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大人達を責めないで
1「最初の挨拶」
 
 
「それじゃあ、僕と結婚すればいい」
 乃梨子は、その言葉を一瞬魅力的な提案だと思ってしまった。
 でも、でも…
 結婚なんて。
 確かに、今目の前にいる人が嫌いな訳じゃないけれど。
 志摩子さんと違って、法的にはなんの問題もないけれど。
「そうすると万事うまくいくんですよ」
 真面目の顔で言われると、もしかするとそうなのかも知れないと思えてくる。
 これが年の功から来る説得力というものか。
「そしてすぐに離婚する」
 え?
 乃梨子は首を傾げた。
 離婚?
「その時、慰謝料の名目で持っていけばいいんですよ。それなら誰にも文句は言われないで済む。いや、なんなら、もう少し待って遺産相続してもいい」
 タクヤ君は、紫の袱紗の上に置かれた仏像を示すと、あっはっはっと笑った。
「もっとも、そんなことをしたら、僕は今度こそ甲之進の奴に本気で怒鳴りつけられてしまうかも知れませんが」
「当たり前だ、このロリコン爺」
 背後からの声に振り向くと、甲之進がお盆を持って立っている。
「お袋が、お茶を出すフリして様子見てこいとさ。爺さん、ぜっんぜん、信用されてないな」
「失敬な。貴子の奴、父親を信用していないのか」
「うるさい、俺のお袋だ」
「ふむ、そりゃ失敬」
 乃梨子は可笑しいのを堪えながら、神妙な顔で甲之進の手からお茶を受け取ろうとした。
 お茶と言っても、グラスに入った冷たい麦茶である。
「あ、ど、どうぞ」
 ぎこちない仕草で甲之進はグラスを乃梨子に渡す。
「意識してるのは僕じゃなくて甲之進だと思いませんか? ノリちゃん」
 乃梨子が答えに窮していると、甲之進が慌てて首を振る。
「ふざけるな。俺は爺さんと違って、ジョシコーセーに興味はないッ!」
 肩をすくめるタクヤ。
「…残念だがノリちゃん。甲之進はシマちゃんの方が好みだそうだ」
「違うッ!!」
 笑い出してしまう乃梨子。
 
 今日は、タクヤ君の家に遊びに来ている。といっても勿論、目的はタクヤ君ではない。
 仏像を見に来たのだ。
 志摩子さんの家で見せられたものとは比べるべくもないが、単なる個人所有としては充分に羨ましいレベルのものだった。
 思わず、
「こんなのが家にあったらなぁ…」と呟いたところ、タクヤは冒頭の台詞で返してきたわけだ。
 勿論、冗談だというのは乃梨子も、そして甲之進にもわかっている。
 ただ、わかっていないのが一人いたのが、問題を嫌な方向へねじ曲げる結果となったのだった……。
 
 
 
 いつものように学校から帰ると、マンションの前で呼び止められた。
「貴方が、二条乃梨子さんかな?」
 初めて会う人。声にも姿にも見覚えはない。
「ちょっとお話したいことがあるんだけど、いいかな?」
 そう言われても、知らない男の人が相手ではどうしても警戒心が先に立つ。
「…どこのどなたか存じあげない方にのこのこ着いていくことはできません」
 男は驚いたように目を見開くと、苦笑しつつ頷いた。
「…妙な所は真面目なんだな」
 男は名刺を取り出した。
「これでいいかな?」
 志村甲太郎。
「…志村って…」
「そう。私の妻の父親の名前が志村タクヤ。これなら信用してもらえるかね?」
「タクヤく…タクヤさんの娘さんの旦那様?」
「そう。義父のことについて君に話がある」
「…なんですか?」
「ここで言ってもいいのかな?」
「…何か、聞かれると拙い話なんですか?」
 甲太郎は表情を醜く歪めた。
「おいおい。君は構わないのか? 呆れたな。恥知らずだとは思っていたが、ここまでとは」
 乃梨子の表情は硬くなる。
「恥知らず? どういう事ですか?」
「ふん。どうもこうもない。大人を舐めるのもいい加減にしろってことだ」
「一体…!」
 噛みつかんばかりの勢いで乃梨子が声を荒げた瞬間、
「何やってんだよ、親父!!」
 聞き覚えのある声と共に、青年が姿を見せる。
「…甲之進さん?」
「御免、二条さん。親父もお袋もなんか誤解してるんだよ」
「甲之進。お前は黙ってろ」
「これは爺さんの問題だろう? 俺は爺さんから直接頼まれたんだ。事これに関しては、親父もお袋も無視していい、というか無視しろッて言われてるんだよ」
 そのまま牽制するように甲之進は父親を睨みつけると、乃梨子へと近づく。
「二条さん。爺さん、事故で入院したんだ」
「ええっ、タクヤ君が?」
「あ、心配はないんだ。入院と言っても検査入院みたいなものだから」
 車に轢かれそうになって転んだ。それだけのことだと甲之進は笑った。
「もう年だから、その程度でも病院が五月蠅くて困る。って本人は至って元気にぼやいていたよ」
 けれど、笑った顔はすぐに真面目なものに変わる。
「ところが、爺さんが事故で入院したと聞いた連中が先走って騒ぎ始めて…それで…」
 甲之進は一瞬、口を閉じた。
「…馬鹿なことになっているんだ」
「馬鹿な事って」
「いや、二条さんは気にしなくていいよ。本当に馬鹿なことだから」
 甲之進は、そのまま父親を押し返すように二人の間に立つ。
「さあ、帰るぞ、親父」
「おい、甲之進、お前…」
「いいから、帰るんだよ!」
 乃梨子が対処に困っている間に、甲之進は父親を路肩に停まっていた車の中に押し込めると、自分は助手席に乗り込む。
「ごめん、二条さん。爺さんがまた連絡すると思うよ」
 車が走っていくと、乃梨子は溜息をついて歩き始めた。
 なんだか嫌な感じ。
 甲之進ではなく、甲太郎のほう。
 嫌な大人の目だった。
 リリアンに来てからは忘れてしまっていたが、公立中学に通っていた頃は時々気になっていた、嫌な大人の視線。
 そんなものがこの世の中にあることすら、もう忘れつつあったというのに。
 嫌なものを思い出してしまった。
 
