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幸せですか?
「それで、祐巳は幸せなの?」
 
 
 
 祐巳は、玄関のロックを外す音に気づいて目を覚ました。
 慌てて時計を見ると、日付はとうに替わっている時間だった。
 また、テーブルにうつぶせたまま眠っていたらしい。今月、それどころか今週で何度目だろうか。
 そう考えて、ようやく今日が土曜日だと気づく。それとも、日付が替わっているので日曜日だろうか。
「祐巳、まだ起きているの?」
「お姉さま、お帰りなさい」
 祐巳は大急ぎで鍋を火にかける。すぐに思い直して、皿にシチューをよそおった。
 電子レンジの扉を開いたところで、祥子が姿を見せる。
「今、すぐにシチューを温めますね」
「ああ、食事はいいわ。食べてきたの。それよりも、お酒を頂戴」
「お酒…ですか?」
「ええ、この前のワインがまだ残っていたわよね」
「あの……」
 祐巳はシチュー皿を戻しながら、消え入りそうな声で言う。
「ワインは、もうないんです」
「あら、そうなの? おかしいわね」
「ごめんなさい。飲んでしまいました」
「そう。祐巳が飲んでしまったというのなら、別に構わないけれど。それじゃあ、新しい物を開けましょう」
 まさか買い置きがないとは言わないわよね。と言外の圧力を込めながら、祥子はソファに座る。
「飲み過ぎですよ、お姉さま」
「そんなことはないわ。二日酔いになったことはないし、きちんと仕事はできているもの」
 それはそうだろう、と祐巳は心の中でため息をついた。
 大学を卒業して、祐巳と同居するようになってからの祥子は、小笠原家の中でめきめきと頭角を現していた。
 影では「小笠原の女帝」とまで呼ばれていることを祐巳は知っている。
 そして、そうとまで呼ばれるようになった原因が自分だともわかっている。
 独り身の祥子には敵が多い。本来なら夫の一族から得られるはずの庇護が全くないのだ。普通の社会人ならまだしも、権力争いを必須とされる世界では、それは致命的な弱点であった。
 柏木さんや瞳子のフォローはある。けれど、それも所詮傍系なのだ。実力を兼ね備えて現場に留まっている柏木はまだしも、女優の道を選んだ瞳子には権力争いへのフォローはほとんど望めない。
 そして柏木には、結婚相手の一族への配慮がある。祥子だけをバックアップするわけにはいかないのだ。
 正確には祥子は独り身ではない。しかし、現代社会では祐巳は祥子の伴侶とは認められない。その異端性が祥子への風当たりの強さにもなっている。
 それでも、祥子は祐巳を選び、祐巳は祥子に答えた。
 友人達の祝福を受けた二人は、確かに幸せだった。
 しかし、世間には様々な人間がいる。所詮自分たちが少数派であることを知るのには、さほどの時間は必要なかった。
 有形無形の圧力をはねのけるために、祥子はがむしゃらに頑張った。元々有能であった祥子が、誰からも後ろ指を指されることのない実力を身につけるのも当然だった。
 酒量は増えている。
 食後のワイン一杯が、いつの間にか食事無しのワインになり、一杯が二杯に、やがてボトル半分に……。
 飲ませないようにするためには、祐巳が傍についていなければならない。一人だと、祥子はつい飲み過ぎてしまうからだ。
 そして、疲れ切って眠る。
 祐巳は気づいていた。
 いつの間にか、自分は祥子の姿をほとんど見ていないことに。
 祐巳が見ているのは、飲んでいる姿と眠っている姿だけ。
 笑っている姿すら、最近ではほとんど見たことがない。
 いつか、元に戻るときが来る。
 また、リリアンの頃のように二人で笑うときが来る。
 祐巳はそう信じていた。勿論、祥子さまへの想いを失ったわけではない。
 
 このままではいけない。と祥子も感じていた。
 祐巳の顔をまともに見ていない日が何日続いたのだろう。
 朝食は会議をしながら。
 昼食は会社で。
 夕食は社外の実力者と。
 家で口にする物と言えば、お酒だけ。そして、祐巳が差し出すおつまみのような物。
 祐巳が脅えるような顔つきになっていることも、祥子は気づいている。その原因が自分であることも。
 こんな風になるために、自分は祐巳を無理矢理自分の世界に引きずりこんだのだろうか。
 違う。自分はただ祐巳を愛しているだけ。愛している者と傍にいたい。それが不幸を招くなんて、最初は思いつきもしなかった。
 けれど、現実はこれだ。
 祐巳への想いを失ったわけではない。それは声を大にして言うことができる。
 自分は、祐巳を不幸にしているのだろうか。
 祐巳の無邪気な笑顔を見たのは、いつだろうか。
 いや、祐巳とまともに会話をしたことすら、いつのことなのだろうか。
「今日の夜からの予定は?」
「松平様との会食となっております」
 秘書の言葉に、祥子は俯き加減だった顔を上げた。
「松平?」
「はい。松平瞳子様ですが」
 一瞬、記憶が混乱する。
 秘書にスケジュールを尋ねるのは、確認に過ぎない。祥子は自分のスケジュールは自分で覚えている。今夜は確かに会食の予定だった。
 しかし、その相手は瞳子ではなかった。それは間違いない。
「すいません。先方から、急に変更を告げられまして。先方の代理が松平様だそうです」
 祥子は記憶を探った。確か、今夜の会食の相手は……。
 祥子の携帯がメール着信を告げる。この着信音は、リリアン関係者に割り当てたもの。
『知り合いに頼んで、お姉さまとの会食を乗っ取らせていただきました。ちなみに瞳子は、急にキャンセルされても一向に構いませんよ? 祐巳さまによろしくお願いいたします』
「瞳子……」
 いかがなされましたか? と尋ねる秘書に祥子は首を振った。
「なんでもないわ。それより今夜の会食は、私一人で出向きますから。貴方は早く帰りなさい」
「よろしいんですか?」
「たまには、ね」
 秘書は一人ではなく数人いるので、全員が祥子のように連日の超過勤務というわけではない。それでも、他についている秘書よりは勤務時間が長いのだ。
「ありがとうございます。娘が喜びます」
「そう、それは良かったわ」
 
