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惑いの白 癒しの紅
 
 
 
2「未明の訪問者」
 
 
「ごめんなさい、祐巳さん」
 寝ぼけ眼で祐巳は、目の前の友人を見ていた。
「……志摩子さん?」
 背後では、たまたま生徒会の用事で朝早く出かけようと準備していた弟が、こちらの様子を伺っている。
「ごめんなさい。祐巳さん。こんな朝早く。だけど、昨日のうちにお願いしておいたはずだと思うのだけれど…」
 確かに。昨日のうちに「明日の朝、可南子ちゃんの家に案内して」と言われていた。
 でも志摩子さん、まだこんな時間。朝と言うより早朝なんだけど。
「うん……、確かに…約束し……」
「祐巳、立ったまま寝るな」
 背後から祐巳の身体を支える祐麒。
「えーと、藤堂さんでしたよね。とりあえず中にどうぞ。申し訳ないですが、両親はまだ寝ているんでお静かにお願いします」
 そう言われて、ようやく志摩子さんは自分の行動に気付いたらしく、真っ赤な顔で頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
(もっと落ち着いた人だと思ってたし、祐巳の言ってた感じじゃないな)
 事情を知らない祐麒にしてみれば、今の志摩子さんは単なる「早朝からやってきた迷惑な姉の友人」でしかない。
「祐麒」
(でも確かに綺麗な人なんだよな。なんか事情があって慌てているのかな。でもそれだったら祐巳を頼るのは変だよな)
「祐麒」
(はっきり言って頼りないぞ、祐巳は)
「祐麒、いつまでどこ触ってんのよ」
「え?」
 気がつくと、祐麒の手は祐巳を背後から支えていて…それはいいのだけれど…、指先がちょうど胸の辺りにある。
 しかも、今の祐巳は薄手のパジャマ姿。
「ああっ、ご、ゴメン、祐巳!」
「そう思ったらさっさと離す」
 謝りながらもまだそのままだった手を、祐麒は慌てて引きはがす。
「ごめん。本当にゴメン。でも、わざとじゃないよ」
「うん。それはわかる。でも今度やったら柏木さんに言いつける」
「なんであいつが」
「そうすると花寺生徒会全員に伝わるでしょ?」
「げっ」
 祐麒は真っ青な顔で頭を下げる。
「ごめん。ホンットーーーにゴメン。帰りになんか買ってくるから」
「いつものケーキ屋のチョコマーブルなら許してあげる」
「わかった。買ってくるから。どうかこのことは内密に」
 落ち込んだ表情のまま、志摩子さんの横を通って出て行く祐麒。
「あの。もしかして私のせいで祐巳さんに…?」
「いえ。いいんですよ…それじゃあ…ごゆっくり…」
 暗いオーラを発しながら去っていく祐麒の後ろ姿を、呆気にとられて見送っている志摩子さんだったが、すぐに我に返る。
「祐巳さん。早く起こしてしまってごめんなさい。一刻も早く乃梨子に会いたくて…」
「志摩子さん、朝ご飯食べた?」
「え。いいえ、今日は始発に合わせて急いで家を出たから、まだ…」
「じゃあ一緒に食べようよ」
「あ、でも、お邪魔じゃない?」
 こんな時間に来て今さら、と言う気もするけれど、祐巳は素直に志摩子さんの手を取った。
「大丈夫だよ、食べたら一緒に可南子の家に行こうよ」
 