 翌日は日曜日。
 乃梨子は、タクヤの見舞いに出かけた。
 怪我そのものは心配ないと聞かされてはいるものの、昨日の出来事はやはり気になる。
 もし、何か事が大きくなるようなら、早めに手を打つか対策を考えなければならない。場合によっては、菫子さんにも事情を話さなければならないだろう。
 基本的に菫子さんは放任主義だ。タクヤのことも、必要最小限のことしか知らない。ただ、誤解を招かないように仏像趣味のお爺ちゃんだと言うことは乃梨子が伝えているが、それだけなのだ。
 けれどもし、昨日出会った男が病室にいたら、タクヤ君には申し訳ないけれどその場でUターンして帰ってしまおう。乃梨子はそう考えていた。
 昨夜の内に、メールで確認しておいた病室をそっと覗き込む。
 ごく普通の六人部屋だ。
 半分ほどのベッドには人が横になっているが、面会時間のせいだろうか眠っている様子はない。
 一つのベッドの横に、甲之進を見つけた。他に誰かがいる様子はない。
「ごきげんよう」
 雑誌を読んでいた甲之進が顔を上げる。
「あ、二条さん…驚いたな。昨日の今日なのに…」
「疑問があると、解決しないと気持ち悪い性格なんです」
 甲之進の声を聞いて、ベッドの上で新聞を読んでいたタクヤが顔を上げる。
「おや、ノリちゃん。こんなところでどうしたんですか?」
 いつも通りの飄々とした言葉に、本気で呆れる乃梨子。
「どうしたって…お見舞いに決まっているじゃないありませんか。入院したって甲之進さんに聞いたから、折角やってきたのに」
「あはは。それはありがとう。それじゃあ早速…」
 スッと出されたタクヤの手の上に、乃梨子は小さな包みを置く。
「はい、お土産」
「ありがとう。甲之進くん、お茶でも煎れてくれませんか? 折角こうやってお客さんが来てくれたというのに、君は気が利かない」
「お茶って、何も用意してないだろ…」
「ロビーに自販機がありましたよ? 僕はコーヒー。ノリちゃんは?」
「あ、いえ、お構いなく」
「それじゃあ、ノリちゃんにもコーヒーを。勿論、冷たいやつね」
 手を出す甲之進。タクヤはせせら笑うように肩をすくめる。
「…入院患者には現金の持ち合わせがないんだよ。甲之進君」
「退院したら三倍返しだからな!」
 憤然とした様子で病室を出る甲之進。その背中を見送ると、突然タクヤはベッドから起きあがる。
「ノリちゃん。喫茶室にでも行きませんか?」
「え? でも、甲之進さんは…」
「…ああ見えても親思いな子でね、聞かせたくない話もあるんですよ」
 乃梨子はタクヤに誘われるまま、病院の喫茶室に入った。
 