 手料理を。
 どんな豪華な料理よりも。
 祐巳に食べさせたいのは自分の手料理。逆に、祐巳に食べさせて欲しいのは祐巳の手料理。
 いそいそと食材を買い込んだ祥子は、あえて連絡をせずに自宅へと戻った。会食がないと言っても、普通の会社員よりは遅い時間だ。だけど、普段に比べれば充分に早い。
 祐巳が驚くなら、それがいい。むしろ、驚く顔が見たい。
「祐巳?」
 玄関を入り、声をかける。
「祐巳?」
 驚いて声もないのだろうか。
「祐巳?」
 祥子は少し不安になった。
 祐巳の姿がない。
「…祐巳?」
 確実なのは、祐巳がいないこと。
 
「それで、祐巳は幸せなの?」
「うん」
「…即答できるなら大丈夫かと思うんですけど」
「乃梨子ちゃんの言うとおりよね。心配して駆けつけて損しちゃったわ」
「私は、おかげでお久し振りに皆さんに会えて嬉しいです」
「皆さん?」
「特に志摩子さんに」
 うふふふふふ、と笑う志摩子。久し振りに会ったせいか、飲むピッチが早い。
「そうね、乃梨子。いいこと言うわ」
「それよりも私は、志摩子さんに酒乱の気があったことの方が驚きだわ」
「酒乱と言うほどでもないですよ。明るくなるだけですから」
 祐巳は集まった一同を見渡して、不思議な充足感を覚えていた。
 瞳子と令、そして祥子はいないけれど。当時の山百合会のメンバーが四人がけのテーブルを占拠して、昔話が飛び交っている。
 つい、由乃に電話して、ほんのちょっと愚痴をこぼしてしまった。
 その日の内に、いきなり由乃から呼び出しが来たのだ。
「飲むわよ!」と。
 教えられたお店にやってきた祐巳を迎えるのは、志摩子と乃梨子を加えた由乃だった。
「令ちゃんがいなくて私も寂しいの」
「まあまあ、由乃。寂しいのは私も一緒だから」
「そうよね。満足しているのは志摩子乃梨子だけ。まあ、イヤらしい」
「由乃さま、なんですか、それ。誤解を招くようなこと言わないでください」
「誤解かなぁ?」
「誤解じゃないわよねぇ、乃梨子」
「志摩子さん、飲み過ぎだよ…」
 祐巳の携帯が鳴った。
「あれ? 誰だろう?」
「瞳子ちゃんか可南子ちゃんじゃない? 一応声をかけようとしたんだけど、二人とも留守電だったからメッセージだけ入れておいたのよ」
「お姉さま?」
 着信画面に驚く祐巳。
「祥子さま? こんな時間に?」
 話を聞かされていた一同が困惑する。この時間にはまだ帰ってこない。そう聞いていたから、一同は祐巳を呼び出しのに。
「…はい、もしもし、祐巳です」
 その瞬間、祐巳の隣の由乃にまで聞こえるような大声が携帯から聞こえてきた。
「祐巳! どこにいるの!」
「お姉さま、落ち着いて下さい。今、由乃さん達と一緒なんです」
 途切れ途切れの大声に、祐巳は思わず顔をしかめてしまう。
 一方的にまくし立てられ、通話は切れる。
「……ほとんど聞こえていたわよ」
 呆れるように呟く由乃。
「…よっぽどせっぱ詰まっていたんでしょうか?」
「祥子さま、ものすごい剣幕だったわね」
「とにかく、祐巳、帰った方がいいんじゃない?」
「そうですね。どうやら、祥子さまも偶然身体が空いたようですし。私たちは祥子さまに比べれば断然暇ですから」
 ごめんね、と言いながら席を立つ祐巳。
 三人は祐巳を見送った後も、何となく居残っていた。
「それにしてもビックリしたわ。祥子さまのあんな大声なんて、リリアン時代でも聞いたこと無いわ」
「運というか、タイミングが悪かったんですね」
「祐巳さま、大丈夫でしょうか」
「そんな心配はあの二人に限っては無用よ。祥子さまが本気で祐巳に腹を立てるなんてあり得ないわ」
「それならいいんですけれど」
「それにしてもあの二人、すれ違ってばかりいないで、上手くいって欲しいわね」
「それはそうよ」
 
 三人の座る席から少し離れたところで、一人の背の高い女性が静かに立ち上がった。
 三人の内の誰かが見ていれば声をかけたであろう彼女は、そのまま無言で勘定を済ませると店を出た。
 まるで、祐巳の後を追うように。
 
 
  ―続―
 
 
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