  
 自分が冷静でないことは判っている。いつもの自分らしく思われていないのだろうなと言うことも。
 それでも、どうしても自分を止めることができなかった。
 最大限に努力して、昨夜から一晩だけ待ったのだ。これ以上待つことなんてできるはずがない。
 乃梨子に会いたい。
 会って話をしたい。
 話をして誤解を解きたい。
 ただそれだけ。それだけのことなのに。
 何故それがこんなにも難しくなるのか。
 昨夜、乃梨子が突然出て行ってしまった後…。
 最初、乃梨子は自分の家に帰ったものだとばかり思っていた。
 落ち着く時間を見計らって電話を掛けようとした。時間はかなり遅くなっていたが、今夜は乃梨子の家には乃梨子しかいないはずだった。そもそも、一人きりになるのは物騒だという理由もあって志摩子の家に泊まるはずだったのだから。
 電話には誰も出なかった。
 事故。最初に浮かんだのはその言葉だった。
 それとも、誰かの所。
 乃梨子の友人関係を思い浮かべようとしたけれど、ほとんど想像することができない。
 志摩子は、いかに自分が乃梨子のことを知らずにいるかを痛感した。友達の一人すら、名前を知らないのだ。
 いくら考えても、出てくるのは二人だけ。
 黄薔薇のつぼみの松平瞳子と、紅薔薇のつぼみの細川可南子だけ。
 それに、考えてみれば乃梨子と可南子ちゃんが仲がいいという話は聞いたことがない。瞳子の場合は、一方的にだけれど親友宣言をしている。
 それならば瞳子ちゃんの家か。
 確かに、瞳子ちゃんの家だったら急なお客さんにも対応できるだろう。乃梨子の不作法はおいても、きちんと対応されるに違いない。
 受話器を持ち上げようとして、志摩子は瞳子ちゃんの連絡先を知らないことに気付く。
 部屋に戻り、机を探すと山百合会用の連絡網が出てきた。
 確か去年の夏に令さまが作った…
 去年。そうだ。ここに瞳子ちゃんの電話番号はない。あるわけがない。まだ瞳子ちゃんは山百合会のメンバーではなかった頃だ。
 自分は、何を慌てているのだろう。
 志摩子は連絡網を引き出しの中に戻しながら、額に手をやった。
 瞳子ちゃんの電話番号。祥子さまか由乃さんならしっているはず。
 こんな時間に卒業した祥子さまの所に電話を掛けるのは論外だろう。
 由乃さん。一年時からの友達。多分、親友と言っても許されると思う。彼女の家なら…。
 受話器を取り、番号を確認する。
「もしもし島津ですが」
「夜分遅くすいません。藤堂と申しますが」
「あれ? 志摩子? どうしたの、こんな時間に」
 聞き覚えのある声だと思っていたら、令さまだった。
「令さま?」
 慌てて自分の掛けた電話番号を思い返していると、
「ああ、志摩子、ここは由乃の家だから。たまたま私がいただけだよ。由乃に代わろうか?」
「すいません、令さま」
 眠たそうな声の由乃さんに代わる。
「どうしたの、志摩子さん。こんな時間に…」
「瞳子ちゃんの電話番号が知りたくて」
「瞳子の? こんな時間に? どうして?」
 当たり前の疑問が返ってきて、一瞬志摩子は返答に詰まる。
「乃梨子が瞳子ちゃんの家にいるみたいなのだけれど、乃梨子に連絡が取りたいのよ。あの子、携帯を持っていないから」
「は?」
「だから、瞳子ちゃんの家に乃梨子が…」
「志摩子さん」
 志摩子の言葉を遮る由乃さん。
「正直に言ってくれないかな。本当のこと」
「え?」
「乃梨子ちゃんが瞳子の家にいるなんて、ありえないよ」
「由乃さん、どうして」
「どうしてって、瞳子は今ウチにいるもの」
「え?」
「ウチで、令ちゃんと三人で遊んでたのに」
 それで令さまが由乃さんの家にこんな時間まで。
「志摩子さん? 乃梨子ちゃんと何かあったの?」
 志摩子は答えられない。
「ねえ、志摩子さん。黙ってちゃ判らないわよ」
 沈黙。
 やがて、由乃さんの声がやや柔らかく変化した。
「話が全然見えないんだけれども、私たちにできることが何かある? …ちょっと、瞳子、離しなさい。今は駄目……志摩子さん?」
「ええ…ありがとう。由乃さん。でも今は…」