 ある意味、単純な話だった。
 タクヤの遺産。資産家などと呼べるレベルではないが、そこそこのものは残すつもりがある。
 娘夫婦も、タクヤの老後を看取り、受け継ぐものはごく普通に受け継ぐつもりだった。
 そこに(娘夫婦にとっての)イレギュラーが発生した。
 乃梨子である。
 娘夫婦は、乃梨子とタクヤが同じ趣味を持つ人間同士であることをよく理解できていない。というよりも、乃梨子のような若い娘が、タクヤと同じ価値観を共有できるということが信じられないようなのだ。
 娘夫婦にしてみれば、乃梨子は何らかの算段でタクヤに近づいているように見えるらしい。
 つまり、タクヤの冗談「僕と結婚すれば、遺産が相続できますよ」を本気にしてしまったのは、他ならぬ娘夫婦だったと言うわけだ。
 
 そこまで聞いて、乃梨子は腹が立つと言うよりも呆れた。
 馬鹿馬鹿しい。
 どうしてそんな無粋なことを思いつくのが、よりによってタクヤ君の娘夫婦なのか。
「だから、当分はノリちゃんは僕の所へは来ない方がいい。とりあえず、誤解が解けるまで」
 もともと、それほど頻繁に行き来していたわけではない。そもそも冗談を言われたときが、始めての訪問だったのだ。仏像を見に行くという目的さえなければ、自宅へ行きたいと思うことなどなかったのだから。
「そもそも、あの仏像にはそんな価値など無いのだけれどね。純粋に金額にしたとしても」
 タクヤの告げた金額は、確かに高校生の乃梨子にとっては大金であるけれども、財産だと言って大の大人が目の色を変えるような金額ではなかった。
「なにか勘違いをしているんだよ。美術品と言えば全て高価だと思っている」
「それでも、私にはかなり高価…というよりもなんだか、もっと別の雰囲気に見えましたけれど…」
「別の? 高価ではなくて?」
「はい。…なんだか、うまく言葉では言えないんですけれど…。重要というか、大切そうな感じが」
 タクヤは安心したように笑った。
「うん。さすがノリちゃんですね。ちゃんとわかってくれている」
「え?」
 タクヤは、嬉しくてたまらないと言うようにひとしきり笑うと、言葉を続けた。
「あれは、僕の古い知り合いが、僕のために作ってくれたものなんですよ。だから、実際の料金以上に、僕には大切なものなんです。それをノリちゃんはわかってくれたんですね」
「ああ」
 それなら、理解できる。
 身近にもそんな例はたくさんあった。
 誰かのために心を込めて作ったものは、誰かのためにはとても大切なものとなる。
 自分と志摩子さん。由乃さまと令さま。祐巳さまと祥子さま。
 身近な例は枚挙にいとまがない。
「やっぱり、僕に何かあったときは、あの仏像はノリちゃんにもらって欲しいな」
「不吉なこと、言わないで下さい」
 コトリ
 二人の間に置かれる缶コーヒー。
「探したぞ」
 甲之進が不機嫌を隠そうともせずに言う。
「おや、見つかってしまいましたか」
「なに、こそこそしてんだよ」
「ふふ、逢い引きですよ」
「…バカ言ってないで。お袋が来てるぞ」
 甲之進の言葉と視線に、乃梨子は振り向いた。
 思った以上に近くに、その女性…貴子はいた。
「…ごきげんよう」
 貴子の言葉に、乃梨子は反射的に頭を下げる。
「ごきげんよう」
 頭を上げると同時に、貴子は言った。
 冷ややかに。多少に侮蔑を含んで。
「何が目的かは薄々わかっていますが、父に近づかないで下さい」
 立ち上がる貴子。その手をタクヤに伸ばす。
「お父さん。病室に戻りましょう」
「おい、貴子」
「お医者様が待っていますわ。検査を始めるそうです」
 乃梨子は立ち上がった。
「ああ、大丈夫です。タクヤさん。検査に行って下さい」
 そう言うと、甲之進と貴子に向かって頭を下げる。
「今日はこれで失礼させて頂きます」
 二人の返事を待たずに、乃子は歩き始める。
 無性に悔しかった。
 貴子の視線には見覚えがある。
 汚いものを見る目。
 まるで乃梨子がタクヤを騙していることを詰るような目。
 けれど、今ここで言い争いをしても始まらない。
 場所が悪すぎる。
 乃梨子は、無言で帰途に着いた。
 
 
 乃梨子はあまりの腹立ちのせいで、一つの事実に気付かなかった。
 貴子が「ごきげんよう」と挨拶したことに。
 
 
  −続−
 
 
 
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