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SWEET&BITTER
〜粒チョコの波紋〜
中編
 
 
「ごきげんよう」
 瞳子を招き入れる可南子。
「ごきげんよう、可南子。失礼しますわね」
「材料はもう準備してあるから、お昼を食べてから始めることにしましょうか?」
「ええ」
 瞳子がコートを脱いだ姿に、可南子は目を丸くする。
「まあ、面白い格好で来たのね」
「汚れてもいい服装で来たんです」
「なるほど、確かに、汚してしまうかもね」
 瞳子は、明らかにサイズが大きくだぶついたトレーナーを着込んでいた。袖が長くて、瞳子の手は半分隠れてしまっている。
 瞳子の背格好だと、その姿が妙に愛らしい。
「……可愛い」
「何か言った? 可南子」
「別に。何も」
「そう?」
「よくそんなサイズのがあったわね。祥子さまのお下がりというわけでもないみたいだし」
「前にサイズを間違えて買ってきてしまったのを、汚れてもいい用に置いておいたんです」
「そういうのなら、私もあるけれど。そうね、私も着替えるわ。汚すのは嫌だし」
「可南子さんも?」
「ええ。着替えるわよ」
「そうじゃなくて、服を汚してしまうような腕なんですの?」
 少し考えて、可南子は答える。
「自分で作るだけなら、そんなに気にはしないのだけれど。今日は貴方に教えるんだから、服の汚れなんて気にしてられないのよ」
「それじゃあ、私のために?」
「そうとも言うわね。別に気にしなくてもいいわよ。それよりご飯にしましょう?」
 パスタを食べ終えて、少し食休み。
「乃梨子さんに大まかには聞いているけれど、バレンタインのチョコレートでいいのよね? 細かいリクエストはないって言われたけれど、それでいいの?」
「ええ。初めてなんですから、細かい注文がつけられるとは思ってませんわ。それに、簡単なものでも、自分で作ることに意義があると思うから」
「まあ、市販のモノを溶かして型を作り直すだけなら、そんなに手間じゃないけれど…。それだけじゃさすがに簡単すぎてつまらないわ。一応、アマンドショコラのつもりで準備しているけれど、構わない?」
「可南子に任せるわ」
 瞳子の拳が握られているのを見て、可南子は微笑む。
「そんなに緊張しないで。市販のチョコレートを溶かしてアーモンドに絡めるだけよ」
「お願いします」
 神妙な瞳子の言葉に、可南子は頷いた。
「任せなさい。きっちり教えてあげるわ」
 
 台所に立つ二人。
「アーモンドはもう焼いてあるわ。後でオーブンから出しましょう」
 まな板と包丁、そしてチョコレートを並べる。
「それじゃあ、チョコレートを溶かす前に刻むわよ」
「刻むの?」
「そうよ? そのままだとダマになりやすいし、時間もかかるわ」
 チョコレートをざくざくと刻んでいく可南子。
 長方形のチョコレートの角から斜めに、小さく、細かく。
 二割ほど刻んだところで手が止まる。
「さ、瞳子、やってみて」
「え」
「ここからは貴方もやるの。アーモンドはオーブンに入れるだけだったから別にいいけれど。ここからはちゃんと手を動かすのよ」
「あの…」
 瞳子がためらいがちに可南子を見上げる。
「なに?」
「私、初めてなの」
「え? まるっきり初めてなの?」
「お恥ずかしい話ですけれど、包丁をまともに触ったことがないんです」
「家庭科の授業は?」
 言ってから可南子も気付いた。そういえば、瞳子が包丁を握っている姿の記憶はない。混ぜたり茹でたり捏ねたり泡立てたり、皮むき器やミキサーを使っているのは見たことがある。
「上手く外れていたのね?」
「頼んだわけではないのですけれど、何故だかそういう巡り合わせみたいで」
 おろおろしている瞳子を見かねたクラスメートが手を出していたのだろう。別にサボろうとしているわけではないし、包丁以外のことは普通に手伝うのだからどうということはない。それに、クラスメートから孤立していた時期には、調理実習はなかったと記憶している。被服の実習は一人で黙々とやっていても目立たない。
「いいわ。とりあえずやってみて。持ち方くらいは想像できるでしょう?」
 怖々包丁を持つ瞳子の背中につく可南子。こういう場合身長差は便利だった。
 背中に密着して、瞳子が包丁を持つ右手に上から自分の手を重ねる。そして左手は同じく左手の手首を掴む。
 瞳子の髪に顔の下半分を埋めるようなポーズ。
「さあ、これでやってみましょう。そんなに緊張しないで」
 