「わかった。もし何か私たちにできることがあったら、私も、令ちゃんも、勿論瞳子も協力するからね」
「ええ…あ、一つだけ」
「なに?」
「乃梨子の行き先が判らないの…いったい、どこにいるのか…」
「…その口ぶりじゃあ、自宅にはいないって事なんだよね…」
「ええ」
「可南子ちゃんの所には?」
「え? どうして?」
「どうしてって、可南子ちゃんと乃梨子ちゃん、仲良かったじゃない。瞳子の所じゃなかったら次は可南子ちゃんの所を探すのが筋じゃないの?」
「でも、乃梨子と可南子ちゃんの仲がいいなんて…」
「何言ってるの、今のつぼみたちはみんな仲がいいじゃない。可南子ちゃんと瞳子だって」
「どうして瞳子があんなノッポと仲がいいなんておっしゃるの! お姉さまは勘違いしてらっしゃいますわ!」という瞳子ちゃんの声が受話器の向こうから微かに聞こえてくる。
「瞳子、喧嘩するほど仲がいいって言葉知ってる? ……志摩子さん、そういうことだから、可南子ちゃんの所にも連絡したほうがいいんじゃないかな」
「そう、そうね、由乃さん、ありがとう」
「うん。志摩子さんさえかまわないなら、私たちはいつだって話を聞くからね。それじゃあ…あ、ちょっと待って……どうしたの、瞳子」
 電話の向こうの相手が代わった。
「白薔薇さま、可南子さんのお宅にお電話なさるのなら、この時間だと紅薔薇さまにお願いしなければなりませんわ」
「祐巳さんに?」
「ええ。可南子さんの所はこの時間だと家族の方にご迷惑が掛かるかもしれませんの。ですからまずは携帯のメールで、電話してもいいかどうかを確認するんですわ。まあ、メールで用事がお済みになるのならばそれでおしまいなのですけれど」
「そのメールアドレスは?」
「ウチのパソコンには勿論覚えさせていますけど、瞳子自身は覚えていませんの。紅薔薇さまならば知っているはずですわ」
「ありがとう、瞳子ちゃん」
「いえ、他ならぬ乃梨……白薔薇さまのためですもの」
 もう一度礼を言うと、志摩子は電話を切り、そのまま祐巳さんの家に電話をかけた。
 由乃さんの家にかけた時間よりもさらに遅くなってはいるが、もうそんなことは言ってられない。
 電話に出たのは運のいいことに祐巳さん本人だった。
「志摩子さん? どうしたの、こんな時間に?」
「ごめんなさい。こんな時間に。実は、可南子ちゃんに連絡を取って欲しいのよ」
「可南子に? いいけど、どうして?」
 また同じようなやりとりを繰り返す。
「わかった。今から連絡してみるけど、折り返し志摩子さんの家に電話でいいかな?」
「ええ。あ、待って。乃梨子に家に連絡してくれるように言ってくれないかしら」
「うん。わかった。だけど、乃梨子ちゃんが可南子と仲良くなってくれて良かった」
「え?」
 また、友達が自分の知らない乃梨子を知っている。志摩子はそんな思いを心に留めた。
「だって、乃梨子ちゃん、可南子以上に友達を作りづらいタイプに見えたから」
「そう…」
 そんな風に、乃梨子は回りに見られているのか。志摩子にしてみれば、元気で活発な妹に見えるというのに。
 それとも、そうなっているのは自分の目の前だけ?
「それじゃあ、電話してみるね」
「ええ、お願い、祐巳さん」
 電話を切って、部屋に戻らずその場で待つことにした。
 待っている間、今の電話の内容を考えてみる。
 志摩子の知らない乃梨子…。
 志摩子にとっての乃梨子は、元気で活発な妹。自分とは違って社交的で、誰ともつきあえそうな子。
 それでも、押し掛け親友を自称する瞳子はまだしも、内に籠もるタイプであろう可南子とは、同じつぼみであるという繋がり以上に親しくなることなどないだろうと思っていた。
 けれど、可南子と乃梨子が親しいことを由乃さんは当然のよう受け止め、祐巳さんに至っては乃梨子を友達の作りづらいタイプだという。
 一体、自分は乃梨子の何を見ていたのだろう。
 今夜もそうだった。
 乃梨子の考えていること、望んでいることが判らなかった。
 それが乃梨子を…そして自分を傷つけてしまった。
 過ちなどはなかった。ただ、互いを理解していないが為のすれ違いがあっただけ。
 
