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黄薔薇嵐
 
 
2「心の中は土砂降りで」
 
 どうやって帰ったのか、覚えていない。
 令ちゃんは出かけていて、いなかったから、一人で部屋に籠もった。
 気が付くと夜になっていて、涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
 
 蓉子さまには、祥子さまがいた。
 聖さまには、志摩子がいた。
 江利子さまには、令ちゃんがいた。
 祥子さまには祐巳が、志摩子には乃梨子ちゃんが、令ちゃんには私がいた。
 祐巳には……可南子ちゃんと瞳子がいる。
 私には…誰もいない。
 祐巳には、可南子ちゃんと瞳子がいる。
 聖さまも、祐巳を愛していた。勿論、祥子さまも蓉子さまも。
 祐巳は、みんなに愛されている。
 私だって、祐巳は好きだ。
 でも…祐巳は瞳子を奪っていく。瞳子は祐巳について行く。
 みんな、祐巳を愛している。
 私は……。
 
 令ちゃん、もう帰ってきてるだろうか。
 私は、令ちゃんに無性に会いたかった。会ってもう一度、令ちゃんに言って欲しかった。「由乃が好き」と。それだけで良かった。
 明日、薔薇の館でたった一人になったとしても、令ちゃんがいると思えば耐えられる。
 自分の家を出て、令ちゃんの家に向かう。
 ドアの鍵は閉まっていない。私は何も言わず入っていった。
 令ちゃんがいた。電話をかけている。
 私が入ってきたことに気付いてないんだ。今脅かしたら、令ちゃん怒るかな?
「……うん。大好きだよ。改めて電話で言うと照れるけどね。判ってる。由乃には黙っておくから。それじゃあね、祐巳ちゃん」
 令ちゃん?
「由乃、いつの間に?」
 令ちゃん、慌ててるの?
「うん。鍵が閉まってなかったよ。不用心だね。まあ、泥棒くらいおじさんならパパッとやっつけちゃうんだろうけど」
 私、なんて平然としゃべっているんだろう。
「令ちゃん、誰かと電話してたの?」
「あ、うん。大学の友達とね」
 令ちゃん。
「ところで、由乃、こんな時間にどうしたの?」
「ううん、なんでもない。ただ、なんだか会いたくなって…」
 令ちゃん、お願い。
 微笑んでる。令ちゃん。でもその微笑みは…隠し事をしているときの顔だよね、令ちゃん…。
「部屋に上がっていい?」
「いいけど…」
 令ちゃん、お願い。私を捨てないで。
「私明日早いんだ、あまり長居はできないよ?」
 令ちゃん、私を捨てないでよ。
「ああ、うん。それじゃあいいの。たいした用事じゃないし」
「そうなの?」
 違うよ。令ちゃん、気付いて。
「うん。じゃあおやすみなさい」
「うん、おやすみ、由乃」
 
 そうか…。
 私は一人じゃ駄目なんだ。
 走れないんだ。誰かがいないと。
 令ちゃんがいないと、私は走れない。
 一人じゃ駄目なんだ。
 そして、今の私は一人なんだ。
 みんな、祐巳のことが好きなんだ。
 支倉令も、松平瞳子も…
 福沢祐巳が奪っていくんだ……。
 返してよ。
 返してよ。祐巳。
 私の大切なもの、どうして貴方は全部持っていくのよ。
 返してよ。
 
 
「ごきげんよう、お姉さま」
 マリア像の前で、瞳子が待っていた。
「ごきげんよう」
 取りあえず挨拶を返す。
「お姉さま、もう身体の調子はよろしいんですの?」
「うん。よくあることだったからね、これでも昔に比べればマシになったほうよ」
「黄薔薇さま、ごきげんよう」
 他の生徒達の挨拶に応える。今の私は黄薔薇さまだから、こんな目立つ所で瞳子を問いつめるわけにはいかない。
 もっとも、これだけ何かも失った黄薔薇さまというのもおかしいけれど。
「昨日は申し訳ありませんでした」
「お母様の用はきちんと済ませたの?」
「はい。おかげさまで」
 最後の綱は切れた。もしここで瞳子が何か別のことを言ってくれれば…。嘘でもいいから、「急用で祐巳さまと会ってましたの」と言ってくれれば…。
 
「ごきげんよう、由乃」
 そうだ。教室には祐巳がいる。
「ごきげんよう、祐巳さん」
 祐巳の表情が訝しげなものになった。
「あれ、どうしたの、由乃」
「どうかした? 祐巳さん」
 正式に紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さまになったとき、私たちは話し合った。過去の蓉子さま、聖さま、江利子さま、そして先代の祥子さま、令さまのように、名前で呼び合おうと。
 それだけ親しくなれている、私たちは。
 そう信じていたのがいつだったか、もう私は思い出せない。
「うん。由乃、その呼び方…」
「それよりちょっと聞きたいんだけど、いいかしら、紅薔薇さま」
 この呼び方なら、拒めない。
「昨日は何をしてらしたの?」
「可南子とデートだけど? デートって言っても、土曜日から可南子がウチに泊まりに来てたんだけどね」
 あなたもなのね、紅薔薇さま。
 あなたと瞳子が会っていたことは誰が知っているのかしら。
 
 休み時間に、瞳子がやってきた。
「お姉さま」
 へえ、珍しい。紅薔薇さまじゃなくて私なんだ。
「調理実習で作ったんです」
 プティングか…。
「ありがとう、瞳子」
 私は手を滑らせた。
 ガラスの割れる音。床に広がるプティング。
「ごめんね、瞳子」
 ガラスを片づけ、もう一度瞳子に謝ると、私は教室を出た。
 適当に時間を潰して戻ると、紅薔薇さまはプティングを食べていた。
 つまり、そういうこと。
 ちゃんと、二つ作ってたんだ。
 