 
 緊張しないで、と言われても無理な相談だ、と瞳子は心から思った。
 本人には絶対話さないし、祥子さまがそんなことを言うとも思えないので可南子は知らないだろけれど、瞳子は実際に背の高い女の人に弱い。
 小さいときから祥子さまにつきまとったり、優お兄さまに遊んでもらったりしていたのだ。年上に甘えることが上手だと自分でも思うし、そうすることが心地いいと感じるようになっている。
 相手が男なら、異性への警戒心も湧くのだろうけれど(優お兄さまは例外中の例外、大例外)、相手が可南子ではそうもいかない。それに、乃梨子と可南子に対してはどうしてもガードが甘くなってしまう。ある意味では、お姉さま以上に二人には弱いのだ。
 可南子は、時々ぎょっとするほど大人びて見える。家の事情がそうさせているのかも知れないけれど、それは可南子の魅力なのだ。
 さらりとこぼれた一房の黒髪が、瞳子のうなじを撫でる。
 背後から両手を握られて、自由を奪われている。そんな連想をしてしまうともう駄目だった。
 まるで、背後から可南子に抱きすくめられているような気がしてくる。
 可南子の吐息の当たる頭頂が熱い。頭のてっぺんに神経が集まっていくような感覚を瞳子は覚えていた。
「しっかり持つのよ、危ないから」
 耳元に囁かれたかのような錯覚に、瞳子は頬を染める。
「見えないわ」
 可南子がしっかりと密着するように身体を動かす。
 今の可南子が着ているのは、瞳子と同じく汚れてもいいようなトレーナー。でも大きく違うのは、瞳子のトレーナーはサイズが大きめ、可南子のトレーナーはサイズか小さめ。その上、下は中学の部活で使っていたという古いスパッツ。
 体型のシルエットがハッキリとわかる姿で、可南子は瞳子に背中に密着しているのだ。
 背中の柔らかい感触に、瞳子は動悸が激しくなるのを感じた。
 ――何を考えているの?
 警戒信号。自分の想いが漏れないように。
 こんな風に、可南子に身体を密着されてドキドキしているなんて。
 乃梨子さんと志摩子さまじゃあるまいし。どうして私がこんな風に。
「どうしたの? 早く手を動かして?」
「は、はい」
 慌てて動かそうとすると、可南子の手に力が入って瞳子の手が止められる。
「慌てないの。ちゃんと手元を見るのよ。こうやって…」
 瞳子の手に被せられたまま、リズミカルに動く可南子の手。瞳子には、可南子に操られて軽やかに動く自分の手が自分の手でないように思える。
「リズムを覚えてね? 演技するつもりになれば簡単じゃない?」
 だけど、演技に集中すると、可南子に触れている感覚が遠ざかってしまう。
 …それに何の不都合が?
 自分の中で誰かが尋ねる。
 確かに、今習っていることに集中するのだから、可南子の肌触り(頭の中に浮かんだ連想を瞳子は慌てて打ち消す)など関係ない。ただ包丁に集中するだけでいい。
 手の力が抜けていく。
 このまま、操られるまま手を動かしていたら……
 手を握られたまま、身を任せて…
 背中から身体全体を包まれているような感覚。抱きしめられて、そのまま覆い尽くされてしまいそうな、それは決して窮屈ではなくて。ひどく自由な牢獄。身体が囚われていても心は落ち着いて。
 眠りに落ちる刹那、お気に入りの枕と温かく柔らかい毛布がそこにあることを知っている安心感。全てが自分を受け入れていることを意識するような、温かくて豊かな心地よさと快さ。
 自分がこのまま目をつぶりたがっていると意識したとき、瞳子は初めて気付いた。
 いつの間にか、可南子にもたれかかっている。
 可南子は何も言わず、瞳子の身体を支えていた。
「あ、可南子、ごめんなさい」
 慌てて離れようとして、瞳子はさらに気付いた。
 いつの間にか、包丁を手放している。そして、可南子の手が自分の手を優しく握りしめていた。
「瞳子の馬鹿」
 可南子の声が、甘く響く。
 
  −続−
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