 そう、それは今夜の話……
 
 一瞬、乃梨子は息をのんだ。
「どうしたの?」
「ん、ううん。なんでもない。突然だったから驚くって言うか照れるって言うか…」
 志摩子は微笑んだ。
「そう。そんなに緊張することはないのよ。自分の家だと思ってくつろいでくれていいのに」
 久しぶりに訪れた小寓寺。けれど、今回は寺の客ではなく志摩子の客として、志摩子の妹として。
 妹になって初めてのお泊まりである。小旅行などは既にしているのだが、家に泊まりに来るのはいろいろあって初めてとなった。
 乃梨子は前々から楽しみにしていたのだが、一週間ほど前から、妙な噂を聞いていて、少し不安に思っている部分もないわけではない。
 そして乃梨子の知る限り、その噂はかなり真実に近いような気がする。
 聖と志摩子の関係。
 先代の白薔薇さまである佐藤聖は、同性愛者だった。これに関しては乃梨子も知っている。何しろ、本人が隠していないし、今の薔薇さま達全員もその事実を知っている。また、学園内でもおおっぴらにこそ言われていないが、一部の者は知っているようだった。
 その聖の妹で、学園一の美少女とも言われている志摩子。
 確かに、二人の関係がごく一部にといえど噂にならないのがおかしいかもしれない。それにその噂はほとんどの場合、一笑に付された。
 相手にされなかった。のではない。
 信憑性を疑われた。のでもない。
 ああ、あの二人ならお似合いだわ。と皆は言ったのだ。そんなものは、スキャンダルにもならない。学業も行動も、模範的な二人なのだから。少なくとも志摩子は模範的であるし、聖も咎め立てられるような態度ではない。
 この二人は、かつてのあの二人とは違うのだから。
 かつての二人の悲劇は、学業や行動をおろそかにしたゆえのこと。かつての二人を知ってはいても、それ以上の深くを知らない一般生徒達は、聖と栞のことをそう捉えていただけだった。
 だからこそ今、無責任な噂は聖と志摩子を飾り立てる。
 そして、乃梨子の耳にもその噂は入った。
 女子校には良くある類の噂。そう笑い飛ばすには、乃梨子は女子校の不文律を知らなすぎた。
 根も葉もない馬鹿な噂。そう言って無視するには、乃梨子は佐藤聖のことを聞かされすぎていた。
 それを誰かに…祐巳や由乃、あるいは志摩子自身にでも相談すれば、ただの笑い話、お茶を飲みながらみんなで大笑いする話になっていたのかもしれない。けれど、それに気付くほど乃梨子はリリアン歴が長くない。
 結果としてその話は乃梨子の中に深く、澱となって残った。
 そして、乃梨子は、志摩子の家を訪れた。
(聖さまと志摩子さんの関係…)
 忘れる事などできなかった。二人の関係を自分がどう思っているか。
 嫌悪か、憧憬か、それとも嫉妬?
 自分の感情に折り合いをつけられないまま、疑惑と恐れだけが増えていく。
 部屋に通され、初めて見た志摩子の部屋を見回していると、志摩子の手が肩に触れ、その吐息をうなじに感じた。
 乃梨子は思わず突き放すように離れると、志摩子の顔をまじまじと見た。
「志摩子さん?」
「どうしたの?」
 当惑する志摩子の手には花びらが。
 おそらく、ここに来るまでにどこかでつけてしまったものだろう。志摩子はそれを乃梨子の肩に見つけて取ってくれたのだ。
「ん、ううん。なんでもない。突然だったから驚くって言うか照れるって言うか…」
 志摩子は微笑んだ。
「そう。そんなに緊張することはないのよ。自分の家だと思ってくつろいでくれていいのに」
「う、うん。そうだね。せっかく招待してくれたのに」
「緊張しないで」
「ごめんなさい、志摩子さん」
「謝ることはないのよ」
「うん。ごめん…あ」
 顔を見合わせて笑う二人。
 その日の昼食の席はにぎやかだった。
 志摩子の父はここぞとばかりにとっておきの愉快な話を披露し、志摩子は顔を赤らめながら注意するものの止まる気配はなく、挙げ句の果てには乃梨子との仏像談義が始まってしまう。
 昼の間、志摩子は寺のほうを手伝うのだが、乃梨子はそれを手伝うために早い時間から訪れていた。
 仏像の置かれてある寺の日常というものを一度きちんと体験してみたい。
 興味から出たとはいえその言葉に浮ついたものはなかった。だから志摩子は父に相談し、許可を取り、乃梨子を招いたのだ。
 乃梨子を招いて泊める許可ではなく、手伝わせる許可を。
 志摩子は慣れているが、乃梨子にとっては慣れないせいもあって結構な重労働だったようで、夕食前にはかなり疲れていた。
 夕食を志摩子と一緒に食べると、すぐに入浴する。
 広めの浴槽に浸っていると、志摩子が入ってきた。
「志摩子さん?」
「うふふ。今日は乃梨子も頑張ってくれたから、背中を流してあげようと思って」
 真っ赤になって首を振る乃梨子。
「遠慮しなくていいのよ」
「いや、あの…」
 数分後、結局、乃梨子はなすがままに背中を流されていた。
「綺麗な肌ね」
「う、うん…」
 この状況を警戒しているのか、それとも何かを待っているのか、乃梨子は自分でもよくわからなくなっている。
「あ、あの志摩子さん」
「なに?」
「今度は私が洗ってあげる」
「ありがとう」
 素直に背中を向ける志摩子。
 乃梨子は石けんを手にとって志摩子の素肌を見つめた。
(やっぱり志摩子さん、素肌も綺麗なんだな…)
「どうしたの? 乃梨子?」
「な、なんでもないよ。洗うね、志摩子さん」
「ええ」
(この背中に聖さまの手が…?)
 冥い想いが何故か募る。
(違うよ。違うよね、志摩子さん。でも……志摩子さんがもし…)
 こんな嫌な思考を止める方法があれば知りたい。乃梨子は、切実にそう望んでいた。
 
