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幸せですか?
2.「それで、祐巳さまは幸せなのですか?」
 
 
 
 ヒステリックな声を祐巳は覚悟していた。
 無断外出は自分に非がある。せめてメモの一つも残しておけば、お姉さまがあれだけ怒ることもなかっただろう。
 それに関しては、一言の弁解もない。
「すいません、お姉さま」
 玄関を潜った祐巳の第一声はそれだった。
「うっかりしてました」
 返事は帰ってこない。
 ある意味、それは罵声よりも恐ろしいことに祐巳には思えた。
「お姉さま?」
 恐る恐る食堂へ入ると、祥子がテーブルに突っ伏せている。
 横にはワインのビンが転がっていた。
「お姉さま…」
 驚きよりも暗澹たる思いで、祐巳は祥子の肩に手をかける。
「お姉さま、起きて下さい」
 こんなにも、お姉さまは追いつめられているのだろうか。
 自分が追いつめてしまったのか。
 家でお姉さまの帰りを待つべきだったのかもしれない。
 けれど……
 それは、閉じこめられているのとどう違うというのか。
「お姉さま、服を脱いで、ベッドで寝ないと…」
 唸るような声で返事をしながら、祐巳は祥子を背負うようにして寝室へ入る。
 支度をさせ、ベッドの中に潜り込ませる。そうしておいて、祐巳は食堂に戻った。
 祥子の空けたワインボトルが一つ。半分ほど空いたボトルがもう一つ。しめて一本半だ。十二分に飲み過ぎの域に達している。
 これでまた、明日の朝は必要以上にシャワーを浴びて清潔にしてから出かけることになる。ろくな会話をする時間もないだろう。
 こうやって、祐巳がベッドに運んだことすら、うっすらとしか覚えていないのだろう。いつものこと。そう、いつものことなのだ。
 祐巳は、新しいグラスを手に取っていた。
「お姉さま…」
 呟いて、空いたボトルの中身をグラスに注ぐ。
 ふらつくほどに酔っぱらってもいい。
 理不尽に怒鳴りつけられてもいい。
 だけど、忘れられるのは嫌だ。
 それが嫌な記憶だとしても、忘れられるのは嫌だ。
 お姉さまと一緒に暮らすことができた。
 お姉さまが頑張っている理由もよくわかっている。
 これが自分の望んでいた世界なのだろうか?
 自分はただお姉さまに無理な負担を背負わせているだけなのではないのだろうか。
 不幸にしか続いていない道。そんな道が、世間にはあるというのなら…
 祐巳は、グラスの中身を飲み干した。
 