 薔薇の館にも顔を出す。
 志摩子には罪はない。乃梨子ちゃんにも。
 多分、可南子ちゃんにも。今のあの子は、紅薔薇さまが命じればなんだって従うだろうから。
 そうか。 
 私はまた一つ理解した。
 だから瞳子が黄薔薇のつぼみなんだね。可南子ちゃんだと私を騙せないと思ったんだね、紅薔薇さまは。
 薔薇の館には久しぶりに全員が揃っていた。
 可南子ちゃんがお茶を入れてくれた。
 私は礼を言ってお茶を飲む。
 静かな、薔薇の館。
 私は、今日一日の自分を思い返してみた。
 怖い。
 私は、こんなに簡単に何かに囚われてしまったのだろうか。
 今の私は、ハリネズミのようにとがって、近づくものを傷つけようと身構えている。
 最低だ。
 こんなこと、続けられるわけがない。
 でも、私を止めることができる人はいない。
 私ですらも。
 
 
「瞳子、今日はよくつきまとうわね」
 私は尋ねた。ここなら一般生徒はいない。瞳子と紅薔薇さまに何を言うこともできる。
「反省してるんです」
 反省? 何を? あなたが?
「もっとお姉さまを大切にしなきゃ駄目だって」
 何を言うの? 
「紅薔薇さまに注意されたんです」
 ああ。わかった。紅薔薇さまの言うことなら、聞くのね。
「そう。注意を受けたのね」
「はい」
「昨日の話ね」
「…」
 瞳子は答えなかった。
 それで充分だった。
「…ないでよ」
 うまく話せない。ろれつが回らない。
 紅薔薇さまと可南子ちゃんが立ち上がってこっちに近づいてくる。
「馬鹿にしないでよ!」
 私は瞳子を突き飛ばしていた。
 私はそのまま、薔薇の館を出た。
 
 
 結局、ここなんだ。
 私は、古い温室にいた。
 薔薇の館の住人なら、一度は訪れている所。私も例外ではなかった。
「由乃、やっぱりここね」
 志摩子だった。
 その後ろには紅薔薇さまもいる。
「由乃、ごめんなさい、昨日は…」
 紅薔薇さまは、人の心を懐柔するのがお上手。
 …ワタシハナニヲイッテイルノダロウ
「もういいよ」
 私は笑っていた。
「どうせ、瞳子が紅薔薇さまの所に駆け込んだんでしょう? もういいの。わかったから」
「由乃、何が判ったの?」
「瞳子は私の妹になったんじゃないって事…。あの子は黄薔薇のつぼみになりたかっただけ。愛しの紅薔薇さまがが可南子ちゃんを選んだから、少しでも近くにいるために私を利用しただけ。誰でも良かったのよ、紅薔薇さまのそばにいる人なら、志摩子でも、真美さんでも、蔦子さんでも…」
「由乃、瞳子ちゃんはそんなこと考えてないよ」
「いいよね。紅薔薇さまは。誰からも好かれて…」
 …ヤメナサイ、ワタシ。ソレハイケナイ
「志摩子のお姉さまを盗った後は、私の妹を盗るんだ、あなたは…」
「由乃…」
 悲鳴を上げるように両手で口を覆う志摩子。
 祐巳が呟いた。
「……聖さまのこと、そんな風に思ってたの?」
「志摩子だってそう思っていたわよ!」
「由乃!」
 声を荒げる志摩子を見るのはどれほど久しぶりだろう。
 でも志摩子…どうしてそんな目で私を見るの?
「嫌だよ、こんなの、由乃」
 紅薔薇さまが私の手を取ろうとした。
 私は反射的にその手を避け、払いのける。
 乾いた音。
 信じられない。紅薔薇さまの目がそう言いながら、身体が横に倒れる。
 払いのけた手は、平手打ちのように紅薔薇さまの頬を打っていた。
 紅薔薇さまに駆け寄る志摩子。
 志摩子は私を見た。
 どうして、そんな目で私を見るの?
 あなたと私は、紅薔薇さまよりも早く、一緒に山百合会にいた。あなたは白薔薇のつぼみとして、私は黄薔薇のつぼみの妹として。
「ふーん。志摩子さんまでその人を選ぶんだ」
 …ナニヲイッテイルノワタシハ
「みんな…紅薔薇さまを選ぶんだ…」
 …ヤメテ
「紅薔薇さま、嬉しい? ねえ。もててもてて嬉しい?」
 …イヤダヨ
「あなたにはいつも誰かが一緒にいるじゃないのよ!」
 …イヤダ イヤダヨ タスケテ タスケテヨ
「由乃。違う。あなたには私たちがいる…瞳子ちゃんもいる。乃梨子ちゃんだって、可南子だって…」
「そうやっていつまでも八方美人続けていてよ! みんながみんな、あなたを好きでいる人たちじゃないのよ!!」
 …ワタシナニヲイッタノ? チガウ コンナコトイイタクナイ
「返してよ…瞳子を…返してよ、令ちゃんを…」
 …タスケテ タスケテヨ レイチャン トウコ ユミ……
 私は、すすり泣き始めていた。みっともないと思う気持ちすら、とうに枯れている。
 紅薔薇さまが立ち上がった。白薔薇さまが寄り添う様に肩を抱いている。
 足音。
 二人が去っていく。温室から、二人が去っていく。
 そして、私は一人残る。
「私には、もう誰もいないんだ…誰も」
 悲しみよりも、とてつもなく笑いたい衝動が襲ってくる。
 それでも私は、涙を流し続けていた。
 
  
 
 −続−
 
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