 堤防があるとすれば、それはまさに決壊寸前だった。
 あと一回。最後の一波で堤防は脆くも崩れ去る。
 
 まだ夜は早い。その気になれば、ギリギリ乃梨子の家に帰れる時間だ。けれども、明日の朝は早い。自然と夜も早くなる。
 志摩子の部屋に布団が二つ。
「いつもはもう少し遅いのだけれども、今日は特別」
 クスクス笑う志摩子。
「乃梨子も疲れたでしょうし、今日は早く寝ましょう」
 志摩子は浴衣に着替えている。
「さあ、乃梨子も早く着替えて」
「う、うん」
「ねえ」
 志摩子が乃梨子の肩を抱くように手を伸ばす。
「もし、乃梨子が良ければなのだけど…」
「志摩子さん?」
「眠る時間を少し遅らせても…いい?」
 乃梨子は振り向いた。
 志摩子が微笑んでいる。
 浴衣の襟口から見える素肌は抜けるように白い。だけど湯上がりの肌はほんのりと桜色。
「あ、あの、私…」
「なに?」
「志摩子さんが私でかまわないなら、私…」
「乃梨子?」
「私、志摩子さんなら平気だから…」
「乃梨子、なんの話をしているの?」
 当惑する志摩子に、乃梨子は逆上気味に言葉を続ける。
「だって、志摩子さんは聖さまと…」
 続く乃梨子の言葉に、志摩子の手に持っていた物が落ちる。
 かちゃん
「…だったって、だから志摩子さんが私を選ぶなら、私…」
 乃梨子の目が足下の異音に引きつけられる。
 散らばったトランプ。
 トランプ。眠る時間を遅らせる。
 乃梨子は志摩子の言おうとしたことをようやく理解した。
 そして、志摩子は乃梨子の言うことをしっかりと耳に留めていた。
「そう、乃梨子は私と聖さまをそんな目で見ていたのね…」
 乃梨子の顔が青ざめた。
「だって、だって…そんな……でも……」
 よろける足下にトランプがまとわりつく。
「そうなのね、乃梨子」
 志摩子は冷めたような口ぶりで言う。
(バカだ…私なんて馬鹿なこと……)
「志摩子さん…」
「今日はもう遅いわ。もう寝ましょう」
 トランプをてきぱきと片づける志摩子。
 乃梨子に有無を言わせない口調で、さっさと寝る支度を続け、電気を消してしまう。
 
 数分後、乃梨子は寝床を抜けだし、畳んでおいた服だけをそっと取ると、部屋を出た。
 気付いているはずの志摩子は何も言わない。
 乃梨子はさっきの冷ややかな口調よりも今の無視のほうが心に応え、いつの間にか涙目になっていた。
 そのまま、志摩子の家を出る。
(ごめんなさい。ごめんさなさい。私のせいで志摩子さんのお姉さまとの思い出まで汚して…)
 衣服の乱れた、半泣きの少女。
 可南子の家まで無事にたどり着けたこと自体が奇跡と言ってもいいだろう。
 
 
 トイレだと思っていた。
 もしかしたら泣いているのかもしれないとは思ったが、トイレで泣いたら戻ってくるだろうと思っていた。
 何故、自分はあの時声をかけなかったのか。寝床を出て行く気配には気付いていたのに。
 最初、乃梨子は自分の家に帰ったものだとばかり思っていた。
 落ち着く時間を見計らって電話を掛けようとした。時間はかなり遅くなっていたが、今夜は乃梨子の家には乃梨子しかいないはずだった。そもそも、一人きりになるのは物騒だという理由もあって志摩子の家に泊まるはずだったのだから。
 電話には誰も出なかった。
 
 
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