 後から考えれば、「油断」の一言で説明できることなのだろう。
 けれど、その瞬間はそんなことなど思いもしなかった。
 いつものように、慌ただしく出かけていくお姉さま。言葉を交わすどころか、朝食を摂る暇すらない。
 日課のようになったため息と共に、祐巳は朝食を片づける。
 時計を見て、今日のスケジュールを考え始めたところにインターホンが鳴った。
 見ると、マンションの共同玄関ではなく、各戸別の玄関のインターホンだ。
 来客ならば、まず共同玄関を開けてもらわなければならない。
 だから祐巳は、お姉さまが何か忘れ物に気づいて戻ってきたのだと思った。
「はい」
 ろくに確認もせずに玄関のドアを開ける。
「お久しぶりです、祐巳さま」
「…可南子ちゃん?」
「はい。祐巳さま。本当にお久しぶりですね」
「どうして……?」
 この住所は誰にも教えていない。知っているのは祐巳と祥子のそれぞれの家族、そして家捜しに協力してくれた柏木だけ。あとは、それこそ由乃や瞳子ですら知らないのだ。
「入ってもよろしいですか?」
 呆けていた祐巳は、慌てて可南子を招き入れる。
「勿論よ」
「失礼いたします」
 可南子はゆっくりと、不躾にならない程度に室内を眺めている。
「ここで、祐巳さまは祥子さまと暮らしているんですね」
「そうね。どれくらいになるかしら」
 可南子の表情が微かにしかめられる。その視線が、一カ所に止まっていた。祐巳はそれを追い、ワインのボトルに気づく。
 昨夜のままの状態で置かれているボトルが二つ。
「噂には聞いていましたけれど。違いなかったようですね」
「可南子ちゃん、噂って…」
「小笠原の女帝の噂ですよ」
「それって、お姉さまのこと…」
「そうです。小笠原祥子のことです」
 ワインボトルを片づけようとする祐巳を制する可南子。
「それは夕べ、あの人が飲んだ物なんですね」
 祐巳を引き寄せながら、可南子が詰問する。
「祐巳さまを待っている間に飲んだのですね」
「それがどうしたのよ。可南子ちゃん、どうしたの?」
「飲み過ぎではありませんか?」
「二日酔いになっているわけでもないし、きちんと仕事はできているもの。飲み過ぎなんて事はないわよ」
 それが祥子の言葉と同じであることに祐巳は気づいた。
 …同じ言い訳。
 頭に浮かんだその言葉を祐巳は必死で打ち消す。
「祐巳さま!」
 可南子に腕を引かれ、祐巳はつんのめった。一瞬宙に浮きそうになった身体を可南子が受け止め、腰に手を回して抱きかかえる。
 祐巳は可南子の顔をすぐ近くで見上げていた。
「…可南子…ちゃん?」
「…祐巳さま」
 何故か、可南子は泣きそうな顔をしていた。
 その表情に祐巳は見覚えがあった。
 まるであの日のような……
 あの日、温室で祐巳を見つめていたような…
 祐巳を天使だと崇めていたときの…
「本当にそれで、祐巳さまは幸せなのですか?」
 今は、あの時とは決定的に違う。
 あの時は、祐巳は知っていた。
 いずれ、リリアンを旅立つ日が来ることを。
 天使ではいられないということを。
 何よりも…きっと祥子さまが自分を救ってくれるだろう事を。
 でも、今は…
 今は…
 今は、祐巳は感じている。
 戻りたい。
 何も知らなかったあの頃に戻りたい。
 全てから庇護されていたあの頃に戻りたい。
 ……それが天使と呼ばれる状態だというのなら……
「答えて下さい、祐巳さま!」
 可南子の言葉でようやく、祐巳は自分が沈黙していたことに気づいた。
「祐巳さまは、今、お幸せなんですか?」
 勿論。と答えたかった。
 お姉さまとの暮らしに満足している、と答えたかった。
 そして、可南子ちゃんの腕から離れ、お茶を煎れて、昔話をして笑い合う。
 お昼ご飯を一緒に作って、可南子ちゃんの得意料理なんかを尋ねて、夜まで一緒にいよう。
 一緒に夕飯の買い物をして、帰ってくる祥子さまを驚かせよう。
 お姉さまと可南子ちゃんと三人で、思い出話に花を咲かせよう。
 …無理
 心のどこかで誰かが呟いた。
 …お姉さまは今日も帰ってこないから
 どこかで誰かが笑っていた。
 …でも寂しくないよ、今夜は
 誰かが笑ってる。
 …可南子ちゃんと二人で待てばいいの
 それは嘲笑かも知れない。
 可南子ちゃん、強く抱きしめすぎだよ。
 祐巳は心の中で呻いた。
 強く抱かれすぎるから、離れることができない。例え言い訳でも、祐巳はそう自分に言い聞かせる。
「どうして…答えてくれないんですか…祐巳さま?」
 答える必要なんてない。当たり前すぎる答なのに。
 小笠原祥子と一緒にいる福沢祐巳が幸せでないわけがないのに。
 小笠原祥子と一緒にいる福沢祐巳は幸せでなければならない。
 幸せでなければならない。
 幸せを演じなければならない。
 違う。演じてなどいない。本当に、幸せなのに。
「…幸せに決まっているじゃない」
 口調は、絞り出すような言葉を裏切っていた。
 強く抱きしめられるのを祐巳は感じた。
 全身を覆うような抱擁。身体も精神も包み込むように。体温だけでない暖かさが全身に行き渡る。
 こんな風に抱きしめられたのは、いつのことだっただろう。
 お姉さまに抱きしめられたのは、いつのことだっただろう。
「…可南子ちゃん、私は幸せなんだよ…」
「ええ。判っています」
 抱擁は続いていた。決して緩むことのない暖かみが祐巳の全身を縛っている。
「私、このまま逃げますよ」
 可南子は呟いた。
「このまま、祐巳さまを連れて逃げますよ」
「駄目…よ」
「だったら、抵抗して下さい…私を振り払って下さい…私を拒否して下さい!」
 抱き合ったまま、二人は泣いていた。
「駄目…可南子ちゃん…」
「どうして……どうして…」
「だって……お姉さまが…」
「忘れて下さい」
 祐巳は可南子を見上げた。
 涙。
 可南子も泣いている。
「忘れて下さい。祐巳さまを泣かせるような人のことは、忘れて下さい! それができないのなら、私が忘れさせてあげます。だから…」
 ひどい過ちだ。
 これは、ひどい過ちなのだ。
 それは判っている。祐巳も、可南子にも。
 それでも、よりひどい過ちからは逃げられるのかも知れない。
「可南子ちゃん……離して…」
 ほんの少し、二人の間に空間が生まれた。
「祐巳さま…私は……」
 祐巳が自由になった手をあげる。
 指先が可南子の唇に触れていた。
「…身支度をさせて…」
 
 
  ―続―
 

 

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