初のあの日と同じ、校舎の裏で話している。それは、その表れなのか。
「そうね、瞳子ちゃん。貴女のモヤモヤ全部取り払わないと私との話もまともに出来ないでしょう。それが、踏ん切り」
「モヤモヤ……?」
 何だというのか。
 瞳子ですら理解しきれないこの感情が、この人には理解できるのか。
 煩悶としたそれは、茫洋としていてカタチをもたないはずなのに。
「そういえばさ、貴女演劇部だったわよね。やっぱり、昔からやっていたの?」
 話が、変わる。そういう急な話題の変化の仕方が、瞳子には馴染めない。
 一回はじめた話を放置しておくから、この人に今まで良いようにされていたのだ。
 判っていても、動揺してしまう。
「……ええ。昔から、女優になると言っていた気がします」
「だから、か。それに貴女はいいとこのお嬢さんだもんね、仮面つけるのが当たり前だったんだろうなぁ」
「――!?」
 仮面。その言葉は、どうしてか胸に突き刺さるような響きを持っていた。
「でも、それ自体は悪いことじゃないわよね。ありのままの自分で人の中にいれるほど、この世界は綺麗じゃないもの。それに、つけられる仮面が多いのはそんな世界における処世術とも言えるわ」
 どくんどくんと、鼓動が激しくなっていく。
 怒りと驚きを超えて、恐怖が瞳子の心を占めていく。
 何故ここまで、見透かされているのだ。
 瞳子が、これまで考えていたこと。無意識の中であろうと、それは瞳子の心だ。
 どうして? その言葉だけが、頭に浮かんでいく。
「不安? 自分の心が、曝け出されるのって、落ち着かないでしょう? 特にソレが自分の良く知っている人相手だと、顕著になるのよね。 …それが、きっと全て。仮面をつけて生きていくことに慣れてしまうと、素顔を見せるのが怖くなる」
 それは、真実でありそうではない、と思う。
 だって、瞳子は自分の心をきちんと曝け出すことができる。勿論相手は選ぶけれど。
 だから、後半は、違う。
「…それは、私のことですか」
「多分、ね。予測だから、まあ違うかもしれないけど」
「ええ。違います。私は素顔を見せるのが怖くなんて――」
「でも、落ち着かない。それは、何故?」
「それは……」
 そうだ。落ち着かない。
 仮面を外されて、素顔を見せるのが嫌なわけではない。
 もちろん、意図しないところで外されるのは驚く。
 けれど、嫌なわけではないし、怖くも不快でもないのに、どうしてなのだろう。
「それは、きっと。仮面をつけなくても生きていける人を、羨ましく思ってしまうから。そんな人がいることに、単純に感動してしまうから」
 由乃さまは、まるで。
 自分がそうだと、言っているようで。
 羨望で、尊くて。そんな感情が、身近な人に向けられることが信じられないみたいな、そんな顔をしていた。
「祐巳さんはさ、凄いよね。裏も表もなくて、それなのにあんなに深い。私はこれまでの生き方と、私自身を否定しない。けれど、たまに思う。彼女みたいに生きられたら、それはどんなに素晴らしいかって」
 羨ましい。それは、自分がそう在れたら、どうなるかという心。
 ただ、羨ましい。そして、そんな存在が素晴らしいと、ただそう思う。
 それは、きっと。
「……そう。そうなのですね。私が、祐巳さまに向けているこの感情は、ただの羨望と、ただ尊いと思うだけだった。だから、私はこんなにも――」
 
 こんなにも、あの人のことを考えて、落ち着かなくなる。
 それは、そう在れない自分の悲鳴と、歓喜の声なのだ。
 
 別に、仮面をつける自分が嫌なわけではない。
 そういう自分が、瞳子は気に入っている。
 けれど、そうでなかったら、と考えたことが無いわけではないから。
 だから、目の前にそんな『もしも』の住人がいて。
 あんなにも意識してしまったのだ。
「……モヤモヤ、解決したみたいね」
 由乃さまが、まるで勝利者のような笑みでこちらを見ている。
 確かに、この気持ちに気付かせてくれたのはこの人だ。
 けれど、こんなことで勝ちと思ってもらっては、瞳子としては困るのだ。
「ええ。ですけど、だからといってこれで勝ちと思っては――」
「別にそんなこと考えちゃいないわよ。ま、今日は時間もないし勧誘は諦めるけどね」
「勧誘…って。由乃さま、そんな風に考えているのですかっ」
「言葉のアヤよ。それじゃね瞳子ちゃん」
 手を振って、由乃さまは去っていく。
 しばらく、瞳子はそこにいた。
 空を見上げる。
 由乃さまのカテゴライズを、もっと上に押し上げてもいいと思った。
「で、瞳子ちゃん。何の話?」
 放課後に、祐巳さまを呼び出した。
 話す必要は無い。瞳子がどう考えているかなんて、目の前にいるこの人には全くもって意味が無いのだろうと思うからだ。
 これは、ただの自己満足。気持ちというものは、はっきり伝えないとどこかで何かが食い違う可能性もある。自分でない誰かが不幸になってもいけない、なんていうのはただの理論武装だったりするのだ。
「祐巳さま。私は、祐巳さまの甘いところが大嫌いです。無防備な顔も気に入りません」
「……あ、そ、そう。そっか。うん、判った」
 祐巳さまは、しゅんとした顔で、今にも泣きそうだった。
 感情がこんなにも、ストレートに出る。
 仮面なんて、必要ない貴女は、憧れであって。
 ただ、瞳の中に映せるだけで、瞳子は――。
「ですけど。そんな祐巳さまは、とても素敵な人物だとは思います」
「え? と、瞳子ちゃん? それって――」
 もう、心はざわめかない。
 ただ、心地いい。
 自分とは違う、もしかしたら理想だったかもしれない、そんな人間がいることが。
 それが、自分の傍にいることが。
「それが言いたかったのです。それでは」
「あ――うん。 …ありがとう、瞳子ちゃん」
 背を向けて、歩いていく。
 振り返らずに。
 右手を眺める。
 そこに残っていた温もりは、消えていた。
 繋がっていたかった心は、もう微塵もないということだと、思った。
 
「あ、いたいた、おーい、瞳子ちゃーん。松平瞳子―っ。ほらほらこっちこい、少しお話しましょうねーっ」
 ため息。
 まだ、最大の課題が残っていたのだった。
 けれど、それは今までとは違って。
 何となく前向きに考えてもいいかな、と。
 何故か口元に笑みを携えて。
 瞳子は、周囲の目も気にせず声を上げる、その上級生のもとに歩いていった。
 
 
→To next story by YOSHINO
 
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